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[953]「椿姫」読みました。 投稿者:京都のオペラ好き

投稿日:2006年04月18日 (火) 12時56分

さっそく原作(岩波文庫)を読んでみました。まず改めて感じたのは、主人公たちが、とても若い男女だったということです。(オペラではベテラン歌手が演じているのでヴィオレッタを落ち着いた女性とつい勘違いしてしまいます)マルグリットは、気品ある美貌を謳われながら、娘らしい蓮っ葉なしゃべり方をし、(字は6年前から書けるようになったらしい)派手好き遊び好き、結構な借金まであります。アルマンには誠実ですが、例の田舎の別荘の支払いはパトロンのおじいちゃん公爵にさせたりして、わりとちゃっかりしています。一方アルマンは彼女を初めて見たとき(コルチザンとは知らず)その美貌に強く惹かれ、町で彼女を見かけるたび顔色が変わり、動悸がしたといいます。つまり、アルマンは激しい一目ぼれをしてしまった。マルグリットもまたそれにこたえるだけの恋愛能力のある女性だったわけで(死期が迫っていたことも関係していると思いますが)、原作も基本的には若い男女の純愛物語でそれなりのリアリティがありました。しかしそうなるとどうしてもモデルのマリーが貴族の奥方で死にたがったという打算的な事実だけは宙に浮いてしまいます。この全くの矛盾を抱えたまま作家がこのような思い入れのある物語を成立させることは果たして可能なのでしょうかね。ラストの真実はどうだったのでしょうか。原作ではマルグリットは差し押さえの掛かった部屋でアルマンにも会えず、苦しみぬいて死にます。残されたアルマンへの日記が愛の証を物語るのです。読んでいてつい泣いてしまいましたが、真実のラストが違うとなれば、あの涙って・・・と馬鹿馬鹿しい思いもします。デュマが創作と割り切っていたのならいたしかたないことですが。もう一つ、少し話は変わりますが、周辺を調べているうち驚くべきデュマ一族にも興味を持ちました。一族はフランス人侯爵のひいおじいちゃんが、黒人奴隷のひいおばあちゃんに子供を生ませたことから始まり、ハーフのその子は勇壮無比なアレクサンドル将軍になり、さらにその息子(つまり父デュマ)は大ベストセラー作家で、稀代の道楽者に。あちこちに子供100人作ったとか。(ジェルモンとは正反対)なんだかオペラの主人公にありそうな波乱に満ちた人々なのです。子デュマはこういった豪放さと黒人の血を引くマイノリティの家系の子孫でもあったわけです。さらにデュマ家のイヴともいうべきひいおばあちゃんは、マリー・デュマ(農場のマリーの意)と呼ばれていたらしく、子デュマは、似た名前を持つマリー・デュプレシスに運命的なものを感じたのではと、ついつい想像をたくましくしてしまいました。





顔色が変わり動悸がしたといいます。

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[954]デュマ・フィスの椿姫投稿者:どくたーT@管理人
投稿日:2006年04月22日 (土) 13時36分
京都のオペラ好き様
書き込みありがとうございます。今週は出張(海外出張でもないのに2泊の出張は久しぶりでした)やらなんやらで忙しく、お返事が遅れました。申し訳ありません。

さて、残念ながら私は「椿姫」の原作を読んだことがないので、あまり的確なお返事が出来ないかもしれません。ご容赦を。

マリーは1840年、グラモン公爵の息子アジェノール・ド・ギッシュに見初められ、彼の愛人になります。アジェノールは彼女を徹底的に貴族的に教育し、このとき名前もマリーと変えているそうです。ギッシュこそ、アルマンのモデルの一人とされているそうです。

1842年にマリは、エドワール・ド・ベレゴーという18歳の若い伯爵と恋に落ち、パリ近郊の森の別荘でひと夏を過ごし、パリのダンタン通り22番地に住みます。このダンタン通り22番地こそが、小デュマが設定したマルグリッドの住所だそうです。ということで、エドワールもアルマンのモデル。デュマと知り合ったのが1844年、デュマと恋愛が始まったのが45年ごろと言われています。

デュマは父親の大デュマが大ベストセラー作家でしたので自由になるお金も多く、マリーと遊べたと言われています。結局小デュマがマリーと別れたのは小デュマが貢げるお金が少なくなったため、とも言われております。デュマは、マリーが亡くなったあと、マリーと深い関係にあった若い男性三人、即ち、ド・ギッシュ、ベレゴー伯爵、そしてデュマを合わせて一人の男性アルマンに構成しなおしているそうです。

なお、マリーが結婚した伯爵とはベレゴー伯爵であり、恋と打算と両方が関係していたのでしょう。

そう思うとデュマはマリーに対する追悼の気持ちはあったにせよ、基本的には自分の体験を基にして完全な小説を書いた、というのが本当だと思います。

デュマ一族の話、面白く読みました。大デュマが好色だったという話は何かで読んだことがありますが、こんなに波乱にとんだ方とは知りませんでした。

ちなみにデュマ家の当主の名は代々アレキサンドルで、おじいさんもアレキサンドル・デュマ、お父さんもアレキサンドル・デュマ、椿姫の作者もアレキサンドル・デュマです。普通、三銃士やモンテクリスト伯の作者をデュマ・ペール、椿姫の作者をデュマ・フィスと呼びますが、本名の中にペールやフィスが入っているわけではなく、区別のための呼称です。

デュマ・フィスのお母さんはカトリーヌ・ルペーというお針子で、子どもが生まれるとき、父親の大デュマが、大デュマの母親のマリー・ルイズと暮らすためにルペーの部屋から出て行ったために、デュマ・フィスは最初私生児とされてしまいました。デュマ・フィスが生まれた頃、大デュマは成功する前でしたので妻子を捨てて、自分の出世のためにがんばります。その結果、当時最高のベストセラー作家となったのですが、後年父に引き取られた小デュマは、父親のロマン小説を手本に「椿姫」を書いたようです。





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