冷気にすっかり馴染んでしまった身には、温められた部屋の空気は却って具合が悪いものなのかもしれない―――。 そんな事を思う傍からまたくしゃみが飛び出そうになって、慌てた私はどうにかそれを誤魔化すべく、わざとらしい咳払いをひとつ、もうひとつと繰り返してみました。 そうして、別段何事もないのだといった態で土方君の方を見れば、やはりというか何というか、あんなもので誤魔化されよう筈もない強い眼差しとぶつかりました。
「……急に温かくなったからでしょうか、何だか鼻の奥がむずむずしますね」
苛烈な目を真っ向から受けて、殊更のんびりとした口調で応えます。 それは彼を煙に巻こうという意図からではなく、相対する意義を放棄して投げ出しているからでもなく、日和見のような気持ちからでもなく、こうするのが今の彼に対しては一番良いのだと、腑に落ちたかのように理解したからで。 同じ強さで相対すれば無用の傷を双方が負う。 かといって相手にもせず流してしまえば、解る事も全く解らないままで、そればかりかおかしな誤解を積み重ね、その幻に囚われる。 以前の私ならきっと、誤解を育むばかりと薄々勘付いていたとしても、ひとつも傷付かずにいられる道を選んでいたでしょう。 理解し合う為に向きあって、だから無傷でいられる訳などない。人と関わりを持つという事は素晴らしい事でもありますが、ただ素晴らしいだけではない痛みも苦しみも悲しみも、そこにはあります。 以前までの私なら、さっと予測出来るそれらの痛みと引き換えに土方君と相対するなど、考えもしなかったでしょう。ふと思いついたとて、即座に打ち消していたでしょう。 土方君に嫌われているのだ、憎まれているのかもしれないと頑なに思い込んでいた、以前の私ならば。
「そういえば、庭からこちらに上がった時が面白かったんですよ」
どこか責めてでもいるような土方君に微笑いかけ、私は、火鉢の中で静かに爆ぜる炭へとゆっくり視線を動かしました。 表面は未だ黒いままの炭の、中は赤々と燃えていて、傍まで寄れば熱いほどの熱を発しています。 けれども火が付かぬままでは黒く冷たく、赤さも熱も微塵にも感じさせない。 それはどこか、何故だか土方君の有様を映しているような気がしました。 ぱち、と高い音を立て、赤々と燃える炭から火の粉が舞い上がり、やがて音もなく火鉢の中へと還っていく、その行方を惚(ほう)と見つめて息を吐くと、私はゆるりと話を続けました。
「随分長いこと、井戸端にいたでしょう?だからてっきり自分の体は冷え切ってしまっているものだと思っていたのですが―――」
先に部屋へと消えた土方君を追って、特に気を払う事もなく足を乗せた廊下の、拭き清められている板張りは驚くほどに冷たくて。
「――― 足を乗せてみれば、迂闊にも声を挙げそうなほど冷えているじゃないですか。それがとても驚きで。……けれど、そんな些細な事でも心底驚いてしまう自分が可笑しくて、可笑しくて」
いつも冷静沈着であるのを是としている身なれば、そのような様は決して誉められたものではないのでしょう。 でも、それを戒める気にはとてもならなくて、ふつふつと浮き上がるのはただ、己自身の事であるのに酷く微笑ましいような、そんな気持ちで。
「存外、私もまだ温かかったのだなと―――……ッ、くし」
ぽつりぽつりと話し続けていた、最中。 唐突に込み上がったくしゃみに抗う暇など、ある訳もありません。 今度こそ私は、土方君の前で誤魔化しようもないくしゃみをしてしまったのでした。 誓って、体が冷えているとか風邪を引き込んだとかいったものではありません。 私自身、剣術も嗜む身ですからそれなりに鍛練も積んでいます。そりゃあ勿論、永倉君や原田君に比べれば薄い体躯ではありますが、これでも見た目以上に頑健なのです。
だから、あなたがそうやって、思いつめるが如くに心配する必要など、どこにもないのに。
「……大丈夫、ですよ」
もっと火鉢に近付けと繰り返し言う土方君へ、私が向けた笑みは酷く曖昧になってしまっていたかもしれません。
「その内に、私の鼻も元通りに落ち着くと思いますから……」
大丈夫です、と繰り返し続けようとして、けれどもそれはぶつりと途絶え、土方君の耳にも己の耳にも、音として届くことはありませんでした。
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