投稿日:2006年03月16日 (木) 18時12分
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新国立劇場の研修生公演を見ました。 「ボエーム」の1,4幕のほか、同じプッチーニの「つばめ」の1幕という珍しいものをやったのですが、まずまずの出来栄えはいいとして、プロの筋書き を見たら、果たせるかな「階下に住むお針子のミミ」となっていました。 これほど有名なオペラなのに、日本ではこんな間違いが大きな顔で通用しているとは、本当に情けないことだと思います。 ミミがどこに住もうと、たいした違いは無いと思う方のため、何故それがこのオペラで大事なのか、最後に付け加えさせていただきます。 一つはこのオペラは、前にも言ったように作者たちも経験したボヘミアン生活を描いたものであること。ボヘミアンとは、若い芸術家の卵であって、大変な貧乏だが、夢と希望と誇りを持ち常に自由な生活をしている連中のことです。 ミミやムゼッタはそうした彼らの完全な仲間であって、同様に、大変な貧乏生活だが、やはり若さ、夢、希望、ささやかな誇りを持って自由な生活をしている。 言うなれば彼女たちはボヘミアンに最も近い存在として、同様にプッチーニが描こうとした人物なのです。 オペラにはありませんが、原作ではロドルフォもマルチェロも、後に有名になって、立派な生活を送ることになります。しかしこれらは実生活ではまれなケースであって、むしろ多くのボヘミアンは深刻な生涯を送っています。また貧乏生活というのも、決して生易しいものではない。ミミは原作では、施療の病院に入って、ロドルフォが一度見舞いに行き、喜ぶがもう一度行こうとしたのが手違いで引返してしまい、間違いを知って再度行きかけたその朝、ミミは一人で淋しく死んで、既に学生たちの実験解剖に回された後だったというのです。 オペラでロドルフォがミミの死に気が付かないのは、こうした原作を反映しているのですが、そうしたボヘミアンの不幸を代表するミミの部屋は、やはり屋根裏でなくてはいけないのです。
もう一つ重要なのは、下の部屋だと有名なミミのアリアも全く意味を成さないことになるからです。「屋根の上と空を眺めながら」というところもそうですが、それよりも「雪が溶けるときが来ると最初の太陽が私のもの」 この言葉は彼女の屋根裏生活の唯一の喜びと誇りを歌っているのであり、旋律がそれまではボツボツとレチタティーヴォ調だったのが、大きく歌い上げる見事なメロディ−に変わる。その意味、ミミの気持ちを感じ取れなければ、このアリアの美しさを全く理解しないことになります。そしてこのアリアだけでなく、このオペラ全体の音楽を感じ得ないことになるからです。
以上長々と書きました。私が書いたのはあくまでも私の独断であって、間違いも多々あると思います。もしも変なところがありましたら、どなたでもお教えいただけないでしょうか。 貴重なこのホームページで私見だけを述べて、申し訳ありませんでした。 KG生 |
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