投稿日:2006年03月26日 (日) 21時54分
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管理人さんの21日のご意見有難うございました。 一応お答えいたします。 ミミが隣りの屋根裏に住んでいるとして私が挙げたもろもろは、殆どがいわゆる状況証拠であって、物的証拠ではありません。 唯一の証拠性を持つのは、ミミの「厄介をかけるお隣り(VICINA)」という言葉であって、これも「近所」とも訳せるので、いわば50パーセントの証拠能力を持つだけです。裁判だったら証拠不十分の扱いとなるでしょう。
ただ考えたいのは、「ボエーム」は芸術作品であることです。 芸術作品は 1+2=3 のようには割り切れないのが普通だし、また作家の手を離れた作品は、鑑賞者がどう解釈しようと、それは観賞者の自由であって、他から押し付けることは出来ません。従って私が言わうとしたのは、ミミが屋根裏以外には住み得ないとは言えないが、屋根裏に住むと解釈するのが、この作品としては最も無理が無く、しかも強い感動をもたらすことを、多くの人に知って欲しいということだったのです。
先にも触れましたが、例えば「私の名はミミ」のアリアで「最初の太陽が私のもの、四月の最初の接吻が私のもの」というところで、それまでのボツボツしたレチタティーヴォ調から、急に大きく歌い上げる旋律に変わるのは、その前の「屋根の上と空」だけを眺める屋根裏部屋での毎日の生活の侘しさを感じ、パリの長い陰鬱な冬から、最初の春の太陽を見た(誰よりも先に)ときの喜びを感じなかったら、あの美しさを感じ取ることが絶対に出来ません。 それを感じないのは観賞者の自由ですが、それでは作品の見事さが勿体無いし、そんな見方ではオペラの本当の楽しさが分からないのです。 もしもモーツァルトの作品だったら、例えば「魔笛」のタミーノが日本の王子だろうが中国の王子だろうが、その音楽には殆ど関係しないでしょうが、プッチーニのオペラは全く違います。各登場人物の性格や感情、ドラマの詳細な展開がどう音楽と結びついているかを深く感じ取って、初めてその本当の価値が分かるのだと思います
話は変わりますが、昨日中野のゼロホールで、東京オペラプロデュースの「カルメン」を見ました。終幕の演出がなかなか面白かったほか、注目されたのは、日本の「カルメン」としては恐らく初めて、第一幕で工場の鐘が鳴ったとき、女工たちやカルメンが工場の中からでなく原曲の指定通りに町の方から現れ、二回目の鐘で工場の中に入ったこと。 全体の構成と共にこれが成功だったかどうかは別として、この団体が諸困難を乗り越えて頑張っているのを感じました。 過日の新国立劇場の「運命の力」もしっかりした配役の熱演で十分に楽しめましたが、普通カットする詰まらない部分まで全部含めたのが疑問でした。
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