バスを降りて30分,やっと宿に着いた。
さほど大きくないが趣があり,長期滞在には丁度良い。
二階の部屋から外を見ると,遠くに山が見えた。
あと2ヶ月もすれば赤く色づくだろう。
ふと下を見ると宿の娘さんが庭掃除をしている。
ちょっといたずらっぽく窓に腰掛けて
「こんにちは」と挨拶する。
娘さんはすぐにこちらに気付いて
「こんにちは。そこ危ないですよ」と返す。
成る程そうだと思い,すぐに下へ降りた。
「上に泊まっている者です」
「どちらからお越しですか?」
「東京です」
「まあ,それはそれは。どうしてこちらへ?」
「作品創作に。あ,私は俳人でしてね」
自分で自分がうさんくさかった。
「何かおありでしたらおっしゃってくださいね」
かわいらしいと思った。
「今はまだいいですが,これからお寒くなりますからね」
8月も半ばに入ったころ,娘さんがどてらを買ってきてくれた。
思いがけない事で胸が詰まった。
以前,夜中にコーヒーを差し入れてくれたこともあった。
自分の仕事をこれほどまでに応援してくれた人物が他にいただろうか。
「失礼いたします」
「あ,はい」
「お仕事いかがですか?」
「まあまあ進んでいますよ」
「こんな時間まで根を詰められて。これ,よろしかったら召し上がってください」
「こ,これを私に?」
「はい。美味しくないかもしれませんけど・・・・」
「いえ,そんな。ありがとうございます」
「それと・・・・・・ここに居てもよろしいでしょうか?」
「えっ?」
「決してお邪魔はいたしません。なんなりと御用をお申し付けください」
「はい。ど,どうぞ」
こんな状況で眠れるはずもなく,朝まで机にむかっていた。
秋も深まり,宿に着いた日に見た山も鮮やかに染まっていた。
私は重大な決心を秘めていた。
娘さんを散歩に誘って話すことにした。
「綺麗な夕焼けですね」
「はい」
「明日は良いお天気でしょうね」
「はい」
「静かな・・・・・・」
「あの!」
「何ですか?」
「何か,とても大事なお話があるんじゃないんですか?」
「・・・・・・・・」
「聞かずにはいられないのです」
「・・・・仕事が終わりました。明日にも東京に帰ります」
「やっぱりそうだったんですね・・・・・」
「短い間でしたが,お世話になりました」
「わ,私も。私も連れて行ってください」
「それはできません」
「お願いです。だって私は文彦さんが・・・・」
「私はまだ俳人として半人前だからです」
「そんな・・・・・・」
「ですが,必ず。必ず一人前になって会いに来ます」
「はい・・・・・・」
「夕紅葉 たたずむあなたの 頬染めて」
「えっ?」
「いえ,これは忘れてください。即興です。もう帰りましょう」
帰り道は何も話さなかった。無言のまま手を繋いで歩いた。
翌日,娘さんには会わなかった。
見送りに来てくれた女将さんによれば,
包みを渡して部屋に閉じこもってしまったらしい。
包みの中にはいつだか夜食で作ってくれたおにぎりと,
手紙が入っていた。
【楓の葉 指先そっと 触れ合って】
帰り道の手の温かさが蘇った。
東京に着いたら,すぐに手紙を出そう。
気障ったらしい句などよりも話をするべきだったのだ。
窓の桟にはナナカマドが転がっていた。
終
<コメント>
俳句は最低限のルールくらいは守れているはずです。
詳しい友人に見て貰ったので。
宿の娘さんはトーキョーロマンのハナオになるかどうか,
ひとりで会議でも開きたいくらい悩んでいます。
学校の国語で太宰治「富岳百景」をやったおかげで書けました。