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『サブカル小説』覚え帳

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五味川純平/『戦争と人間』より――小林多喜二・虐殺に関するメモ――C現在もなお残る“課題”


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[42]おなまえ:田中洌
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今村恒夫の証言によれば、小林多喜二は、警視庁特高係長警部・中川成人、須田巡査部長、築地署の水谷特高主任、特高係・小沢、芦田等により、二月の寒中に丸裸にされて細引きで梁につるされ、撲る、蹴る、降ろして撲り、またつるす、煙草の火で顔、手足を焼く、蹴飛ばす、踏みつける、という暴行を、悶絶するまで前後三時間以上加えられた。

留置場へ放り込まれ寒さで意識を回復し「おれが死んだら、このことを誰か、母に知らせて欲しい」といった後で尿意を訴え、同房の留置人に担がれるようにして便所へゆき、肛門と尿道から夥しい出血をし、間もなく絶命したという。
江口渙の著書から長く引用した(注・五味川純平が)のは、帝大、慶応、慈恵医大のいずれもが小林の死体解剖を拒絶し、そのため解剖所見が残されていないからである。
いち早く警視庁の手がまわっていたためだが、当の警視庁が編纂した『警視庁史』昭和前編(昭和三十七年三月刊)は、小林多喜二の死については一行も触れず、内務省警保局保安課発行の『特高月報』昭和八年三月分には、「二月二十日京橋築地警察署において、作家同盟員(日本共産党コップ内フラク)小林多喜二を検挙せるが、同人は《同夜心臓麻痺にて死亡》せるを以て、翌二十一日死体を実母に引き渡し足るところ、即日市内杉並区馬橋375の自宅に搬入、通夜と称して作同員、江口渙等出入りし、何ごとか画策するところあり、さらに翌二十二日には《死体の解剖をなさむとしたるもこれをひきうくるものなく》……とある。
ぬけぬけとした書きようである。
こういういいかたが権力による殺人のごまかしと正当化の手段として通用したのである。


小林多喜二が虐殺された昭和八年は、日本の共産主義運動の歴史のなかで、同時に、大量転向開始の年として記憶されるべき年である。

同年6月7日、中央委員長・佐野学、中央委員・鍋山貞親は市ヶ谷刑務所において、連盟で転向声明を発した。
声明書は新聞に大々的に報道されるとともに、全国の獄中にある既決、未決の思想犯に配布された。
この二人につづいて、「階級的裏切り」から「偽装転向」と称されるものまで、さまざまな質と程度の差があったとしても、獄の内外を問わず、堰を切ったように転向者が続出したのは偶然ではない。
これは、一般的には、コミンテルンの一支部としてしか存在し得なかった日本共産党自身が内包した矛盾、綱領の非現実性――闘い得るだけの具体的かつ説得力のある闘争方針が示されなかった弱点と、当局の弾圧強化により、党勢力が次第に壊滅させられてゆく課程の反映であるといえよう。
弾圧は凶暴であるばかりでなく巧妙であった。
結論を先に言えば、国家権力は小林多喜二をなぶり殺しにすることによって、国家権力に歯向かうものにたいして死刑以上の死の恐怖を与えたのである。

党員作家としての小林多喜二の頑強な抵抗と死は、当時の党が要求し、今日もまた讃仰されている党活動家のあり方を示している。

しかし、その死は、非人間的な権力への痛憤をかき立てる作用を果たすと同時に、活動家のひとりひとりに、多喜二のごとく闘い、拷問に耐えかつ死ねるか、ひそかに自らに問わざるを得ない精神的踏み絵ともいうべき役割をも果たしはしなかったか。
誠実な党員、シンパたちの大量転向、脱落と、多喜二の死は、微妙に表裏の関係を織りなしている。
国家権力はその悪逆な企画を存分に達成した。
そこに小林多喜二の死の二重の悲劇性がある。

中国の作家魯迅は、

「日本と中国の大衆はもとより兄弟である。
資産階級は大衆をだまして、その血で界をえがいた。また、えがきつつある。
しかし、無産階級とその先駆者たちは血でそれを洗っている。
同志小林の死は、その実証のひとつだ。
われわれは知っている。
われわれは忘れない。
われわれは固く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ。」

という抗議文を寄せた。

しかし日本人の圧倒的多数は、同胞である小林多喜二の死について深い関心を払わず、憤ることを怠ったのだ。
そして、多喜二の屍をこえて闘うべき相手とは闘わず、手を結ぶべき人びとを侵す道へ進んだのだ。

小林多喜二が殺された翌昭和九年九月、日比谷公会堂で「物故文人慰霊祭」が行われ、明治、大正、昭和三代に渡り活躍し死去した文人約二百人が追悼された。
準備会に出席した加藤武雄の「小林多喜二は共産主義者である。われわれ日本の作家は、共産主義者などの追悼会を行う必要はない。断乎小林を削除しろ」という主張が受け入れられ、小林多喜二の名が慰霊祭の名簿から抹殺されたことを、江口渙は憤りをこめて書いている。

●五味川純平『戦争と人間』同p254〜256より、赤旗第121号の“抗議文”“電報”以外の紹介記事以外は、全文抜粋した。


2009年05月07日 (木) 10時17分





五味川純平/『戦争と人間』より――小林多喜二・虐殺に関するメモ――B拷問


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[41]おなまえ:田中洌
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小林多喜二の死の前後の事情については、江口渙氏の「作家小林多喜二の死」(『三つの死』所収)が、多喜二といっしょに捕らえられ死に至る経過を目撃した今村恒夫の証言(彼もまたこのときの拷問により保釈出所後死亡)をも含んでくわしい。

家族や友人が夕刊によって多喜二の死を知ったのは翌二十一日の夕方であった。

わが家へ連れ帰った息子の亡骸をかきいだいて、
「ああ、いたましや、いたましや。ほんとうにいたましや。心臓麻痺で死んだなんて嘘ばかしいうだべや。子供の時から、あんなに泳ぎが上手でいだだべに、心臓の悪りいものに、あんで泳ぎが出来だべか。嘘だでば。絞め殺しただ。締められて呼吸がつまって死んでいくのが、どんなに苦しかっただべか。呼吸のつまるのがつまるのが……ああ、いたましや。いたましや。ほんどうにいたましや」(『三つの死』p186)

と、泣きながら語りかける母親の嘆きは、その後、戦場で愛するものを失った多くの日本の女たちの悲しみとは異質のものを含む。

敗戦まで、死刑を最高刑とする治安維持法は存在したが、同胞により死刑に処せられたものはひとりもいない。

特高は転向乃至は口を割らせる可能性のない相手を拷問によって死に至らしめることで、自ら法の代理人として死刑を執行したのである。

小林多喜二の死は、まさに、それである。加害者たちはしかし誰も裁かれてはいない。

江口氏の著書によれば、小林多喜二は次のような状態で殺されている(死体の検証は友人のひとり、医学博士・安田徳太郎氏の指揮のもとに行われた)。

左こめかみに二銭銅貨大の打撲傷を中心に五、六ヶ所の傷痕、皮下出血を赤黒くにじませている。
首にはひとまき細引きの痕がくっきり深い溝になり、皮下出血が赤黒い線をひいている。左右の手首にも同様の縄の跡が丸く食い込み血がにじんでいる。

「だが、こんなものは、からだの他の部分にくらべると大したものではなかった。

さらに帯をとき、着物をひろげ、ズボンの下をぬがせたとき、小林の最大最悪の死因を発見した私たちは、思わず『わっ』と声を出していっせいに顔をそむけた。

何という凄惨な有様であろうか、毛糸の腹巻きに半ば覆われた下腹部から左右の膝頭へかけて、下腹といわず股といわず、尻といわず、前も後ろもどこもかしこも、まるで墨とべにがらとをいっしょに混ぜて塗り潰したような、なんともかともいえないほどの、陰残に色で一面に覆われている。

その上に、よほど大量の内出血があるとみえて、股の皮膚がぱっちりハチ割れそうにふくらみあがっている。そしてその太さが普通の人間の太股の二倍もある。

さらに赤黒い内出血は陰茎から睾丸に及び、このふたつのものが異常な大きさまではれ上がっていた。

よくみると、赤黒くはれ膨れ上がった股の上には左右とも、釘か錐をうちこんだらしい穴の跡が十五六以上もあって、そこだけは皮膚が破れて、下からじかに肉が顔を出している。

もっとも陰惨な感じで私たちの胸を締めつけたのは、右の人さし指の骨折だった。

それはいわゆる完全骨折であって、人さし指を反対の方向へ曲げると、らくに手の甲の上につくのであった。
『こうまでやられては、むろん、腸も破れているでしょうし、膀胱だってどうなっているか解りませんよ。解剖したら腹の中は出血でいっぱいでしょう』
と、安田博士がいった。
昨夕五時に絶命したというのに、早くも屍臭がぷんと鼻を打った。」

『1928年3月15日』を書いて、党員たちに加えられた凄絶な拷問を暴き、『蟹工船』では、非人間的な労働条件に抗して起ち上がった労働者たちを踏みにじった帝国海軍の姿を描いた指を、完全骨折するまで痛めつけることによって、虐殺者たちはサディスティックな報復の快感を味わったのであろうか?

●五味川純平『戦争と人間』vol6、p252、253より“抜粋”。●


2009年05月06日 (水) 11時21分





五味川純平/『戦争と人間』より――小林多喜二・虐殺に関するメモ――A警察発表を報道する、当時の商業新聞(都新聞)


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[40]おなまえ:田中洌
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●プロレタリア文学の代表的な作家小林多喜二は、地下活動中の昭和八年(1933年)二月二十日、満二十九歳の若さで、特高警察によって虐殺された。

●戦前の歴史が語られるとき、よく、真実は隠蔽され虚偽の報道がなされて、関係者以外はほとんど何も知らなかったといわれる。
それは確かに戦前の日本の社会相を示してはいる。しかし、すべての真実が覆いつくされていたわけではない。

●今日では虐殺であることが明白な多喜二の死の真相を、当時の人
びとが果たして知り得なかったか否か、以下、多喜二の死を報じた商業新聞の記事によって辿ってみよう。

【名作『蟹工船』以来左翼文壇の重鎮として活躍してきたプロ作家小林多喜二(31)は、昨秋文化連盟の大弾圧の後、宮本顕治氏とともに巧みに地下に潜り、警視庁特高当局は、その後極力捜査をつづけていたところ、築地署員が20日正午、小林が赤坂溜池停留所ふきんで、街頭活動を行うことを突き止め、溜池付近を警戒中、小林がやってきたのを認め、逮捕せんとするや、小林はいち早く逃走を企てたが、数(ママ)十町追跡の後逮捕。
ただちに築地署に引致して、午後一時から同署水谷高等主任が取り調べにあたったところ、身体の苦痛を訴えるので、同三時、一時取り調べを打ち切り、留置したが、同四時頃、ますます苦痛を訴えるので、築地一の二十二・筑地医院の前田博士の来診を乞うたところ、容態は意外にも重態なので、午後六時、同病院に入院せしめ、手当を加えたが、同七時四十五分、遂に絶命した。
同博士の診断によると死因は心臓麻痺といはれている。
昨年十月三十日検挙の際による党中央部たる岩田義道といひ今回の小林多喜二の死といひ、ともに左翼運動の全貌をつきとめんとせる当局にとっては一大痛事であったとせられている。

当時の模様につき築地署・水谷特高主任は語る。

★一週間前、当署に逮捕した共青関係の某と定期連絡を行うことになっている共産青年同盟の指導者がいるという事実を掴んだので、20日正午連絡場所である赤坂区溜池一丁目の四つ角に私と小沢巡査が行ってみるとふたり連れの男がやってきた。
後ろから「君君」と呼びかけるとその内のひとりの二重廻し下駄ばきの男は一目散に虎ノ門のほうへ逃走したので、私は他のひとりを捕らえ、小沢巡査が十二三町も追跡して、突き飛ばして倒したが此処でも大乱闘となってやっと逮捕した。
午後一時頃、署に戻って取調べを開始したが、山野次郎というのみいかなる人物か判明しなかったが、署員の中に写真で見覚えのあるものがこれは小林多喜二だというので、はじめ何も知らなかった私どもも、これは意外な大物だと喜んで追及したが、渋谷方面の某家の二階にハウスキーパーも伴わずに住んでいたことをいったのみで、ひどく興奮している上に息切れがはなはだしいので、同三時ごろに取調べを打ち切って留置場に寝かしていたのだが、同五時ごろ心臓が苦しいと訴えているという話なので、築地医院の前田博士の手当てを受けたのだがついに死亡した訳だ。
逮捕の際、懐中に五十一銭しか所持してなく、非常に困っていたらしく顔色もよくなかったから、栄養不良の上に十数町も逃走し、しかも、大格闘をやったので、心臓麻痺を起こしたものと思う。★

毛利特高課長は語る。

★あまり突然のことなので、もしやと心配したが、調べてみると決して《拷問した事実はない》。
あまり丈夫でない体で必死に逃げ廻るうちに心臓に急変をきたしたもので《警察の処置に落ち度はなかった》。★

また、市川築地署長は曰く。

★《殴り殺したというような事実はまったくない》。
当局としてはできるだけの手当てをした。
長い間捜査中であった重要な被疑者を死なしたことは実に残念だ。



●作家多喜二の遺骸引き取りに母親せき子(61)は、二十一日午後六時半、お孫さんを背に、親戚小林市治同道で築地署に駆け込み「新聞で知ったが、倅が死んだのに何故知らしてくれぬ」
と興奮して係官に詰め寄ったが、水谷特高主任から同署で、小林多喜二の本籍秋田に母親はいるものと打電中だったよしを聞いて納得。
事件の顛末を聞かされた後、九時、遺骸のある築地一の二十四・筑地医院に行き、表二階の一室であまりにも変わった息子の白布姿にわっとばかりに抱きつき泣き伏した。
このころ、同士多喜二の遺骸をむかふべく江口渙、佐々木孝丸、大宅壮一諸氏をはじめ、無産弁護師団及びプロット関係者二十余名が、同医院前に集まったが、当局はなかへ入るを許さず、むなしく2階を見あげているのみであった。

九時三十五分、同士差し回しの寝台車に遺骸は移され、母親せき子はプロレタリアの母らしく、さすがに人びとの前では一滴の涙も見せず気丈に唇をかんだまま、その質朴な姿を遺骸とともに車内に消し、江口渙、佐々木孝丸両氏が付き添って、車は、杉並区馬橋3−275の自宅に向かい、十時半自宅に着いた。
刻々集まるプロット関係者に守られ、しめやかな通夜が行われたが、母せきさんは、「親孝行の多喜二を褒めてこそくれ、殺すとはマア……何ごとでせう」

と死骸に抱きついて、半狂乱のごとく泣き悲しみ、数回卒倒した。

通夜に来た江口氏は、母親に代わって語る。

★告別式は、二十三日午後一時から三時まで自宅でやります。
何しろ、顔面の打撲裂傷、首の縄の跡、腰下の出血等がひどく、単なる心臓麻痺とは思えませんから、二十二日当家から死因に関する声明書を発表します……★】

――以上2/22付け・都新聞より――

●水谷のことばに裏付けられる小林多喜二が「仲間」によって特高に売り渡されていた事実、いずれも語るに落ちた観のある毛利、市川の発言、母せきさんの「殺すとはマア……」という悲痛なことば、そして江口渙氏の、かなり詳細な死体の状況報告を含むこの新聞記事だけで、拷問による死であることは明瞭であろう。●



――五味川純平『戦争と人間』p250〜252より“全文抜粋”――




2009年05月06日 (水) 09時19分





五味川純平/『戦争と人間』より――小林多喜二・虐殺に関するメモ――@背景


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[39]おなまえ:田中洌
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●国家主義運動の特色は、“昭和維新”だの“皇道”だの“弥栄”だの“神剣”だのという、わかったような、その実何一つわかっていない空疎な観念を振りかざすところにある。内容がありそうで何もない。仰々しく、激越なことばを好んで、みずから酔う。単純なのである。
その単純さが簡単に徒党を組ませ、、他のものの意見や業績をよく調べもせず、評価の適否を疑いもせず、自分たちの偏狭な、おおむね受け売りの思想にあわないという理由で、殺人へと駆り立てる。
そこに倒錯した美を見いだす。事をなすに当たって自分の権勢欲を堂々と宣言し得たものは、遂にひとりもいない。
いつも、国家のため、皇道のため、日本民族のため、という大義名分が必要なのである。
国家のためになることが、他人にはわからず、自分たちにだけわかっているという不思議な思い上がりである。

●不満が鬱積していたことは、一般国民と変わりはない。
変わっているとことは、“国士”たちは、一般国民のように日々孜々として勤労する謙虚さがなかったことである。
勤労するより、殺す方が簡単であった。殺人者たちは心が貧しかった。
いつも、殺人者側が正義と神意を体現しているかのように大見得を切らねばならぬほど、心が飢えていたのである。

●何の弁解も粉飾もなしに、「そこをどけ、おれが通る」という政治権力の原則で真っ正面から押し切ったクーデター計画は、ひとつもない。
働かない主人の下で、番頭同士が寝首をかこうとする争いばかりである。


2・26事件の二年前【神兵隊事件】に触れて。
『戦争と人間』 vol6、page157。


2009年05月04日 (月) 11時34分





辺見庸『ゆで卵』 2


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[38]おなまえ:田中洌
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●つるつるの白身を、子鼠が囓りでもしたように長い爪でぎざぎざにしてしまった。
●パラフィン紙みたいな薄膜。
●ぺろりとひきはがす。
●お絵かきのあとの子供の爪である。
●爪使い。
●「ふけでるわよ」
●槍が降ろうが原爆が落ちようが、一秒だって職場に送れないぞといった面持ちだった。
●行き場を失ったふたつの歯が、コートのポケットで、晩秋の虫みたいにカチカチ密かに鳴いた。
●夕方にしたのに、またしたがっている。
●ふぐふぐ。
●あのクソ機械(注・検札機)とその発明者、導入者、積極支持者を、おれはベトナムから帰国して以来、まあ、いってみれば、核兵器とその発明者、支持者に対するのとほぼ同じほど、軽蔑し憎んでもいた。
●ドゴール帽の駅員が……と声を尖らせたのだ。
●待ってましたとばかり元気づき、元気でも親切でもない他人を断固として許さず、かつ、元気と親切に反するものは、ユネスコと世界全体を敵にまわすようなものだと当方に思わせて……澱みなく命令してくるではないか。
●ばか長い脚を、岩礁に根を生やした長大な昆布みたいにでろでろと床に投げ出しているばかりで、膝をいつかな立てもできず、曲げもできないものだから、重くて二人ではとても手に負えない。
●ばりばり元気。
●死滅した世界をどんぶらこ、どんぶらこと漂流している。
●「いきんでみなよ」
「どうすんのよ。取れなくなるわよ。お医者さんに行かなきゃなんなくなるわよ。卵をひとつ取りあげていただけますかっていわなきゃなんないのよ。あんたついてきてくれるの」
●卵一個を今、懐胎したと思えばいいのだ。
●赤貝やホタテ貝やホッキ貝やミル貝が自分たちからもぞもぞ這うように行進して、彼の精力的な口の中へ消えていった。
●闇がどろりと垂れていた。
●ノホホンと転がっていた。
●下ぶくれのお地蔵様。

                         ※※※※

そういういいまわしで、何ごとかを物語ってくれるのかと思いきや、そうではないことが、最初の一行を読んだ瞬間にわかるから、終いまで読むのにひどく骨が折れる。

彼は、そうとうつらい際で“仕事”をしているのだろう。

なるほど、“いきむ”やつらは、みな、いたる穴倉に瓶詰めだ。
見えないところにほかされる。
忌み嫌われた“らい病”みたいなものだ。
そういうお国で“仕事”をするとすりゃ、なんとも色濃い“あきらめ”の境地みたいな断念をまぶさなくては、人里離れたところにある原っぱにもそっぽを向かれる。
おぞましいかぎりである。
おぞましくって、おぞましっくて、何にもできゃしない。
手枷、足枷、猿ぐつわだ。

どうするか?

身投げするつもりでやってみなきゃ、やれないぜ。

ちょつ!

やってみるか。







2009年04月16日 (木) 08時49分





辺見庸『ゆで卵』 1


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[37]おなまえ:田中洌
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朝日新聞がつまらなくなって、東京新聞に変えた。
それもつまらなく、見出しを一瞥するだけで、放り出すが日課だ。

それが、名前だけしか知らなかった辺見庸の“水の透視画法”を、偶然読んだ。

彼は山谷で暮らしていたらしい。

●かつてわたしは無宿人が多く集まる東京のある街に住んでいた。
無宿人たちの何人かは飢えや病気のため主に冬場に行き倒れるのだった。
冷えきったアスファルトを地蜘蛛のようにはいずる瀕死の男を一度ならず目にしたことがある。それは内面のうかがいしれない〈他の身体〉であった。

行き倒れる〈他の身体〉に私ははげしく動揺し、いたく同情もしたが、手ずから助けおこしたのは、たったの一回しかない。
視界に行き倒れた男がいても、たいていは鉛の玉をくわえたような心地のまま息をとめてとおりすぎるのだ。
すさまじい悪臭が私を〈他の身体〉から遠ざけただけではない。
たとえ助けおこしたとて、あるかなきかの良心をつかの間満足させるだけで、彼らの生命と魂を根っこから救うことはとうていかなわない、といういいわけとあきらめが、私と〈他の身体〉とをきっぱり分断したのだった。
台上に力なく横たわる私は、寒夜の光景をまなうらに浮かべ、なぜかしきりに懐かしんだ。

●ただいえるのは、うすれゆく意識のなかで路面から世界を見あげる生体が、見下ろす者の信条とはまるでかかわりなく、生きたい、生きたいとこい願っていたことだけだ。
私はそれを台上でさとった。

                 ――「台上にて」09/2/3――

半身不随のおのれを叱咤しながら、彼は「書く」という、ゆいつの行動に向きあっているのだ。

ある日、彼の小説をさがしに、都心近くへ行ってみて、何冊か並んだなかから『ゆで卵』を選んできた。

                       ー次回へ続くー


2009年04月16日 (木) 08時17分





お元気ですか?


    RES 
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[36]おなまえ:けい
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田中さん、どうしました?
伏せているのですか??
昨日貧困反対のデモがありましたが
まさか病を押して参加されたとか??


心配してます。
御気分の良い時にでも
様子を伝えるコメントをお願いします。





2008年10月20日 (月) 13時44分





何十年ぶりに、『長距離走者の孤独』


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[35]おなまえ:田中洌
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あれこれ物色しても、脳天を震撼され、ちびりそうになってもやめられないぶるぶる震えるような作品なんて、そうそうあるもんじゃない。

おれは降りるまで、ずいぶん手間取ったが世間なんて糞さと思っているやつにとっては、特にそうだ。

のしあがるためのお勉強は、貧乏で、きちがいじみていたおれん家とは相容れない。
ににんがしと同じくらいわかりきったことだ。
どうせなら、自分のやりたいように、おりこうさんをかなぐり捨てて、着のみぎのままで、どん底もどん底、正真正銘のどん底からやってみるにしくはない。髪振り乱して、めいっぱいやってもだめなら、あきらめりゃいいのさ。
我ながら思いきったもんだ。
「飛び降りるぜ」
「いいわ。でも、どうなるのかしら?もうすぐ赤ちゃん生まれるのよ」
「まかせておけ」
そういって薄い胸板をどんと叩いた。
それで、汽車賃もないのに、身投げでもするつもりで、手に手を取りあっての都落ちに打って出た。
みんなあきれて、来る日も来る日も博打にとち狂ってちっとも父親とはいえないアル中の親爺なんか、ソファーに叩きのめされて、一ヶ月も立ち上がれなかったほどだ。
知りあいも友達も、みんな、まさか、あと少しがんばりゃ、ちゃんとした会社に入って、死ぬまで安泰なのにと、眉をおひそめなさった。
それでも、やりたいと思ったことをやるなんて、なんともすてきなことなんだ。
取り繕う必要はない。
ぶっつかっていきゃいい。
単純がいちばんさ。
キセルして、まず大阪までたどりつき、さらにキセルして、宇野、それから、どうやって宇高連絡船を切符もないのにすり抜けたかわからんがとにかく瀬戸内海を渡って高松、土讃線もまた、キセルしかない。
どうにもならなくなれば、雪でかまくらをつくってその中で、赤ちゃんをとりあげてやるさという意気込みで、僥倖とひらめきを頼りに、何とか、高知までたどりつけた。
永遠に忘れがたいことだが、高知の港のそばにある東洋電化工業の下請けのそのまた下請けのカーバイド運搬工がおれのはじまりだ。

そのころ、全日空に入社したできのいい友達からだだ切符を工面して貰い、はじめて乗ったビルみたいなジェット旅客機で、やはり友達から貰った『夜の果ての旅』(セリーヌ)をめくってみたら、これが震えが来て止まらない。
そいつは、その後、打ちのめされるたびに、何度も取りだしてめくるもんでばらばらになり、新しいやつを仕入れ、肌身離さず持ち歩き、貧乏人の臆病さ、浅ましさ、汚らわしさ、気高さ、向こう見ずに舌を巻きつつ、しゃかりきになっても雀の涙にしかならない稼ぎでやりくりするしものしものほうのおれを支えてくれた。
1300枚のその長編は、つきあいが長いので、ほとんどそらんじているほどだ。

それが、今頃どうして『長距離走者の孤独』(110枚)なのか。
出だしを見た。

●感化院に送られるとすぐ、おれは長距離クロスカントリー選手にさせられた。年の割にはひょろ長く、骨張っていたんで、きっと体格を見込まれたのだろう。それに正直なとこ、どのみち嫌いなことじゃなかった。走ることは、昔からわが家では重んじられていたからだ――とりわけおまわりから走って逃げることは。競争なら昔から得意だった。大股ですたすた走ったもんだ。だが問題は、どんなに足が早かろうと、また事実自分でいうのもおかしいもんだが、かなりうまくやったつもりだったのだが、あのパン屋の一件のあと、とうとうぱくられてしまったことだ。

それで、すっかり思いだした。
はじめて読んだとき、よっぽど憧れ、よっぽどうらやましかったにちがいない。

親爺が喉頭癌で死んで、工場からのお悔やみやら保険金がたんまり転がり込んだので、あれこれ買いあさって、「お人形さん」みたいにめかし込んで、おふくろと兄弟五人で六週間遊び暮らしてすってんてんになったので、パン屋に忍び込んで、まんまと手提げ金庫をせしめた。
あきらめの悪いおまわりの追及を軽くいなしているうちに、雨の日、樋に隠した札のかたまりが流れ落ちてきて、御用となり、感化院にぶち込まれた話だ。
それでも、やっこさんはへいちゃらだ。デメキン野郎の院長をことばだけで思いっきり派手に、可愛そうなくらい身も蓋もなくやっつけ、終いにクロスカントリーのぴかいち選手という特権を利用して、行動で院長並びにその取り巻きどもの天狗鼻をぺしゃんこにへし折って、どうだ、まいったか!というわけだ。もちろん、残り三ヶ月の刑期を、ひどい懲罰作業を喰らうが、懲らしめのおかげで肋膜を患って、院長がぶち込もうとした兵隊から逃げ切り、もうひと山でっかい泥棒にとりかかってやろうという寸法だ。

●たまるかってんだ●お大尽暮らし●家中が発作を起こしそうになった●べらぼうに冷たい霧で●つばき●さつにたれこむやつら●とんま●ないないして●いったい政府もどこからおまわりの屑ばかりかき集めてくるんだろう?●横柄な●金のことが頭にこびりついているのは●あんぐり口をあけた●しぼりつづけた●殿様みたいな暮らし●みちみち歓呼を浴びながら●落伍者や気絶者を待っていた●くそだめ掃除●規則を破るほど気のきいてやつらじゃない●ぺこぺこかしずつ女中なしじゃどうにもならない●腹なら生まれたときから立ちっぱなし●しゃれた口笛●おしっこしているすきに●しょぼくれて

……と、昔舌を巻いたいいまわしは、今でもすてきだ。
アウトローの孤独も誠実も歓喜も意見も何もかも、アラン・シリトーのおっしゃる通りだ。

たとえば戦争を見ろ!

●おれは自分の敵がどいつであり、戦いとは何かがわかっている。落としたいなら、原爆でもジャカスカ落とすがいい――おれはそんなのを戦争と呼ばないし、兵隊服を着て出かけていく気はさらさらない。おれはもっと違った戦争をやっているんだから。
やつらの考えている戦争は、自殺だ、戦争に行って殺される連中は自殺未遂で豚箱へたたき込んじまうがいいんだ、どうせあわてて応召したり、応集されたりする連中はそんな気持ちでいやがるんだから。おれはちゃんと知っているんだ。ときどき、いっそ死んじまったらどんなにいいんだろうと考えたこともあるからだ。その点いちばんかんたんなのは、応召して死ねるでっかい戦争を望むことだった。だけどおれはすでに自分自身の戦いを戦っており、生まれながら戦いにまきこまれているし、ダートムア刑務所で攻撃をかけ、リンカーン監獄では半殺しにあい、ポースタル感化院の無人地帯にとらえられた古強者たちの、どんなドイツ軍の爆弾よりでかい音を立てる話を聞いて育ってきていた。そんな気持ちは卒業していたんだ。政府の戦争はおれの戦いじゃない。おれには何の関係もないことなんだ。なぜならおれの気になるのはおれ自身の戦いだけだからだ。

●やつらもずるいが、おれたちのほうがもっとずるい。
●出所すると今度はおれを軍隊に入れようとしやがったが、体格検査に通らなかったというわけだ。

若いころは、うまくいくはずがないのに、シリトーにあやかりたかった。
やつの貧乏は鉄板みたいにびくともしない。
おれたちみたいなふにゃふにゃで、底なし沼みたいなずぶずぶでは、とても太刀打ちできるもんじゃない。
あきらめて、ドラムカン運搬工、土方、造船、飯場、町工場、養豚場、期間工、歩合セールスとほっつき歩き、見るもの聞くものすべてにむかつき、むかっ腹を立てて持ちこたええているうちに、つまり、何十年も醜い暮らしを張っているうちに、おそらく、いつの間にか、アラン・シリトーと、どんぴしゃりになっていたわけだ。

それでふと、故郷に寄ってみる気持ちで、この作品をもう一度覗いてみたい気になったんだろう。

 引用は、新潮文庫(河野一郎・訳)。


2008年05月25日 (日) 14時47分





田中 洌さん!?


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[32]おなまえ:はるた (昔は、とらきちと言ったり紗紫美と言ったり)
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こんにちは。昔は、とらきち、今は「はるた」を名乗っております。
パソコンのデータを整理しつつ、いろいろと検索していたら、
田中 洌さんを見つけました。

「合評会」というメルマガで、私の作品について、いろいろとお褒め頂いたことを記憶しております。

今でもご活躍しておられること、感動しました。


2008年03月12日 (水) 17時27分





久しぶりに芥川賞を読んだ『乳と卵』/川上未映子さん。


    RES   + MAIL
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[31]おなまえ:田中洌
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おや、おや、こいつ何がいいたいんだろう。
仔細な描写が何しろ面白い。
独特で、個性ぎらぎらで、それでいて、きわめて普遍的だ。
酒場街、電子辞書、銭湯、花火……そいつを大阪弁の口語体で長々と、ユーモラスに描ききるスキルは、誰も真似できないし、どうだろう?たぶん真似するやつはいないにちがいない。
彼女の才能はその文体にある。

●巻子が働いているのは大阪の京橋という地域であります。いわゆる場末というのかしら、いわゆる高級なものとの縁は一切なし、全体が茶色く変色したゲームセンターに立ち飲み屋が連なり、建物の角度としては傾いてるんでは、と思える個人経営の本屋の横に、細長い作りの焼き肉屋があり、ほんまにちょっとの隙間もなく隣接するのは、どぎつい粉飾がびしびしと目に突き刺さる電話や口の風俗店、そのとなりにフグを食べさせる店があったりして、しかしこのフグにしてもどこら辺がフグなのかが噛みながらにしても謎であり、いったいこれがどこのフグ部、といった按配で、それにかかってくるパチンコの音流、電飾のぴかぴかか、ゲーム機が内蔵されたテーブルに暗い暗い喫茶店、店主も客も見たことのない判子屋、などなどで、人々はかかる鬱憤を爆発させ、笑い、道の端にはビール瓶が山となって割れてあったりと、とにかく乱雑なものであって、まあよくゆや人懐っこく気取らぬ地域ではあるけれども、集まる店は細かく小さいものばかり。
●花火、子どもんのときは、ちびるくらいおもしろかった。
●あほらし、あほらしすぎてあほらしやの鐘が鳴って鳴って鳴りまくって鳴りまくりすぎてごんゆうて落ちてきよるわおまえのど頭に。
●湿らんようにしとくから……。
●あたしと一緒になる前からあの女おって、ずっとおって、おりっぱなしで、最初からあっち戻るてわかってて、ほんならなんであたしと子ども作ったかってことあたし訊いたわけ、……。

けれど物語となると、こじつけとどっちこっちない。
よくいえば、定石をやむを得ず踏んでいく。
喋らない小学生は、最後に卵を頭にぶっつけて喋るようになるというカタストロフィは、ちょっと……なあ?
ある病を乗り越えようとしたのだろうけど、その常識の病を糞とも思わない健康な感覚はどうした?
息張れば息張るほど、どうかなあ?
その息張っての山場は、定石の物語が帰結した苦肉の策だ。

大当たりは、まず、取らないだろう。
面白いけど面白くないのだ。
おおかた、当て込みしかよりどころがないからだろうな。
鎧を着て、物語らなくてはやばいのだろう。
やつらもやつらなりにいろいろ考えて、それこそ、断末魔の、どえらい刻苦勉励を強いられている模様だ。

それにしても、顕微鏡で毛穴の微細を覗くようなものの見方には、正直、そこまで来たのかと、あまりな(血の滲むような)空無というか、不必要というか、あらずもがなの何んにも無しに同情を禁じ得なかった。(かわいそうなことに、どっと崩れ落ちる寸前まで追いつめられているのだ。)

いつの日か、独特な物語がひらめいて、独特な文体と融合する日があらんことを、ひそかにお祈り申し上げたい。



2008年02月13日 (水) 16時03分








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