(彼氏の事は主様と呼んでいます)
ああ、私はなんという事を考えていたのだろう。
主様に好意を抱くなど、なんと恐れ多いことか。
私のことを愛してくださっている妄想に浮かされるなんて。
そう、全ては独り善がりの妄想に過ぎない。
人目を逃れて密かに行った事も、私の好意も、この秋月の下で
泡沫となって消えてしまえばよいのに。
「我が恋は……」
こんな歌を詠んではいけない。
「深山隠れの草なれや」
自分でこんな事を言うのはどんなにつらいことか。それに
誰かに聞かれたりでもしたら恥ずかしい………
「………」
「繁さまされど知る人の無き、か」
突然の言葉に驚いて振り返る。
「あ……主様」
「桔梗よ、らしくないな」
「え?」
「歌の下の句を忘れるとは」
「い、いえ。そうではございませぬ」
「わかっておる。そなたの歌の才を考えれば、な」
「………」
「隣…」
「えっ」
「隣、良いか?」
「はっ、はい」
何も語らず、ただ月を眺めていた。鈴虫が鳴くのさえも
気にならなくなった頃、私はようやく口を開いた。
「あの……奥方様を娶られるというお話は、本当ですか?」
「なぜそれを」
「申し訳ございません。盗み聞きするつもりでは……」
「本当だ。じきに、な」
唇を噛んだ。驚きや嘆き、悲しみをこらえようと。
「おめでとうございます……お相手はどなたですか?」
「え?」
主様はなにやら理解できないという顔をされると、
指を1本突き立てなさった。
「………?」
「だから、そなただ」
「えっ!!?」
「気づいていなかったのか? もうわかっているとばかり」
「お、お戯れを。そのようなことは」
「戯れなどではない。私の本心だ。そなたの答えは?」
「それは……私は………しかし……」
「あずさゆみ」
「えっ?」
「梓弓に続くのは?」
「……引きみ緩へみ 思ひ見て、でございます」
「それがそなたの答えか」
「はい。左様でございます」
「では、もう一首詠んでもらえぬか?」
「人はいさ 心も知らず ふるさとは “我”ぞ昔の 香ににほひける」
主様は満足そうに微笑まれると、ゆっくりと抱きしめてくださった。
終
<コメント>
「身分違いゆえの片思い」をやってみました。桔梗がお仕えする者に見えるんです。
本当は主様に「その了承の言葉は言わされているだけだろう」と意地悪を言って、
桔梗の本音を引き出させるストーリーを考えていたのですが、歌で来られるともう………。
会話よりも和歌を探すのに時間がかかりました。
以下、解説です。間違っているところ等ございましたら、ご指摘くださいませ。
「しのぶれど色にいでにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで」
心に秘めていたのに顔に出てしまったようだ、私の恋は。物思いでもあるのかと人に聞かれてしまうほどに。
「我が恋は深山隠れの草なれや繁さまされど知る人の無き」
私の恋は山かげの草なのか。どんなに茂っても(思いがつのっても)知る人の無いように。
「梓弓引きみ緩へみ思ひ見てすでに心は寄りにしものを」
引いたり緩めたりするように、あれこれ思い巡らせて、もうすっかり私の心はあなたに寄り添ってしまったことだ。「梓弓」は引く、射る、張る等にかかる枕詞。桔梗は梓弓で始まる歌の中でも、特に「あなたを思っています」という気持ちが強い歌を選んで詠んだ。
「我ぞ昔の香ににほひける」
本歌は“花ぞ昔の”で、花を我に変えて「他の方はどうであれ、私の心は変わりませんよ」という気持ちを詠んだ。