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タイトル:Innocence ファンタジー

――脳裏に焼き付いて離れない、あの時の記憶。一面を紅で染め上げられた世界にて、立ち尽くす一人の少女。私が真に為すは、裁くことなのか、それとも裁かれることなのか……。オリキャラを通じてシエルの過去に触れる第八作目となるシリアス作品。彼女に課せられた鎖の名はGuilty or Innocence?

月夜 2010年07月02日 (金) 01時10分(128)
 
題名:Innocence(第一章)

闇が支配する夜の世界。
空に浮かぶ月は、その姿を厚い雲に覆い隠され、まばらに立てられた街灯の無機質な光だけが、この街を冷たく照らしている。
吹きそよぐ風は、夜の冷たい空気に晒され、涼しげな冷気を伴い街を吹き抜けていく。
「……汝が不浄は、その存在也」
そんな街の一角から、静かな声が聞こえてくる。
「貴方の罪には、貴方の命で贖罪を施しましょう……」
見る者に暗黒を思わせるような、漆黒の法衣に身を包んだその女性は、小さな声でそう呟いた。
そのすぐ眼前に在るのは、まるで壁に張り付けにされたかのような人間の姿。
……いや、まるでなどではなく、その対象は明らかに張り付けられていた。
良く見なければ、周囲の闇に溶け込んで分からないが、その体は全身の至るところを漆黒の剣で壁ごと貫かれている。
……それに、一般人には分からないかもしれないが、彼女の見据える先のそれは、明らかに人間などではなかった。
鮮やかに輝く真紅の眼が、その存在の人外性を何よりも表している。
敢えて表現するなら、人型の何か。
それ目がけて、彼女は腕を前へと突き出す。
ドスッという、肉を穿つ鈍い音を伴って、対象の心臓部が一突きにされた。
「我が代行は神の御心なり。願わくば、貴公が御魂の行く先に光溢れんことを……」
どこか悲壮感を漂わせた声で、彼女は目の前の何かにそう語り掛ける。
途端、その何かの姿が瞬時の内に消え去った。
ただ消えたのではない。
文字通り、消え去ったのだ。
そこに存在していたという事実。
その僅かな痕跡すら残さずに、この世界から完全に消滅した。
その後に残されたものは、壁に突き立てられた数本の黒鍵と、耳をつんざくような静寂だけだった。
「……ふぅ」
彼女は一つ、大きな溜め息を付いてから、壁に刺さった黒鍵を一つ一つ抜いていき、慣れた手つきで黒衣の中にしまっていく。
その間も、眼光鋭く辺りを警戒するその様子からは、塵程の油断も見受けられない。
そう、彼女こそ、バチカン最強を誇る埋葬機関。
そこの第七位の代行者“弓”ことシエルだ。
この街を襲っていた諸悪の根源であるロアが滅んで以来、彼女はこの街を任された代行者として、毎夜のように見回りをしていた。
実際、吸血鬼が絡んだ事件において大変なのは、その源を断つことではない。
むしろ、最も忙しいのはその後だ。
吸血鬼に噛まれた者は、常人であればそれは例外無く吸血鬼と化す。
そして、その吸血鬼化した人間に噛まれた人が吸血鬼となり、その人間が更に別の人に噛みつき……という風に、さながらネズミ構式に増加を続けていくのだ。
その流れを断ち切る手段はただ一つ。
その根本、つまり吸血鬼化した人間の全てを、抹消することでしか解決は出来ない。
そのために、シエルはあの日からずっと、夜な夜な一人で吸血鬼を狩り続けてきたのだ。

――……だけど……。

シエルは全ての黒鍵をしまい終えてから、ゆっくりと天を見上げた。
「私は……生きていてもいいのでしょうか……」
見渡す限りを雲で覆われた、今日の夜空を仰ぎながら、シエルは弱々しく頼りない口調で、誰に言うともなく呟いた。
吸血鬼を狩ること。
そのことに対して、罪悪感を感じるなんてこと、今まで一度たりとて無かった。
そんなこと、当たり前と言えば当たり前のことだ。
彼女にとってその行為は、己の感情云々を超えたところにある、完全な義務に他ならないのだから。
こんな気持ちを抱くようになったのは、つい最近、それもロアの消滅後しばらく経ってからのことだった。
ふと、こんなことを考えてしまう。

――私は……本当に狩る側の人間なのでしょうか?

月夜 2010年07月02日 (金) 01時11分(129)
題名:Innocence(第二章)

それは、余りにも唐突な、まさに降って湧いた様な疑問だった。
自分は、彼らと同じ……いえ、もしかしたら、真っ先に狩られるべき存在なのではないのだろうか?
際限無く肥大化してゆく、まるで捉え所の無い靄のような疑問。
そして、それが確信に変わるまで、大して時間は要しなかった。
そうだ。
よくよく考えてみれば、私は本来狩る側の立場なんかじゃない。
何故なら、私は昔、ロアそのものだったのだから。
シエルの脳裏に、当時の出来事が蘇る。
まるで、フラッシュバックするかのように、現れては消え、消えては現れてゆく、全てを覆い尽くさんばかりの朱色で満たされた凄惨な光景。
それら数々の記憶の中に、死者の姿が無いものなど、ただの一枚も存在しなかった。

――いや……。

拒絶する。
だけど、止まってはくれない。
老人から幼い子ども達まで、そこに映し出される人々は、老若男女を問わず、全て無惨な骸と成り果てていた。
頭が潰されているモノ。
全身をコマギレにされているモノ。
心臓を貫かれ、大地に串刺しにされているモノ。
それらは全て、息絶えた肉の塊……既に人では無く、ただのモノに成り下がっていた。

――いや……!

再び、今度は強く拒む。
それでも、溢れて止まない、深層心理の底から浮かび上がる、数知れない残酷な光景。
赤い……何もかもが赤い。

――い……や……。

意識が朦朧とし始める。
私の中に確立されていた、確かな私という存在が、徐々に認識されなくなってゆく。
景色が赤い。
人が朱い。
……私も……紅い。
「……っ!?」
刹那、その暗い過去の亡霊達の姿が、瞬時の内に空気中へと霧散した。
失われかけていた自我が、再び表層意識へと浮かび上がる。
視界が暗転、同時に現を取り戻す。
その時には既に、シエルは全力で駆け出していた。
薄暗く入り組んだ路地を、右へ左へと曲がりながら、だが決して速度は落とさずに、身を屈めて夜の街を疾駆する。
脇目も振らず、力の限り。
しばらく走り続けた後、シエルはいくつ目かの曲がり角を折れ、直ぐ様近くの電柱の陰に身を隠した。
「……」
呼吸を殺し、夜の静寂が支配する無音に近い空間に、全神経を傾ける。
両手をだらりと下げる。
一見すると無防備にしか見えないかもしれないが、今の彼女のどこにも、ほんの僅かな隙すら存在していない。
下手に構えてしまうと、どうしても意識がどこか一方向を重点的に見てしまう。
ならば、いっそのこと構えない方が、全方位に隈無く神経を向けることが出来る。
謂わば、これは臨戦時における、無形の構えとでも言うべきものだった。
「……」
張り詰めた無言の空間。
その中で、シエルの全神経が研ぎ澄まされてゆく。
その眼光はあくまで鋭利。
まるで鋭い刃物を思わせるかのようだ。
「……」
……だが、いくら待てども、何も異変は起きなかった。
すぐ傍らを、夜の冷えた空気がすり抜けてゆくだけだ。
「……ふぅ」
そのことを確認してから、シエルは一度だけ安堵の溜め息を付き、緊張状態を強いていた神経を解放した。
だが、それでも警戒を怠ることは無く、曲がり角から姿を現しながら、油断無い目つきで前方へと視線を向ける。
そこに、彼女が予期した景色は広がっていなかった。
誰の姿も見えない、夜の闇だけが広がる無人の路地。

――……おかしいですね?

シエルは不思議そうに首を傾げた。
ついさっき感じた、背筋が凍り付くかと思うほどの激しい殺気。
それこそ、呪い殺さんばかりの烈々たる恨みを孕んだ、正真正銘、まさに殺意の塊のような殺気だった。
あれが、自分の勘違いだったとは、どうしても思えない。
シエルは首を捻って、もう一度周囲を埋め尽くす闇の中に目を凝らした。
しかし、結果は何も変わらない。

――……仕方ありません。今日は、もう帰りましょう。

シエルは内心密かに呟くと、踵を返して自宅へと続く帰路に着いた。
「……」
再び背後を振り返る。
それでも、その瞳に映し出されるものは、暗黒色をした闇だけだった。


「ふふっ……やっと見つけた」
去り行くシエルの後ろ姿を、屋根の上から見下ろす一つの人影。
夜の暗がりのせいで、その容姿は知る由も無かったが、声色から察するに、どうやら女性であるらしい事だけは分かった。
その口から漏れた呟きは、長年恋慕った恋人に向けられたかのような優しさと愛しさに満ちていて、それでいながら、その中には両親の仇に対するかのような、祟り殺さんばかりの殺意が含まれていた。
「……ふふっ」
その女性は、もう一度妖しげに微笑むと、そのまま闇の中に溶けて消えて行った。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時14分(130)
題名:Innocence(第三章)

「……」
シエルは無言を保ったまま、時折険しい眼差しで背後を振り返っていた。
暑ささえ感じるくらいに、さんさんと照り付ける太陽が、昨夜と同じ路地を照らす。
だが、そこに彼女が求めるもの……昨夜感じた、背筋に怖気すら覚える程の、あの鋭い殺気は無く、ただ、数人の学生達が、友人同士でにこやかに笑い合っていたり、或いは一人のほほんと空を見上げていたりと、穏やかで平和な光景が広がるばかりだった。
……いや、求めるものという表現をすると、些か語弊を生じるだろう。
彼女は、出来ることならば、あの殺気の主とは出会いたくないと思っていた。
何故、自分に対してあれほどの憎悪の想念を抱いているのか、そんなことは知る術すら無い。
だが、どんな理由であれ、あそこまで自分を憎んでいる以上、対峙した時、その間に生まれるものは、恐らく争いでしかないだろう。
どちらか片方がこの世から消えることでしか……いや、もしかしすると、それでさえ消えないのではないかと思えてしまう位、ドス黒く深い怨念。
それと向き合うことに、彼女は内心怯えを感じていた。
だが、そこまで分かっていながらも、彼女は知りたいと思った。
何故、自分が恨まれているのか。
そして、どうしてそれほどまでに恨みを募らせてきたのか。
知りたい。
そう思う反面で、やはり先ほど述べたような恐怖もあった。
不意に、昨日のあの時へと思考が遡る。
何で、私はあの時距離を取ったのだろう?
同時に浮かび上がってきた、自らに対する後悔混じりの疑問。
あの時、直ぐに背後を振り返っていたら、あの殺気の正体を知ることが出来たのではないか?
自身に強く問いかける。
あの時の判断は、果たしてあれが正しかったのか?
見下すかのような口調で、さも高圧的に。
……だが、答えはすぐに出た。
殺される。
そう直感したからだ。
だから、私は殺気の主と距離を取った……いや、逃げ出した。
ロアが滅んで以来、私は埋葬機関第七位の代行者であるものの、その身体は既に異能ではない。
輪廻の輪から外れ、半永久的に生き続けなければならないという業。
何度殺されようと、決して死ぬことが許されない、久遠の名の元に永続する怨鎖の呪縛。
その中でいつしか私は、死という事象に対して、それ自体がどこか遠くにある、自分には全く関係の無いものだという、ある種の超然的な感覚に陥っていた。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時15分(131)
題名:Innocence(第四章)

それは、不死の鎖から解き放たれ、それと交差するかのように、刻の流れに囚われた今となっても、別段変わらないことだった。
だが、昨日、あの時ばかりは違った。
怖い。
それは、久しく忘れていた感情だった気がする。
永年、死の境地に慣れ親しんでいた自分の本能が、走れと……逃げろと強く告げたのだ。
あのままあそこに佇んでいたら、今頃は物言わぬ死体と化していたかもしれない。

――……ふっ、何を今更……。

そう思い返してから、シエルはうつ向きがちに顔を伏せ、自嘲気味に口元を綻ばせた。
今まで、私は何人の人間を殺してきた?
今まで、私は何度死の淵に立ってきた?
……今まで、私は何回死んできた?

――ふっ……ふふっ……。

そう考えると、途端に自分自身が可笑しくてたまらなくなった。
本当に、私は一体何を考えているのだろう。
幾度となく人を殺め、何度となく死を体験しておきながら、今頃死を恐れるだなんて……。

――ふふっ……あはは……。

可笑しいな。
死ぬことなんて、怖くもなんともなかったのに。
むしろ、この世から消え去ることを望み続けてきたのに。

――……でも……。

そこで、自らに対する嘲りを断ち切ると、私はゆっくりと顔を持ち上げた。
そのまま、肩を並べて隣を歩く、彼へと目線を泳がせる。
その姿を見る度、私は思う。
あぁ、彼がいるこの世界なら、もう少しこのままここに居たい。
彼と共に肩を並べて歩けるのなら、もう少しその時間を楽しみたい。
彼が生きているのなら、私も一緒に生きていたい。
心の底から沸き上がってくる、素直で純粋で、自分でも驚くくらいに真っ直ぐな感情。
それは、ここへ来て初めて手にしたものだった。
「……生きるというのも……良いものですね……」
柔和な笑みを口元に浮かべ、シエルはぼそっと呟いた。
「え? 何か言いました?」
隣を歩いていた志貴が問いかける。
「いいえ、なんでもありませんよ」
「?」
どこか納得のいかないような表情で、不思議そうに首を傾げる志貴に、シエルはさも嬉しそうな口調で言葉を返した。
「ところで、遠野君。今日はこれから、何か予定はありますか?」
「え? ……まぁ、特にこれといった用事はありませんけど」
「でしたら、今から私の家に来ませんか? 夕飯ぐらいなら、ご馳走しますよ?」
「えっ!?」
シエルの突然の提案に、志貴が眼鏡の奥の瞳を丸くする。
「あ、えと、でも……」
返答に困るように、歯切れ悪く口ごもる志貴。
「遠慮はいりませんよ、遠野君。さぁ、そうと決まったら、早速買い出しに向かいましょう」
未だに決めあぐねている志貴の腕を掴むと、シエルはその体を引っ張るようにして、笑顔のまま歩む速さを少し上げた。
「え、あ、ち、ちょっと、シエル先輩!?」
背後から、困惑気味な志貴の声が聞こえてくる。
……その時、シエルの脳裏からは、昨夜の出来事などキレイに消え去っていた。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時16分(132)
題名:Innocence(第五章)

「ふぅ……」
冷涼とした空気の漂う、暗い夜の世界に、微かな溜め息がやけに大きくこだまする。
その音源に目を向ければ、何やらのんびりと足を動かす、志貴の姿が見えた。
「今更だけど、シエル先輩のカレー好きにも困ったもんだな……」
肩を落としながら、誰に言うという訳でもなく一人呟く志貴。
その声音には、どこか妙な憔悴感が漂っているようにも感じられた。
「……はぁ……」
本日何度目かの重たい溜め息。
もう、数えるのも面倒だった。
彼がここまでげんなりとしているその理由は、時を逆巻くこと数時間。
下校途中に、シエルとスーパーへ立ち寄った時にまで遡る。


「♪♪」
何やらご機嫌な様子で辺りを見回すシエルの後ろを、
「……」
志貴は無言のままついて行く。
その訝しげな眼差しは、前方を歩くシエルの姿と、腕にぶら下げた買い物カゴの中身とを、交互に見比べていた。
「あ、これも買っておかないといけませんね♪」
シエルのその言葉と共に、一つの袋が志貴の持つ買い物カゴの中へと放り込まれた。

――ズシッ。

一段とその重量を増す買い物カゴ。
それと同時進行的に増していく、この不可解極まりない状況に対する、押さえつけようのない疑念。
「ねぇ……先輩……?」
志貴はたまらず口を開いた。
「何ですか?」
シエルが後ろを振り返る。
「あの……一体何を作ろうとしてるんです?」
返って来るであろう返答を、大方予期した上で、志貴はとりあえず尋ねてみた。
「え? 何をって……」
シエルが怪訝そうな表情を浮かべて、買い物カゴの中を覗き込む。
「……カレーですけど?」
その上で改めて、シエルは志貴の目の前で小首を傾げて見せた。
……ちょっと可愛いらしい仕草ではあったが、この状況ではそうは見えないから不思議だ。
「えっと……それは分かるんですけど……」
気圧され気味にそう返しながら、志貴は再び目線を下に落とした。
そこに映る、幾重にも積み重ねられたカレー粉の山。
それらの各々が、カゴの中から溢れそうになりながらも、絶妙なバランスでその形状を保っている。
もしもこれが本物の山なら、さながら地滑りを起こす寸前といったところだろう。
「……何故カレー粉ばかりをこんなに?」
「えっ? カレー粉って、買う時にメーカー別に買いだめしません?」
恐る恐るといった様子の志貴に、シエルが目を見開きながら問い返す。
「い、いや、どこのメーカーでも一緒だと思うんですが……」
志貴は口ごもりながら、もう一度目線を買い物カゴへと落とした。
再度、その視界を埋め尽くす山積みのカレー粉。
良く良く見てみれば、彼女の言う通り、それらのほぼ全てがメーカー別になっていた。
ところどころで重複している物は、彼女の一押し品なのだろうか。
「えぇっ!? ……遠野君、貴方はカレーのなんたるかを、まるで分かってません!」
シエルが頬を膨らましながら、志貴に詰め寄る。
「カレーというものはですね、作り手によって味も特性もガラリと変わってしまうものなんですよ? 例えば……」
そう言って、真剣極まりない表情のシエルが、カゴの中から無造作に一つのカレー粉を取り出す。
「これなんかは、辛さが控え目で結構あっさりとした、どちらかというと子ども向けなカレーに適してますが……」
そう説明した後、今さっきまで手に持っていたカレー粉をカゴへと放り込み、今度は直ぐ様別のメーカーの物を掴み取る。
「こちらは市販されているカレー粉の中でもかなりの辛さを誇り、濃厚なコクとまったりとした味が売りなんですよ」
「は、はぁ……」
なあなあに相槌を打つ志貴。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時19分(133)
題名:Innocence(第六章)

「これら多種多様なカレー粉達を上手くブレンドする事にこそ、カレー作りの最大の魅力が隠されているんです!」
そんな志貴に対し、握り拳を作って力強く力説するシエル。
その瞳は光忽の輝きを湛え、心なしか表情もうっとりとしているように見える。
何だか、もう反論する気にもならない。
……だが、
「……あの、先輩?」
どうしても気になることがあって、志貴は再度控え目に口を開いた。
「ん? なんです?」
シエルも、正気を取り戻した眼差しを志貴へと向ける。
普段と何ら変わりのない、彼女の落ち着いた表情。
そんな彼女の態度が、余計に志貴を不安にさせた。
彼女は、確かに一見しただけでは普通の常識人にしか見えないが、いざ知り合ってみると、実は結構非常識の塊のような人だ。
果たして彼女は、食事における大前提というものを理解しているのだろうか?
「……カレー粉しか買ってませんけど、肉やら野菜類の具材は大丈夫なんですか?」
とりあえず、志貴は一応尋ねてみた。
まぁ、それはあくまでも“一応”であって、当たり前の事に対する軽い念押し程度のつもりだった。
いくらなんでも、そこまでのミスはしないだろう。
恐らく、必要な具材は先日までの内に既に購入済みとか、そういうことに違いない。
“そんな失敗、私がすると思いますか? 遠野君は心配性ですね”
……とか、
“安心して下さい。その点については、抜かりありませんから”
……みたいなことを言ってくれるはず。
うん。
間違いない。
……とまぁ、そう信じてはいたのだが……。
「……あ」
しかし、目の前から帰って来た言葉は、それらの予想のどれとも、ほど遠く違うものだった。
無論、それが志貴の耳に届かぬはずもない。

――……あ?

志貴は脳内をフル回転させ、何とか自分に都合の良い意味へと、変換を試みる。
……が、もちろん出来ようはずがない。
なんたって、使用文字総数一文字。
……変換のしようがないではないか。
「……あ?」
仕方なしに、と言うか気付いた時には既に、志貴の口はその言葉を、語尾上がりにまんま再現していた。
「……」
「……」
互いに見つめ合う志貴とシエル。
買い物カゴの中に積み上げられた夥しい量のカレー粉が、二人の間に漂う空気を、何とも言えない間の抜けた物へと変えてしまっていた。
すれ違う人々のほぼ全てが、そのカゴの中を覗き込んでは、訝しげに首を傾げながら離れていく。
「……大丈夫です。たった今、思い出しましたから」
「……つまり、言われなかったら忘れたままだった……と」
「……ま、まぁ、結果気付いたから問題なしということで。さ、食料品売り場に戻りましょう」
「……はぁ」
口調たどたどしく苦笑いを浮かべ、踵を返したシエルの後ろ姿を追って、志貴は溜め息混じりに足を進めた。


……とまぁ、そんなこんなで、なんとか買い物をし終えた後、志貴はシエルの家で彼女の料理……と言うか、カレーをご馳走になり、今はその帰り道の途中だった。
言うだけあって、確かになかなか美味しくはあった。
美味しくはあったのだが……。
「夕飯にカレーライスとカレーうどんは、普通無いよな……」
志貴が一人ごちる。
そう、彼はシエルに促されるがままに、目の前に出されたカレーライスとカレーうどんという、ある意味究極の組み合わせを平らげてきたのだ。
いくら他と比べて比較的美味しいとは言え、カレー系ばかりを二品も食すのはさすがに辛かった。
思い出すだけでも、激しい胸焼けが込み上げてくるようだ。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時20分(134)
題名:Innocence(第七章)

――……しばらく、カレーは食べれそうにないな。

「……ん?」
そんなことを考えながら歩いていると、その視線の先に一つの人影が見えた。
街灯の冷たい明かりを背に、その人影は静かに佇んでいる。

――こんな夜中に……いったい誰だ?

志貴は目を凝らして、その何者かの姿を凝視した。
だが、街灯の明かりが逆光になって、この距離ではその表情を伺い知ることが出来ない。
ただ、自分より少し低いぐらいの背丈と、長く伸びた暗紫色の髪の毛から、その誰かが女性であろうことは予想出来た。
「……痛っ!?」
と、不意に、肩の辺りに鋭い痛みを感じ、志貴は顔を歪めた。

――っ!?

同時に、その身体が変調をきたし始める。
目の前、すぐ先にあるはずの光景から、鮮明な輪郭が無くなってゆく。
曖昧になってゆく意識の中、その視界に映るあの女性の姿が、二重三重と重なってぼやける。
その間も、絶えず襲ってくるのは、激しい倦怠感と著しいまでの睡魔。

――な……何だ……これ……は……。

身体が崩れ落ちる。

――ガッ!

無意識の内に膝を立てて、何とか完全に転倒してしまうことだけは免れた。
だが、この靄が掛かって薄れた意識が、もう後数秒と持たないであろうことは、誰より志貴自身が一番分かっていた。

――カッ……カッ……。

アスファルトの地面を叩く乾いた靴音。
それは、ゆっくりと、だが着実にこちらへと近づいてきていた。

――カッ……カッ……。

音が大きくなってゆく。
だが、意識は確実に遠のいていく。
自我の境界線を踏み越してしまうのは、もはや時間の問題だ。
……もう、考えていられるだけの余裕は無い。

――……コ……ロ……。

悲鳴を上げる精神が、徐々に平穏さを失っていく。
それと相反するかのように、深層心理から浮かび上がってくる、自分の中にあった使われない理念。

――殺せ……。

酷く静かな声音で、ソレが囁き掛けてくる。

――……コロ……ス……。

正常な思考能力を失った意識が、その甘美な誘惑へと流されて行く。
それは、暗く深い所に押し込めて、見えるのに見えないフリをしてきたモノ。
それは、確かに自分自身でありながら、認めたくない一心で目を背け続けてきたモノ。

――そうだ……殺せ……。手足をもぎ、胴体を穿ち、首を刈った後、その五体を微塵に斬り刻み……殺せ!

――……コロス……!

志貴が顔を上げる。
その視線、すぐ先に存在するのは、先ほどまで遠くの街灯の下に佇んでいた女性の姿。
それも、今となっては殺すべき対象に他ならなかった。

――……殺す!

七夜の血が目覚め、遠野志貴という名の表層意識が眠りに付く。
その瞬間には既に、七夜志貴という存在がその肉体を支配していた。
首を振り乱し、その勢いで魔眼殺しを取り外す。
同時に、滑らかな手つきで、ポケットの中から滑るように守り刀を取り出した。
それは、一切の無駄が無い、無意識下に刷り込まれた本能的な動きだ。
あらん限りの力を込め、強く大地を蹴り付ける。
ひび割れだらけの脆い世界。
その瞳が捉える死の線目がけて、忠実にその線上に斬撃を奔らせた。
……だが、いくら七夜の血が覚醒したとは言え、彼の身体に起きている異常そのものは抑えようがない。
振り翳した白刃は、一歩後ろへ退いた相手の姿を捕らえられず、街灯の明かりを反射しながら虚しく空を裂いていた。
だが、七夜とてこのまま黙ってはいない。

――チッ。

口に出すことなく苦々しく舌打ちをしながら、七夜は再び大地を蹴り、相手に詰め寄ると同時に斬撃を放つ。
……いや、放とうとしただけで、その行為が実行へと移されることは無かった。

――くっ!?

再び感じた鋭い痛み。
その要因を、志貴の瞳は捉えることが出来なかったが、退魔一族が末裔こと七夜の瞳は、決してそれを逃すことはなかった。
膝からガクンと崩れ落ちる。
その眼差しは、自らの肩口を見つめていた。
そこに刺さった何か。
一見しただけでは、何も見えないかもしれない程、余りにも鋭く細い何か。
それが、とてつもなく細い“針”であることに気付くまでに、大した時間は要しなかった。
もし、この場に一塵の明かりすら無かったなら、それを見付けることすら叶わなかっただろう。

――……チッ、動かないか……。

必死に身体を動かそうとはしてみたものの、立ち上がることは愚か、指一本とまともに動かなかった。
もう、何一つと抵抗は出来ない。
次第に膨らんでゆく死の予感。
「……ふっ」
にもかかわらず、七夜は笑っていた。
口の端を釣り上げ、まるで自らを嘲るかのように。

――……まぁいい。このまま消えるのも、また一興か。

そんなことを考えた後、七夜はゆっくりと瞳を閉じ、本能に促されるがままに、深いまどろみの中へと沈んでいった。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時21分(135)
題名:Innocence(第八章)

「さて……と」
刻は深夜。
そろそろ日付が変わろうかという時刻だ。
昼間までの制服は脱ぎ捨て、その出で立ちは既に、漆黒の法衣を纏った代行者と化していた。
「……」
無言のまま、自室の中央から窓際へと足を動かした。
そこから見下ろせる、夜の世界へと視線を向ける。
もちろん、そこに人の姿など欠片たりとて見つからなかった。
このような時間帯だ。
当然と言えば当然のことだろう。
ましてやこの街には、他と比べて夜を恐れるもっともな理由があった。
つい数ヶ月ほど前まで、街全体を恐怖に陥れていた連続失踪事件。
それは、根源であった、ミハイル・ロア・バルダムヨォンの完全消滅により、既に解決済みではあった。
だが、普通に暮らしているだけの人々が、そのような事を知る由もない。
よって今も、無意味に過ぎない捜査と、決して見付かることのない行方不明者の捜索が、未だに続いているのだ。
それに、まだ夜の世界は安全という訳ではなかった。
数々の吸血鬼達が遺していった“爪痕”が、この街にはまだまだ山のように残っている。
それらを片付け、その痕跡を跡形もなく抹消し終えるには、かなりの時間と苦労を要するだろう。
だが、果たさねばならない。
……何故?
この街を任された代行者として?
確かにそれもある。
だが、この街だから……彼がいるこの街だからこそ、ここを安全な街にしたい……そういう気持ちの方が、断然強かった。

――そう、彼のためにも、私は行かなくてはならない。

シエルは、自らに言い聞かせるように心の中で呟いた。
今まで、そのようなことは、敢えて確認したことすらなかった。
当然のことを、それこそ当然のようにこなしていただけだ。
なのに今更、その行為に躊躇いを感じるなんて……。

――……怖れているのか?

己自身に問いかける。
昨晩感じた、あの姿無き鋭い殺気。
もしかしたら、初めて死の恐怖というものを感じたかもしれない、未だ曾て味わったことのない程の、あのドス黒い殺意の奔流に。

――……。

得体の知れない恐怖を胸に、シエルはふと後ろを振り返った。
その先に見える小さなキッチン。
そこの洗い棚の上に洗い上げられているのは、先ほどまで使用していた二人分の食器。
「……らしくありませんね」
それを見つめるシエルの口元に、少し自虐気味な苦笑いが浮かんだ。
今まで、私は何を悩んでいたのだろう。
この街に住まう人々のため、何より彼のためにも、私は戦うことを決めたはずだ。
そのことに躊躇いを抱くなんて、私はやっぱりどうかしている。
らしくない……まさにその通りだ。
「んー……」
両手を高々と掲げて、一度だけ大きく伸びをする。
「……っと。そろそろ行きますか」
自分自身に言い聞かすように呟いた後、シエルは部屋の電気を消した。
辺りに暗闇が広がる。
瞳には何も映らないが、そこそこ慣れ親しんだ我が家だ。
目を瞑っていても、どこに何があるかくらいは手に取るように分かる。
狭く暗い廊下を、危なげもなく歩いて行く。
玄関口で靴を履き、軽くつま先で床を叩く。
鍵を開け、ドアノブを捻りながら扉を押し開く。
外界へと足を踏み出し、同時に懐から鍵を取り出す。
何度となく、外出時には決まって行ってきた一連の動作。
……だが。
「……あら?」
扉の方を振り返ったシエルの目が、軽い驚きに小さく見開かれる。
その視線が捕らえる先、ちょうどドアノブと同じ高さくらいの所にある、一枚の紙切れ。
それは四つに折りたたまれ、テープによって扉に貼り付けられていた。
「……何でしょう?」
シエルはその紙切れへと手を伸ばすと、破れないよう注意してテープを剥がした。
手の上にそれを広げる。
瞬間、その視界に入ってくる数多の文字達。
シエルの瞳が、左から右へとせわしなく動く。
時が経つにつれ、その表情から徐々に平静さが失われてゆく。
代わりにその瞳に宿り始める、怒りを超越した明確な激怒。
「……なんてことを……!」
怒りを露わにそう呟いた次の瞬間には、既にシエルの体は駆け出していた。
一瞬階段へ向かおうとして……、

――くっ!

直ぐに止めた。
漆黒の法衣を翻し、直ぐ様最短経路へと向き直る。

――こっちの方が断然早い!

そして、向きを変えるや否や、迷うことなくシエルは跳躍した。
僅かに流れる無重力の時。
その後に訪れる急速な下降。
間もなく襲われるであろう地面からの衝撃に備え、脚に全神経を集中させる。

――トン。

脚の筋肉を上手く収縮させ、ほとんど音を立てることなく着地する。
それとほぼ同時に、シエルは全速力で疾走し出した。
力の限り、一度も背後を振り返ることなく。
そして、彼女の姿は急速に遠ざかり、すぐに夜の暗闇に紛れて見えなくなった。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時22分(136)
題名:Innocence(第九章)

「はぁっ……はぁっ……」
消えかけた街灯の淡く冷たい光のみが照らす、人気の無い町外れの広場。
空は分厚い雲に覆われており、向こう側にあるはずの満月は、その片鱗すら臨めない。
周囲を埋め尽くさんばかりに、大量に植えられた沢山の木々が風を遮り、そこには凪のような無風の空間が形成されていた。
そのせいだろうか。
暦の上では冬も近づいて来つつあるというのに、まるで熱帯夜の最中にいるかのような蒸し暑さを感じた。
「はぁ……はぁ……」
そんな公園の中央部で、シエルは膝の上に両手を付き、肩を上下させながら、苦しそうに全身で呼吸をしていた。
「……はぁ……ふぅ……」
額に浮かんだ汗を拭い取り、一度だけ大きく深呼吸をする。
やがて訪れるやもしれない闘いの刻に備え、一瞬だけ全身の神経を緊張から解放した。
「……」
ゆっくりと息を吐く。
つい先ほどまで全力疾走していたとは思えないくらい、すぐに呼吸は整った。
周囲に耳を澄ませる。
その全身は既に臨戦体勢だ。

――……。

広場全体を満たす、完全なまでの静寂。
ここだけ、世の喧騒から切り離されているかのようだ。
「……」
無言のまま、シエルはゆっくりと歩みを進め始めた。
足音を消そうとすることなく、威風堂々と。
無音の支配する広場に、靴と砂利が擦れる騒音が響き渡る。
もし、この近くで相手が息を潜めていたとしたら、まず間違いなくシエルの存在を悟るに違いない。
だが、こちらとてそれが狙いだ。
見つかっているかどうか分からない状況より、確実に見つかっていると確信できる方が、かえって即座の対処が行いやすい。
前後左右はもちろんのこと、上空、はたまた地下から奇襲されたとしても、逆に切り返す自信は十二分にある。
来るなら来い。
そんなことを考えながら、シエルは広場の隅の方へと歩いて行き……。

――……。

……そのすぐ後に、そのような思考が無駄であったことを知ることとなった。

――……いた。

視線鋭く見つめる先、静かに佇む一つの人影に、シエルの表情が引き締まった。
死を間近に迎えた街灯に照らされて、その姿が闇の中露わになる。
その五体は、当初想像していたものよりかは幾分小さく、ちょうど手のひら一つ分くらい、シエルよりもやや小柄だ。
緩やかに伸びた美しいまでの暗い紫の髪が、弱々しい街灯の光を反射して、艶やかな輝きを放っている。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時23分(137)
題名:Innocence(第十章)

漆黒に彩られたその瞳は、慈愛に満ちた優しいものにも見えたが、そんなものはあくまでも表面上のものに過ぎなかった。
その奥に覗けるのは、明確なまでの深い怨念のみだ。
そのすぐ傍ら、まさにそびえ立つという表現にふさわしい巨大な大木に、シエルの目線が移される。
そこにある、両腕ごと胴体を縄で縛られた彼の姿。
うつ向いているせいで、その表情を伺い知ることは出来ないが、微動だにしないことから、気を失っているであろうことは想像が付いた。
「彼を放しなさい」
シエルは冷涼とした声音で語り掛けながら、ゆっくりと歩みを進める。
その眼差しは、まるで視殺せんばかりにどこまでも鋭利。
「……」
だが、その人影は、そんなシエルの殺意などは意に介さず、静かなたたずまいを止めようとはしなかった。
シエルが一歩近寄るその度毎に、歩幅の分だけ二人の間隔が狭まって行く。
「……初めまして。シエルさん」
唐突に、その女性が口を開いた。
とても静かで穏やかな口調。
だが、それは表面的な優しさで取り繕っただけで、偽りと暗い殺意に満ちていた。

――え……?

その声音に、シエルの足が立ち止まる。
大きく見開かれた眼が、ありありとその驚きの程を表していた。
聞き覚えのある声。
いつか……どこかで、確かに聞いたことのある声だ。
「……いえ、久しぶり……と言うべきかしら?」
足を止めたシエルに代わり、その女性がゆっくりと歩みを進め始めた。
二人の間の距離が徐々に詰まってゆく。
「私のこと、覚えているかしら……エレイシア?」
「なっ!?」
突如として、シエルの表情が驚愕に引き釣る。
時を同じくして脳内に蘇る、血生臭い過去の記憶。
今まで心の奥底に封じ込め、思い出さないようにしてきた、紅に染め尽くされし残虐な光景。

――殺してやる……絶対に……いつか、絶対に殺してやる……!

脳裏で幾度となく繰り返されるのは、今まで聞こえないフリをして抑え込んできた、耳に張り付いて離れない怨鎖の叫びだ。
「……フィーネ……」
自然と口を突いて出た彼女の名前。
前に口にしたのは、果たして何年前だっただろうか。
奇妙な懐かしさと、それを上回る悲しさ。
それらが互いに混ざり合った、言いようのない感情の渦。
それは、さながらコーヒーの中に溶け込んだミルクの如く、曖昧で捕らえ所の無い輪郭を形成してゆく。
「ふふっ……正解」
そんな複雑な想いを胸に、動けずにいるシエルに向かって、その女性―フィーネ―が静かに呟いた。
……その面に残酷な冷笑を浮かべながら。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時24分(138)
題名:Innocence(第十一章)

寝静まった夜の街。
夜が生み出す自然の暗闇を、人工の無機的な明かりが無惨なまでに照らし出す。
その内の一部、定間隔毎に配置された誘蛾灯には、無数の矮小な黒い影が群がっていた。
日の落ちた世界は冷却され出しており、一陣の風が傍らをすり抜ける度、その冷気で身体が冷やされていく。
昼間の生暖かい湿気混じりの風とは違い、乾燥して冷たいそれは、吹きそよぐ度に心地良さを感じる。
「……」
そんな中、無言のままアルクェイドは、何気なく夜の寒空を仰いだ。
淀んだ雲に覆われ、月や星達は欠片たりとてその姿が見受けられない。
そのような空を見ていると、それだけで気分まで暗く沈んでいきそうだ。
だから、彼女はそれを見るのを止めた。
上空高くへと向けていた視線を平行に戻す。
「はぁ……」
自然と口から漏れる重々しい溜め息。
心なしかその足取りも、普段と比べて幾分覇気が感じられない。
その脳裏では、つい先ほど、志貴を訪ねて屋敷を訪れた時のことが鮮明に思い出されていた。


――ピンポーン。

夜の静寂の中に、呼び鈴の甲高い音がやけにうるさく響き鳴る。
「……面倒だなぁ」
インターホンから指を離しながら、物々しささえ感じる程に巨大な扉の前で、アルクェイドはだるそうに呟いた。
いつもなら、こんなかったるいことは何もかもすっとばして、窓からダイレクトに志貴の部屋を訪問させてもらうところなのだが…………。

――頼むから、今度はちゃんと玄関から来てくれ……。

何やら疲弊しきった様子で、力無く呟いた志貴の言葉が、今も耳に残っている。

――こんな不便な屋敷、さっさと出て私のところに来ちゃったらいいのに。

「兄さんっ!!」

――バンッ!!

そんなことを考えているところに、何の前ぶれもなく急に扉が開かれた。
「きゃっ!?」
勢い良く開け放たれた扉が、アルクェイドの鼻先をかすめ、反対側の壁に激突した後小刻みに震える。
反射的に後ろへ跳び退いていなければ、今頃は冗談抜きで鼻の骨が砕けていたかもしれない。
「こんな夜遅くまで、一体何を……って、あら?」
その奥に覗ける一人の少女の姿。
怒りに引き釣っていたその眼差しは、こちらに向けられたその瞬間、毒気を抜かれたようなものへと変化していた。
「ちょっと妹さん! 急に開けたら危ないじゃないの!」
アルクェイドが頬を膨らます。
冗談めかしてはいるが、鼻が潰れていてもおかしくなかった状況なだけに、その剣幕にははっきりとした怒りが湛えられていた。
「え? あ、それは申し訳ありませんでした」
アルクェイドのその言葉に、少女、秋葉が小さく頭を下げる。
だが、その動作はあくまでも形式の範疇を超えるものではなく、心からの謝罪の意思などは一欠片とて感じとれなかった。
「……で、何の御用でしょう?」
そのことは、“とりあえず形だけでも謝っておこう”的な彼女の口ぶりからも、ありありと読み取ることが出来た。
……まぁ、今まで行ってきたアルクェイドの行為が行為なだけに、それも至極当然の対処と言えるやもしれないのが、少々悲しいところだ。
「決まってるじゃない。志貴に会いに来たのよ」
そのことを理解してかいないでか、アルクェイドがさも当然のように言い返した。

――ピシッ。

途端、周囲の闇に響く乾いた空裂の音。
その中空に走る、目には見えない空間の裂目。
そしてそれは、無論秋葉の怒りによって生じていた。
「残念ながら、兄さんはまだ帰っていません」
「みたいね。どこに行ったかくらい知らないの?」
「知りません。第一、例え知っていたとしても、貴女に教えるはずがありません」

月夜 2010年07月02日 (金) 01時25分(139)
題名:Innocence(第十二章)

冷たく突き放すように、秋葉が無下に言い捨てる。
その眉間に寄った深い皺が、彼女の怒りの程度を良く表していた。
あえて口語訳するなら、

“さっさと消えなさいよ! この泥棒猫!”

……といったところだろうか。
まぁ、志貴がいないのなら、アルクェイドとてこんなところに長居するつもりは毛頭ないのだが。
「そう。ならここに用は無いわね」
アルクェイドが踵を返し、門前にてこちらを睨み付ける秋葉に背を向け、今来た道を戻ろうとした。
……だけど、何か物足りない。
このまま何も言わずに立ち去っても、別にそれはそれで構わないのだけれど、それじゃあ些かつまらないというものだ。
「……あ、そうだ妹さん」
と、何を思いついたのか、アルクェイドは背後を振り返りながら、今まさに屋敷内へ戻ろうとしていた秋葉の背中に声を掛けた。
「……何ですか?」
秋葉がアルクェイドの方を向き直る。
その表情は、怒りと呆れを惜し気もなく前面に押し出していた。
「志貴が帰って来たら伝えておいて。次私の家に来る時は、忘れずに着替えを持って来るように……って」
「なっ!?」
途端、秋葉の瞳孔が大きく見開かれる。
こういう時、下手に避妊具のようにあからさま過ぎる類を口にするよりも、寝間着や歯ブラシといった日用品の方が、女性の怒りを逆撫でしやすいことを、アルクェイドはしっかりと学習していた。
現に、秋葉の怒りは余程のもののようだった。
固く握り締められた拳が、ワナワナと震えている。
「別に私の服を貸して上げても良いんだけど、さすがに女物だからね〜。まぁ、志貴が着たらそれなりに可愛いんだろうけど♪」
視殺せんばかりにこちらを睨み据える秋葉の前で、尚も挑発し続けるアルクェイド。
「……」
門前にて無言で佇む秋葉。
黒く艶やかだった髪に赤みが掛かってゆくのは、果たしてその怒り故か、はたまた嫉妬故か。

――そろそろ潮時かな。

「それだけ。じゃあね〜」
アルクェイドは心の中でそう呟くと、わざとらしい笑みを浮かべ、わなわなと震える秋葉に手を振りながら、駆け足で遠野邸を後にした。


……とまぁ、こんな具合で秋葉をからかい、志貴に危険な置き土産を残しと、アルクェイドはそういう意味では満足していた。
だが、せっかく志貴に会いに行ったというのに、結局会えず終いというのは、やっぱり物足りない。
それに、今日はこれといった用事があるわけでもない。
ということで、志貴を探すため、アルクェイドは夜の街を、宛てもなくずっと歩き回っていたのだが……。

――見つかんないなぁ……。

周囲へとせわしなく目線を配るが、いくら探せども、求める姿はそれに似たものすら全く見つからない。
第一、街のどこにも人影すら見当たらないのだから、それも当然と言ってしまえばそれまでだ。

――もぅ……志貴ったら、こんな夜中に一体何処行っちゃったのよ。

――カツン。

と、そんなことを考えていた矢先、不意につま先の辺りに何かを蹴ったような感覚が生じた。
それとほぼ同時に、足下から聞こえてくる乾いた音。
「ん?」
気になって、アルクェイドが視線を地面に落とす。
その何かは、蹴られた時の勢いでアスファルトの地面を滑り、コンクリート塀のそばまで転がっていた。
「何かな?」
歩みを進め、その傍らにゆっくりとしゃがみ込む。
そっと右手を伸ばし、その何かを己の眼前に持ち上げる。
それは、一見しただけでは何の変哲もないただの眼鏡。
だが、そのレンズ越しに見える世界は、アルクェイドの裸眼に映る世界と何ら変わりはなかった。
「これ……まさか……」
アルクェイドの胸中に、重みを増してのしかかる不安が、その心に暗憺たる暗い陰を作り出す。
そんな彼女の心境を嘲笑うかのように、空から水滴が降り始めた。
最初はポツポツ。
だが、それはすぐにザアザアと、そして分を待たずに豪雨へと移行していく。
「……くっ!」
手に持った度無しの眼鏡を強く握り締めると、アルクェイドは雨の中を走り出した。
痛いほどに身体を打ち付ける冷たい雨粒。
次第に冷えゆく体の中心で、不安は徐々に増大し、それに従って心に差し込む暗い陰が、益々その領土を広げていく。
「志貴……」
弱々しく頼りないその呟きは、誰かに届くことは愚か、本人の耳にすら聞こえぬまま、降り頻る豪雨にかき消され、夜の街で空気中へと霧散していった。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時26分(140)
題名:Innocence(第十三章)

「はぁ……はぁ……」
荒く乱れた呼吸音が、降り頻る雨音に混じって広場を包み込む。
泥沼と化した大地を掴む両手と、小刻みに震える両足だけが、必死にその身体を支えていた。
少しでも気を抜けば、今にも崩れ落ちそうだ。
地に落とされる視界の端、そこに映し出された自らの手には、無数の細い針が突き立てられている。
「……」

――ヒュッ。

空気を切り裂くかすれた摩擦音。
「あぅっ!!」
次いで襲ってくる激しい苦痛。
まるで、頭の中を掻きむしられるかのような激痛が、頭から爪先まで全身を駆け巡る。
「……ふふっ」
頭上から聞こえてくる、彼女の楽しそうな笑い声。
無邪気なようでいて、その実殺意に満ち満ちた笑い。
「う……うぅ……」
私は地面を掴んだまま、ゆっくりと顔を持ち上げる。
酷く緩慢な、自分でも苛立ちを覚えるくらいの速度で。
「く……うっ……」
たったそれだけのことなのに、全身を耐えがたい激痛が走る。
もう満足に動いてくれる部位など、全身どこを探しても一ヶ所たりとて見つからないだろう。
「……うぅっ……」
私がようやく顔を持ち上げた頃、彼女の表情からは既に笑みは消え、歪んだ快楽に溺れた嘲い顔は、能面を貼り付けたかの如き冷たい無表情と化していた。
「フィーネ……」
囁くように彼女の名を呼ぶ。
昔、良く呼んでいた懐かしい名前を。
だが、それさえも彼女は許してはくれなかった。

――ヒュッ!

再度、中空を走る数本の針。
「うぁっ……!」
それらが体に突き刺さる度、新たな痛みが生み出される。
「耳障りな声ね。もっと綺麗な声で鳴いてよ」
苦痛に歪むその顔を覗き込みながら、フィーネが残酷な笑みを浮かべ、再び私の腕に針を突き立てる。
「っ……くぁっ……!」
「痛い? そうでしょうね。痛覚を司る神経に、直接刺激を与えてるんだから当然よね」
そう呟きながら、いつの間にかうつ向いていた私の頭を、フィーネが乱暴に持ち上げる。
その視界に映る彼女の表情は、薄らんだ意識によって曖昧にボヤけ、既に輪郭すら定かでなかった。
「貴女の神経はもうズタズタで、常人ならとっくに死んでいるか、我を失って発狂しているところよ」
冷たい声音。
昔の優しい声は、その面影すら留めていない。
「……なのに」
と、そこまでずっと冷徹でしか無かった彼女の声色に、微かな異変が生じた。
「……なのに、何で一度も反撃しようとしないのよ……」
憐憫の情が含まれた小さな呟き。
気丈を装ってはいたが、頬を伝う雨とは違った一筋の滴が、彼女の心の奥底に隠された本当の感情を表していた。
「……貴女に……そんなこと……出来る訳が無いでしょう……?」
私は途切れ途切れに、だがはっきりとした口調で言った。
「貴女は……私の大切な……大切な友人なのだから……」
「嘘だ!!」
フィーネは大声で怒鳴ると、勢い良くその場に立ち上がった。
支えを失い、私の体が再び泥の中に沈む。
「なら、何で皆を殺した!!」

――ガッ!

そんな私の眉間に、フィーネが怒声と共に蹴りを叩き込む。
「くっ……!」
今までの、神経を直に切り刻まれている捕え所の無い痛みと違い、直接肉体に訴えかける物理的な痛みに、私は苦々しく表情をしかめた。
「街の皆を! 学校の皆を! 私の友達を! 両親を!」
これまでずっと溜め込んできた怒りのその全てを撒き散らし、フィーネはその体を蹴り続けた。
「友達だと思っていたのに……私は、誰より貴女を信じていたのに……!!」
しかし、そんな彼女の姿は、私の目には、まるで泣きじゃくる幼い子どものように見えた。
悲哀、怨念、憤怒、そして、それらの中に在る、彼女自身の自分に対するやるせない気持ち。
そうだ。
彼女は生来、他人を恨むようなことが出来る人ではない。
何であんなことをしたのかと相手を責めるより、何で止めてあげられなかったのかと自身を責める。
今だって、「何で皆を……!!」と叫びながらも、心の奥底では自分を責め続けているに違いない。
彼女は……フィーネはそういう優しい人だ。
優しいが故に、他人を恨みきることが出来ない。
だからといって、自分一人で背負うには、この罪は余りにも重すぎる。
行きどころの無いこの感情を、フィーネは怒りへと還元することによって、自分という存在を自分自身たらしめていたのだろう。
「っ……ぁっ……!!」
だから、私は一切の抵抗をしなかった。
反撃することもなく、言い返すこともなく。
ただ、黙ってこの身を打たせ続けた。
私じゃない。
あの惨劇は、私がやったんじゃない。
私の中に巣食っていた、ロアという奴がやったんだ。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時28分(141)
題名:Innocence(第十四章)

そう言うだけなら簡単だ。
だが、そんな事は言う気にもならなかった。
あの時、私とロアは間違いなく一つの存在だった。
その肉体はもちろんのこと、思考、記憶、果てはその魂までも。
それに、もしそのような事を言えば、フィーネのあの性格のことだ。
きっと、最後には私を許してしまう。
だから……いや、だからこそ、口が裂けても言えない。
今の私に出来ることはただ一つ。
甘んじて、この状況に身を委ねることだけだった。
「……」
不意に、その身を襲っていた殴打が止んだ。
代わりに、天より降り注ぐ激しい豪雨が、ズキズキと痛む全身を冷たく刺す。
「……」
「……」
突如として訪れる、雨音以外何も聞こえない静寂の刻。
遠のき薄れていく意識を、かろうじて留めてくれている数多の雨粒だけが、確かな時の流れを表していた。
もし、今空が晴れていたなら、時が止まっているように感じられたかもしれない。
「……何で……?」
おもむろに放たれた弱々しいフィーネの呟きが、この場に漂っていた沈黙の空気を破る。
「ねぇ……どうして……?」
「……フィーネ?」
問い返しながら、私は痛みを堪えて顔を持ち上げた。
その瞳に映る彼女の表情。
それは、未だかつて見たことの無いものだった。
優しさと同時に哀しさを併せ持った、悲壮感を湛えつつも慈愛に満ちた表情。
雨水とは異なる一筋の滴が、彼女の目の下に透明な跡を作り出す。
溢れ落ちたそれは、雨によって黒く濁った大地に降り、音もなく染み込み消えていった。
「どうして……貴女みたいな人が、皆を殺さなきゃならなかったの?」
両の瞳から、溢れては流れ落ちる涙を拭き取りもせず、彼女が私に訴えかける。
「……」
私は答えない。
否、答えられない。
「……貴女は、皆を殺したくて殺したの?」
「……」
答えようとする。
だけど言葉が出ない。
「……本当に、あれが貴女の望みだったの?」
「……」
答えを探す。
決して見つかりはしないと知りながらも、私は私の心の中を漁り続ける。
「ねぇ、教えて……エレイシア……」
フィーネの真摯な眼差しが、痛いくらいに私を見つめる。

――私は……。

考える。
思い出す。
思考を過去へと巡らせる。
……だが、答えは出ない。
あの時、私に望みは無かった。
ロアが人を殺める度、私はその感覚を直に味わっていた。
あの時、ロアが一番最初に殺した相手。
それは、私を慈しみ育ててくれた、誰よりも優しい自らの両親だった。
血を吸い上げ、用無しとなったその亡骸を、ゴミを扱うかのように捨てた時のことが、今でも鮮明に思い出せる。
私は泣いていた。
心の中で号泣し、自分自身の存在そのものを心底呪った。
だけど……。

――……美味しい……。

それが、親を殺した直後の私が、何よりも初めに発した言葉だった。
その後も、私は人を殺し続けた。
正確には、“私の中のロアが”だが。
しかし、いつからか私の心は、泣くことを忘れていた。
人を殺めても、何も感じなくなっていた。
抵抗もしない。
結果として人が死んでも、“あぁ、死んだのか”程度にしか考えない、超然的な感覚に麻痺をした心。
その中で、果たして私は何を望んでいたのだろうか。
ロアの望みと私の望み。
この間に、何らかの相違はあったのだろうか。
「私は……」
「……そのくらいにしておきなさいよ」
その言葉を遮って、遠くから誰かの声が聞こえてきた。
「誰!?」
フィーネがその方へと向き直る。
雨音に混じって聞こえてくる、泥を踏みつける鈍く湿った足音。
その先に見える、白のハイネックに紫のロングスカートという、いつもの出立ちの彼女の姿。
金糸を思わせるかのような鮮やかな金髪が、街灯の薄明かりを反射して、その存在を強調するかの如く輝いている。
「アルクェイド……」
「はぁい♪ シエル。ざまぁないわね」
それは、皮肉たっぷりにこちらへ手を振りながら、嫌味な笑みを浮かべるアルクェイドの姿だった。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時31分(142)
題名:Innocence(第十五章)

アルクェイドが、皮肉混じりに手を振りながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。
その視線は、既にシエルの姿を捕えてはおらず、一直線にフィーネの方へと向けられていた。
「誰だか知らないけど、これは私と彼女の問題よ。第三者はでしゃばらないでいただけるかしら?」
その鋭利な眼差しが睨み据える先、それを真正面から受けながらも、冷たく突き放すように言い捨てる。
「生憎そうもいかないのよね。そこのバカに引導を渡すのは、この私っていう先約があるから」
それに……と言葉を繋げながら、チラッと横に目線を泳がせる。
意識を失い、木と縄で拘束されている志貴の姿が、そこにはあった。
「志貴をこんな目に遭わせた責任、ちゃんと取ってもらわないとね」
アルクェイドの眼差しが、一層鋭く尖鋭と化す。
「……貴女、邪魔よ」
そんなアルクェイドを前にして、つい先ほどまで、フィーネの心に張り付いていた薄靄が晴れた。
それと入れ違いに訪れる、言い用の無い苛立ちと不快感。
刹那、その両腕が敵意を剥き出しにする。
投擲される数多の針。
それらの全てが、正確にアルクェイドの神経系へと襲いかかる。
にもかかわらず、全く動じることなく、堅くなに前へと歩みを進めるアルクェイド。
無謀だ。
体中の神経をズタズタにされ、無惨に崩れ落ちるがいい。
その全身に、針達が容赦なく突き刺さる。
腕に。
脚に。
胴体に。
見ているだけで痛々しいくらい、ありとあらゆる箇所に生々しく。
……だが、
「ふふっ……」
アルクェイドは口元に不敵な笑みを浮かべるだけで、前方へと動かす歩みを止めようとはしなかった。
「なっ!?」
フィーネの面に、初めて驚愕という名の感情が姿を現す。
バカな。
狙いは寸分たりとて外していない。
全身の神経を貫かれて、常人ならその痛みの余り、立っていることすらあたわないはず。
ましてや、歩くことなんて不可能だ。
なのに何故……。
「そんなオモチャで、私を倒せるとでも思っているのかしら?」
アルクェイドが口元を綻ばせる。
その視線はあくまで鋭利。
「くっ……」
フィーネが後退る。
だが、何も武装はこの細い針だけな訳ではない。
むしろ、これは対人専用の補助武装。
主武装は別にある。
フィーネは懐に手を滑り込ませると、素早く数本の棍のようなものを取り出した。
一見しただけでは、そこに何かがあるようにすら見えない、闇と同色の漆黒色をした、組み立て式の大鎌。
慣れた手つきで、手際良くそれらを組み上げると、フィーネは出来上がったその鎌を正眼に構えた。
「黒い大鎌か……それが貴女の獲物?」
アルクェイドが、その鎌を見つめながら問うてくる。
「へぇ、目はなかなか良いみたいね? その通りよ」
「ふっ……そんな大きいだけの鎌で、私を殺せるとでも思っているのかしら?」
その口元に不敵な笑みが浮かぶ。
それは、闘いを知っている者のみが見せる、狂喜を含んだ残酷な笑みだ。
「貴女こそ、何の武装も無しで、私と対峙するつもり?」
「心配は御無用よ。私はこれが主武装だから」

月夜 2010年07月02日 (金) 01時32分(143)
題名:Innocence(第十六章)

――……。

その言葉を最後に、二人の間から会話が消え去る。
代わりにその空間を満たす、臨戦時の張り詰めた緊張感。
「……そっちが来ないなら、こっちから行かせてもらうわよ!」
先に仕掛けたのは、アルクェイドの方だった。
力強く地面を蹴り、まさに疾風の如く、フィーネとの距離を急激に詰める。
その勢いそのままに、思いきり体重を乗せた正拳を叩き込んできた。
だが、そんな直線的な攻撃をみすみす喰らうほど、フィーネも素人ではない。

――ガン!

鎌の柄の部分を使い、その正拳を正面から受け止める。
鈍い衝突音と共に、突き出された拳が中空にて静止した。
だが、元より受けられるであろうことくらい、アルクェイドの方とて想定済みだ。
直ぐ様拳を引き、間発を入れることなく、その側頭部目がけて強烈な回し蹴りを放つ。
速い。
今度は、鎌で受け止めるにはいささか無理がある。
そう素早く判断すると、フィーネは腕を立ててその蹴りを防いだ。
だが、予想外だったのはその威力だ。
このように、雨でぬかるんだ不安定な地面では、軸足がしっかり固定出来ない以上、大した蹴りは放てないだろうと、少々たかをくくっていたのだが……とんでもない。
防いだは良いものの、その余りの衝撃に足元が軽くふらつく。
その隙を、アルクェイドがみすみす逃したりするはずがない。
「隙ありっ!!」
僅かに開いた間隔を詰めるため、一歩だけ足を前へと踏み出す。
同時に、一気に右手を前方へと突き出し、その喉元へと喰らい付かせようとした。
……しかし、その手がフィーネに届くことは無かった。
伸ばされた腕が、相手のすぐ手前で、さ迷うかの如く何も無い空間を漂う。
それと時を同じくして、胸部に感じられた進行方向と真逆の圧力。
それは、アルクェイドの体を押し返そうという、明確な意思をもっていた。

――っ!?

いち早く危機を察し、アルクェイドは本能的に後ろへと跳び退いた。
そのすぐ後、右手首を刺激する鋭い痛み。
見てみると、皮膚が薄く切り裂かれ、その裂傷部分からは絶え間なく鮮血が溢れていた。
表面張力の限界を超えた血液が、手のひらに一筋の跡を作り、指先から地面へと溢れ落ちていく。
「へぇ、良くあそこから身を退いたわね。なかなかの状況判断よ」
漆黒の鎌の刃に少しだけ付着した赤い血を、フィーネが指先で軽く拭い取る。
「くっ……姿の見えない鎌っていうのは、予想以上に厄介な代物ね」
手首から溢れ出る鮮血を、アルクェイドが舌で舐めとる。
「……でも、何となく対処法は分かっちゃったかな〜」
それと同時に、挑発的な笑みに口元を綻ばせた。
「あら? 強がりかしら?」
「残酷なようだけど、私は真実しか口にしないわ」
アルクェイドが自信満面に言い切る。
それは、あやふやな自信などではなく、確固たる何かに裏付けをされた確信のように見えた。
「なら、見せてもらおうかしら? 貴女の出した答えを」
瞬間、フィーネの体が動いた。
次にその姿が視界に映った時、既に彼女の体はアルクェイドのすぐ目の前。
唸りを上げて、勢い良く鎌が振り下ろされる。
「おっと」
だが、アルクェイドは少しも慌てることなく、後ろへと軽く跳び退いただけで、鎌が描く放物線の軌道上から、いとも容易く身を避けた。
「えっ?」
そんなアルクェイドの軽い身のこなしに、フィーネの口から驚きの声が漏れる。
「あら? どうかした?」
アルクェイドがわざとらしく問い返す。
その口元に浮かんだ微笑は、相手の攻撃に対する余裕の象徴だ。
見えないはずの斬撃。
それを、あんなにも容易くかわせる道理があるはずない。

――……偶然だ。そう、偶然に決まってる。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時33分(144)
題名:Innocence(第十七章)

フィーネは自らに強く言い聞かせた。
再び切り掛かる。
縦に、横に、袈裟型に。
しかし、立て続けに放たれる縦横無尽の斬撃のそれら全てを、アルクェイドは最小限の動きだけで、軽々と避け続けた。
ありえない。
夜の闇と同化したこの鎌の斬撃は、いくら目が良くても決して見えはしない。
それ故に、こんなにも簡単に避けられるはずがない。
なのに……なんでこいつは……!
「うわあああっ!!」
得体の知れない恐怖に怯え、フィーネは大声を上げて鎌を横に薙いだ。
だが、いち早く跳躍したアルクェイドの姿は既に上空。
それは虚しく虚空を薙ぎ払うのみだった。
「貴女の敗因を教えてあげる」
背後から聞こえてきた声に反応し、フィーネがすかさず後ろを振り返る。
「一つ目はその鎌。いくら刀身が見えないとは言っても、貴女の腕の動きを良く見ていれば、その軌道を読むことくらい訳ないわ」
「くっ……」
フィーネが奥歯を噛み締める。
まさか、そんなことで鎌の軌道を読んでいたとは……。
だが、腕の動きから相手の攻撃を読むなど、口で言うのは簡単だが、実行に移すことなどそうそう出来はしない。
それなりの実力差があり、且つ自分の置かれた状況を、第三者的な客観視点から見つめられるだけの冷静さが必要だ。
「二つ目は、私と貴女の身体能力、そして戦闘経験の歴然たる差よ。早い話が、血統書とキャリアの違いね」
アルクェイドが勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、ゆっくりと歩み寄る。
その全身から感じられる、絶対的とも言える死の予感。
「最後、貴女にとって最も決定的な敗因を教えてあげるわ」
その言葉を境に、突如としてその表情から一切の感情が消えた。
「……それは、この二人に手を出したことよ」
明らかな怒りを湛えた、無機的な冷たい無表情で、アルクェイドがこちらをじっと見据える。
睨むでも見つめるでもないその眼差しが、余計に恐怖を煽った。
「っ……」
フィーネが構えを解くことなく後退る。
だが、鎌を握る彼女の両手は、恐怖からか小刻みに震えていた。
「……その責任、今からちゃんと取らせてあげるわ」
こちらへと歩み寄ってくるアルクェイド。
二人の間の距離が縮まるにつれて、逃れようのない死が近づいて来ているような錯覚を覚えた。
「……」
無言のまま、一歩、また一歩と、徐々にだが確実に、その間隔は狭まっていく。
……錯覚などではない。
このままではきっと……いや、間違いなく殺される。

――ドン。

背中に感じた衝撃。
それが、後退できる限界であることを教えていることくらい、振り返るまでもなく分かった。
フィーネが慌てて周囲を見回す。
不幸なことに、出口はアルクェイドを挟んでちょうど向かい側だ。
両サイドは開けた空間、後ろはもう無い。
ダメだ。逃げられない。
「どうかしたのかしら? 顔色が悪いわよ」
具現化された死が近づいてくる。
口元に残虐な笑みを浮かべながら。
何も出来ない。
闘って勝てる相手ではないし、全力で逃げたところで、すぐに捕まってしまうのは明白だ。
だからといって、このままただ死を待つだけなんか耐えられない。
ならば、やれることは一つ。
「う……うわあああっ!!」
自らを奮い起こすため、そして、心に張り付いた恐怖を振り払うため、フィーネは大声を張り上げた。
そのまま、一直線にアルクェイド目がけて突進する。
玉砕覚悟の特攻。
追い詰められた者の取る手段としては、最もありきたりで一番無謀な手段。
だが、これしか選択肢が残されていない以上、仕方がない。
何より、諦めてただ死を待つのみという最期だけは、どうしても我慢ならなかった。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時34分(145)
題名:Innocence(第十八章)

「何? 死を覚悟の捨て身? 上等じゃない」
アルクェイドが嘲るように鼻で笑う。
「そんなに死にたいのなら、お望み通り殺してあげるわ……!」
鎌を振り上げ疾走するフィーネを、軽く身構えて待ち受けるアルクェイド。
体中から放たれるその殺気に、思わずフィーネの動きが止まりかける。
しかし、ここで止まれば、その瞬間に希望は皆無。
臆しそうになる自らの意思を叱咤し、フィーネは地を踏む足に力を込め、真っ直ぐにアルクェイドへと突撃した。
……だが、ただ突撃して鎌を振り下ろすだけなどという、もはや可能性0と同義のような、単調極まりない特攻をかけるつもりはない。
全速力で駆け、大きく振りかぶった鎌を、力の限り一気に叩き下ろす。
……と見せかけて、掲げ上げた鎌を上部で半回転。
懐へと抱え込むようにして、素早くその高度を下げる。
すぐさま柄を持つ両手を逆手に変え、下から上へと掬い上げるようにして、重力と逆方向への斬撃を放った。
「甘いわね」
アルクェイドが冷静に身を退く。
そのすぐ目の前を、黒刃による漆黒の軌道が通過した。
いとも容易く避けられた。
だが、それくらいは予想している。
これは、言ってしまえば布石の布石。
本当の賭けは次だ。
フィーネは鎌を支える両手の内、片方をそこから離した。
大鎌の全重量が、片腕一本に重くのしかかる。
これを片手で支え続けるのは不可能。
迅速な行動が絶対条件だ。
フィーネは外した手を瞬時の内に懐へと滑り込ませると、指と指の間に数本の針を挟み込んだ。
しかし、先ほどのように神経を狙ったところで、無視されて終わりだ。
何故だか分からないが、こいつに神経撃ちは効果が無い。
ならば避けざるを得ない部位、外気に晒されている人体急所を狙うしかない…………そう、例えば瞳だ。
そう考えた次の瞬間、フィーネは腕を振り上げ、その瞳目がけて、迷うことなく全ての針を一度に投擲。
そのままの勢いで腕を持ち上げ、片手で支えるには余りに重すぎる鎌に、再び離していた手を添え直す。
微塵の隙もない、流れるような一連の動作。
……だが、そんな多段構えの連携も、アルクェイドには通じなかった。
「ふん……」
アルクェイドは鼻で笑いながら、左手を盾代わりに針を受け止めた。
……悔しいが、恐らく最良の判断だ。
これでは、相手の体勢を崩すことはおろか、その注意を逸らすことすらかなわないだろう。
しかし、掲げ上げた鎌は、もう止められない。
無理に止めようとしたところで、こちらがバランスを崩すのは目に見えている。
その先にあるのは、より確実味を増した絶対の死だ。

――それならせめて……!!

「ああああっ!!」
絶叫を上げて、フィーネが残る力の全てをその両腕に注ぎ、思いきり鎌を叩き下ろす。
「はああああっ!!」
同時にアルクェイドも、目にも止まらぬ……いや、映りすらしないほどの凄まじい速度で、その右腕を大きく前方へと突き出す。
交錯する斬撃と殴打。
……だが、そのどちらも、互いに相手へと届くことは無かった。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時35分(146)
題名:Innocence(第十九章)

「う……うぅ……」
身体を打つ冷たい雨に、失われていた意識が舞い戻る。
どれくらい寝ていたのだろう?
体を動かそうとしてみる。
だが、いくら力を込めてみても、ほとんど動いてくれない。
指先が微かに震えるくらいのものだ。

――……そうだ!フィーネは!?

シエルが必死の思いで、緩慢ながらも顔を持ち上げる。
その視界に映る二人の姿。
巨大な漆黒の鎌を手に、ひきつった表情を浮かべるフィーネ。
その強張った顔色からは、明確なまでの怯えが伺い知れた。
そして、そんな彼女と対峙するアルクェイドの表情は、それとはまさに対照的だった。
口の端を残虐的に綻ばせ、冷たく嘲るような眼差しでフィーネを見つめる。
そこから感じ取れる確かな余裕と、絶対に逃しはしないというドス暗いまでの殺意。
その全身から放たれる殺気に、脅しや威嚇のような未遂的要素は塵ほども含まれていないように見えた。
「う……うわあああっ!!」
突如として広場全体に響き渡った、絶叫とも取れる大きな叫び声。
慌てて其方へと視線を流す。
その瞳に映し出される、大きく鎌を振り上げ、そのままアルクェイドへと一直線に駆け出すフィーネの姿。
彼女が何をしようとしているのかなど、誰に聞かずとも直ぐに理解出来た。
死を覚悟の無謀な特攻。
それが、一厘程度の望みも無いことは、フィーネ自身が一番良く分かっているはずだ。
無論、そのことを理解しているのは、アルクェイドとて変わりない。
「何? 死を覚悟の捨て身? 上等じゃない。そんなに死にたいのなら、お望み通り殺してあげるわ……!」
アルクェイドが身構える。
本当に殺す気だ。

――止めて!

「……あ……う……」
大声で叫んだつもりだったが、その口から漏れたのは、自分の耳にすら届かないくらい小さく、かすれたうめき声だけだった。
二人の姿が交差する。

――止めて!!

「う……あぁ……」
依然として、口から溢れるのは言葉にならないうめきだけ。
下から上へと、重力に逆らうように放たれる漆黒の斬撃。
それを避け、次いで投擲された針を、アルクェイドが片手をかざして受け止める。

――お願い! 止めて!!

私は叫ぶ。
声の限り。
力の限り。
だが、その叫びは声にならない。
声帯が微かに震えるだけの、限りなく無音に近い絶叫。
私は……何も出来ないのか?
このまま何も出来ずに、彼女が殺されるのを、ただ黙って見ていることしか出来ないのか?
そう考えただけで、自分自身に嫌気が差した。
私は無力だ。
目の前で、今まさに親友が殺されようとしている時に、何一つとしてしてやれない。
良く良く考えてみれば、今までもずっとそうだった。
ロアが人を殺める度、私はその行為に恐怖し、同時に何度その残虐な行いを止めようとしただろうか。
だが、結局は何も変わらなかった。
いくら私が嘆き、訴えたところで、それは微々たる抵抗力すら持ちえなかった。
私の意思とは無関係に、次々と殺されていく人々。
それを止めようとする意思はあれども、次第に薄れゆく自我に伴って、それもまた自分の中から消え去っていく。
……そして、私という自我が死ぬと同時に、長年慣れ親しみ大好きだった街も、そこに住む命の全てを失い、死んでいった。
今のこの状況も、あの時と幾分も相違ない。
「あ……う……」
声は出ない。
体も動かない。
だが、それでは以前と何も変わりはしない。
私は、無理矢理にでもその体を動かそうと、己の五体に力を込めた。
「くっ……うぁっ……!」
少し動かそうとするだけで、全身を激痛が走り抜ける。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時36分(147)
題名:Innocence(第二十章)

激痛なんて言うのも生易しい、死を身近に感じられる程の痛み。
その中で、不意に心をよぎるいくつかの感情。

――ダメだ……何も出来ない……。

それは未来への諦感。

――何で……どうしてこんなことに……。

それは現在からの逃避。

――決まってる。全部私が悪いんだ。

それは過去に対する自責。

――もういいよ……もう……無理なんだよ……。

それは……それら全てへの絶望。
別にいいじゃないか。
誰が死のうと生きようと、私には関係の無い事だ。
私の中で、徐々に膨らんでゆく暗い感情。
そうだ。
況してや、彼女は私を殺そうとしたんだ。
わざわざ助ける義理もない。
……そう、助ける必要なんか……。

――どうして……貴女みたいな人が、皆を殺さなきゃならなかったの?

不意に脳裏に蘇る先刻の問い。

――……貴女は、皆を殺したくて殺したの?

違う。
私は殺したくなんかなかった。

――……本当に、あれが貴女の望みだったの?

違う!
あんなの、私の望みなんかじゃない!

――ねぇ、教えて……エレイシア……。

私は……。
……私は……!

――……もう、誰も死なせたくない!!

瞬間、私の心を覆い尽くしていた暗い靄が、跡形も残さずに吹きとんだ。
うつ向いていた目線を持ち上げる。
その視界に、再び映し出される二人の姿。
フィーネが思いきり鎌を叩き下ろす。
それに呼応するかのように、アルクェイドが右腕を大きく前へ突き出した。
私は体を動かす。
時を同じくして、全身を駆け回る苦痛の波。
「うっ……あぁっ……!」
余りの痛みに、思わず苦悶の声が漏れる。
意識が飛びそうだ。
だが、ここで諦める訳にはいかない。
彼女を……フィーネを、死なせはしない!!
「くっ……うぁっ……ああああっ!!」
私は全身を襲う激痛を押し殺し、震える足で立ち上がった。
そのまま、迷うことなく一気に駆け出す。
二人の攻撃が交錯する。
「止めてええぇっ!!」
その最中へと、私は飛び込んだ。
アルクェイドの右手が私の左肩を撃ち、フィーネの斬撃が私の右肩をえぐる。
「うぁっ!!」
夜の広場に響き渡る悲鳴。
左肩から広がる鈍い痛みと、右肩を切り裂く鋭い痛みが、薄らんだ私の意識を更に掻き乱す。
足腰から力が抜け、私は膝から地へと崩れ落ちた。
「……」
「……」
再度訪れる僅かな無音の時間。
煩く鳴り響くのは、地と雨のぶつかる音のみ。
「……シエル……貴女……」
アルクェイドの声が聞こえる。
それは、嘆くような哀れむような、おおよそ彼女らしからぬ弱々しい声だった。
「……エレイ……シア……?」
次いで聞こえてきた、私の名を呼ぶフィーネの声。
その端々が震えて聞こえるのは、錯覚や幻聴の類ではないだろう。
「どうして……?」
彼女の腕が、そっと私の体を抱き抱える。
その表情は、先ほどまでのように死への恐怖に醜く歪んではいなかった。
「何で……私を助けたりしたの?」
フィーネが涙声で問い掛けてくる。

――だって……貴女は私にとって、かけがえのない大切な友人だもの……。

「……」
そう答えようとしたが、それは言葉にならなかった。
だから、私はその想いを態度に表すことにした。
私は、私を抱くフィーネに向かって、優しく微笑み掛ける。
「何でよ……どうして貴女は、そんな風に笑い掛けてくれるの!? ……私は……貴女を……!」
フィーネの瞳から溢れた涙が、頬を伝って滴となり、雨に混じって私の胸を濡らす。

――いいの……もう、いいの……。

私はそっと腕を伸ばし、彼女の首の後ろにその手を回す。

――貴女は……悪くない……。

フィーネに抱かれたその体勢のまま、私は彼女の華奢な体を強く抱き締めた。
「エレイ……シア……!!」
彼女も、私の体を強く強く抱き締め返す。
「ごめん……ごめんね……ごめんね……!」
泣きじゃくるフィーネの声が、私の耳に微かに届く。
だけど、そこから先は何も分からなくなった。
何も見えない。
何も聞こえない。
もう、何も感じない。
目の前が真っ暗だ。
急速に意識が遠退いていく。
自我と世界の境界線が無くなっていく。
あぁ、これが、本当の死か。
だけど、悔いはない。
むしろ、どちらかと言えば清々しい気分だ。
最後の最後に、大切な事を思い出せた気がする。
それは全部……全部貴女のおかげ。

――……ありがとう……フィーネ……。

それを最後に、私の意識は深い眠りについた……。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時37分(148)
題名:Innocence(第二十一章)

「……」
目につく全てを破壊し尽くし、もはや廃墟でしかない自分の部屋を後にして、私はゆっくりと目の前の階段を下りていく。
もう、何日も食物など何も口にしていない。
水も……飲んでない。

――……喉……渇いたなぁ……。

私はその時、自分の中の深層心理から沸き上がるそんな欲望に、抗う術を持っていなかった。
いや、抗おうとすらしなかった。
階段を下りた私は、リビングへと向かって廊下を歩く。
「エレイシア!?」
背後から投げ掛けられる声に、私がその方を振り返る。
「エレイシア! もう大丈夫なの!?」
心配を前面に押し出した不安げな表情で、私の方へと歩み寄る母親の姿。
「だ……め……」
そう叫んだ時には既に、私の右手は彼女の首に喰らい付いていた。
「……エ、エレ……イ……」
かすれたうめき声と、骨の砕ける鈍い音。
そんな不気味な音を残して、私の母親はただの肉塊へと成り下がった。

――……血が……欲しい……。

首筋に歯を突き立て、欲望の赴くままにその血を吸い上げる。
口全体に広がる、新鮮で甘美な鮮血の味。

――……美味しい……。

私はその体から血を吸い尽くすと、用無しとなったその肉の塊を放り捨て、再びリビングへと足を動かした。
椅子に腰かけ、くつろいでいた父親。
「……エ、エレイシア……」
私の姿を見るなり、その表情が恐怖に引きつる。
不思議に思い、私は自らの体へと視線を落とした。
さっき母親の首を握り潰した時の返り血で、服はもう原色を留めてすらいなかった。
まぁ、今はそんなことはどうでもいい。
私は手近にあった椅子を持ち上げると、勢い良くそれを床に叩き付けた。
その衝撃で、木製の椅子がパーツ毎に砕け散る。
私はその脚を手に取ると、それを思いきり父親目がけて投げ放った。
それは深々と父親の胸に突き刺さり、勢いの余り反対側まで突き出す。
夥しい量の血しぶきを吹き上げ、その体が床に沈んだ。
倒れた父親を抱え上げ、母親同様その首筋に歯を突き立てた。
「どう……して……」
すぐ耳元で、濁った耳障りな声が聞こえた。
なんだ、まだ生きていたのか?
突き立てていた歯を抜き、私は苛立ちを露わにその頭を握り潰した。
脳髄をぶち撒かれ、私の父親だった男は無惨な姿となって息絶えた。
残った血を吸い上げ、その亡骸を放り捨てる。
まるでゴミを扱うように。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時39分(149)
題名:Innocence(第二十二章)

「ふ……ふふ……あはは……」
誰かの笑う声が聞こえる。
誰の声だろう?
……誰か?
いや、違う。
これは私だ。
どうして、私は笑っているのだろう?
決まっている。
笑っているということは、楽しいからに違いない。
「はは……あははははははははは!!」
私は思いきり笑った。
その頬を伝わる一筋の涙。
それはやがて歯止めを失い、幾つもの透明な線を作っては、その度にすぐに床へと溢れ落ちる。
……それが悪夢の始まりだった。


目の前が暗転し、別の光景が蘇る。
そこは、人も、家も、地も空も、何もかもが赤で埋め尽くされた紅の世界。
もちろん、私も……。
ある人は首を切り落とされ、ある人は五体を微塵に切り刻まれ、またある人は、私の父親同様に頭蓋を叩き潰され、それら全ては、一つの例外も許さずに絶命していた。

――違う……。

また暗転。
そして、再びその眼前に映し出される光景も、やはり先ほどと幾分と相違のない、死者で溢れ返った地獄絵図だった。

――違う……!

また景色が切り変わる。
血で汚された大地の上に、折り重なって倒れる数多の人々。
先ほどと違うのは、その中央にたった一人だけ、まだ生きている人間がいることだ。
まだ年端もいかない、あどけなさの残るほんの少女。
「……何で?」
血まみれの姿で問い掛ける。
その眼差しは、今目の前で起こった事実を受け入れられないのか、こちらを見つめつつも、その焦点を失っていた。
「どうして……皆を……?」

――ち、違う……私じゃない……。

答えようとするが、まるで縫い付けられたかのように口が開かない。

“殺した”

――えっ!?

どこかから声が聞こえる。

“お前が殺した”

暗く淀んだ怨念の声。
その音源は、私のすぐ足下にあった。

“殺した……お前が殺した”

――違う……私じゃ……

“何で殺したの?”

問うてくるのは、仲の良かったクラスメイトの友人達。

“信じていたのに”

訴えてくるのは、いつも私を見守ってくれていた街の人々。

“殺した”

“お前が”

“私を”

“皆を”

“何で?”

“どうして?”

“信じていたのに……”

“好きだったのに……”

“友達だと思っていたのに……”

次から次へと溢れ出る無念の叫び。
それは、鋭い刃となって、私の心に巨大な穴を穿つようだった。

――違う……違うの……私……私は……!

「……てやる……」

――っ!?

少女の口から漏れた暗い呟き。
それは、ドス黒い殺意を孕んだ、底の見えない憎悪の塊。
今まで、聞こえなかったフリをして、心の奥底に封じ込めていたもの。
聞こえなかったことにして、ずっと目を背けていたもの。
それが今、私の中で暴かれようとしていた。

――止めて……。

私は目を閉じた。
だけど、視界に映る景色は何一つと変わらない。

「絶対に……」

――止めて……!

私は耳を塞ぐ。
それでも、私の聴覚はその活動を停止してくれない。

「いつか、絶対に……」

――止めて……っ!!

私はその場から逃げようとする。
だが、世界は私に一片の自由すら認めない。

「……殺してやる……!」

――止めてえええぇぇっ!!

……その悲鳴を最後に、世界はガラス細工のように砕け散った。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時40分(150)
題名:Innocence(第二十三章)

「……輩……先輩……」
誰かの声が、覚醒間近の意識の水面を微かに撫でる。
「う……あぁ……っ!!」
身体が熱い。
心が苦しい。
私の存在そのものが悲鳴を上げている。
私が私で無くなるかのような、苦痛を伴う激しい剥離感。
「先輩……先輩!!」
「っ!?」
その苦しみから私を救い出してくれたのは、聞き慣れた彼の優しい声だった。
閉じていた瞼が持ち上がる。
その視界に映し出される、不安げな様子で私の顔を覗き込む、彼の心配そうな表情。
それは、周囲の薄暗さなど関係なく、はっきりと視認することが出来た。
「はぁ……はぁ……遠野……君?」
私は乱れた息を整えようともせずに、彼の名を呼んだ。
「先輩、大丈夫ですか? 随分とうなされてましたけど……」
そう尋ねる遠野君の面に浮かんでいた不安は、私が目覚めたことによって、多少ではあるがその陰を潜めたように見えた。
うなされていた?
そういえば、何だか悪い夢を見ていた気がする。
内容は……何だっただろう?
思い出せない。
……いや、もしかしたら、思い出したくないだけなのかもしれない。
思い出すのも辛いから、自己防衛のために、無理矢理忘れたことにしているだけなのかもしれない。
ただ、薄気味悪い汗でぐっしょりと湿った上着から、よっぽどの悪夢に苛まれていたのであろうことは想像できた。

――……そういえば、ここはどこだろう?

そう思って、上体を起こそうとした……その瞬間。
「痛っ!?」
両の肩を原点として、全身を強烈な痛みが走り抜けた。
上体を起こしたまま、私は自らの体を抱き締める。
「先輩! 無理しちゃダメですよ!」
そんな私の体を、遠野君の手が慈しむようにベッドへと横たえる。
「遠野君……ここは……?」
その優しさを全身で感じながら、私は囁くように問い掛けた。
「病院ですよ」
「……病院?」
私は問い返しながら、周囲へと視線を配らせた。
横一列に並んだ幾つかのパイプベッド。
その枕元には、緊急用の呼び出しボタンが設置されている。
左肩を固定するギプスには、何故かマジックで落書きがされていた。
何とも歪みまくった文字で“バカシエル”と書かれているのが目に映る。
誰が書いたかなど、聞かずとも明白だ。

――ふっ……全く……あの吸血姫は……。

私は心の中で笑いながら呟いた。
それに、良く良く見てみれば、彼の服装も病人が着るような白いだけのローブ姿だった。
なるほど。確かにここは病院のようだ。
……でも何故?
「先輩、二日間ずっと寝続けてたんですよ?……覚えてないんですか?」
「……二日間ずっと?」
私は寝過ぎてぼけた頭で、今は虚ろな過去のことを回想してみた。

――えぇっと、私は確か……そうだ。殺し合いを止めるために、この身を呈したんだ。それで、アルクェイドの突きと、フィーネの鎌を……!?

そこで、私は全てを思い出した。
「フィーネは!?」
上体を起こしながら、私は大声で彼に尋ねる。
その時、私はここが病院で、しかも夜であることをすっかり忘れていた。
「せ、先輩……声が大きいですよ……」
「あ……すいません……」
そんな私を、ばつの悪そうな表情で辺りを見回しながら、遠野君が小声でたしなめる。
「フィーネさんって、髪がちょっと暗めの紫色をした女の人?」
「ええ。それで、彼女は……」
「はい」
急かすように問い掛ける私に、遠野君は一枚の小さい封筒を差し出す。
それは、白いシンプルなデザインで、まだ封を切られてはいなかった。
「フィーネさんから。先輩が目を覚まし次第、渡してくれって」

――フィーネからの……手紙?

その言葉に、私の心が高鳴る。
私は直ぐに封を切ると、その中から一枚の便箋を取り出した。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時41分(151)
題名:Innocence(第二十四章)

――エレイシアへ

この手紙を読んでくれているということは、貴女はもう目を覚ましてくれたのでしょう。
あれから、遠野君とアルクェイドさんに、色々と今の貴女のことを聞かせてもらいました。
貴女が、今は埋葬機関に所属する代行者として、異端を狩り続けていること。
この街を襲ったタタリを滅ぼすため、死力の限りを尽くしたこと。
そして今も、この街に住む人々のために闘い続けていること。
……それに、貴女がエレイシアであった時、貴女が貴女自身では無かったということ。
その時のことを思い悩み、今なお後悔と懺悔の日々を送っていることも……。
……ごめんなさい。
誰より、貴女が一番苦しんでいたというのに、そんなことは考えもせず、私は貴女を苦しめてしまいました。
許して欲しいとは言いません。
ただ、一つだけ……今まで一度も言えなかったことを、文字にして貴女に伝えさせて下さい。

エレイシア……私を助けてくれて、本当にありがとう……。

         フィーネ


「……うぅっ……」
読み終わると同時に、世界が霞み始めた。
溢れ落ちた涙が、手紙に黒いシミを作っていく。
「先輩……」
その声に反応して、私はゆっくりと顔を持ち上げる。
瞳に映る彼の姿は、世界と同じく霞んでぼやけていた。
「あれ? どうしてでしょう……涙が……」
指先で涙を拭き取る。
だけど、直ぐに涙は溢れ出し、視界は常に霞み掛かったままだった。
「おかしいですよね……嬉しいのに、涙が止まらないなんて……」
冗談めかして言ってはみたものの、その声が涙声になっていることが、自分でも良く分かった。
「先輩……!」
そんな私の体を、遠野君が強く抱きしめてくれた。
何もかも、私の全てを包み込むかのように、優しく、それでいて力強く……。
「……泣きたい時は、無理しないで下さいね。先輩は独りじゃないんですから……」
彼の優しい声が、心の内に暖かく染み込む。
それが、私の中の何かを解き放った。
「っく……うあああぁぁっ……!」
私は、幼い子どものように、彼の胸の中で泣きじゃくった。

――私の方こそ……ありがとう……。

出来る限り声は押し殺し、だけど内に秘めていた感情の全ては晒し出して。

――……フィーネ。

私は、遠野君の胸を濡らしながら、心の中で彼女の名を呼んだ。

月夜 2010年07月02日 (金) 01時42分(152)
題名:Innocence(あとがき)


終わらない……。


終わらないよ……。


終わらないよぉっ!





























人の夢は、終わらねぇっ!!
(意味不明)














ま、終わらないのは課題なんですがね(爆)







ヾ(゜∀゜)ノwwww







はい。
何と二ヶ月弱振りとなる、久々も久々な小説更新です。
アンケートや感想掲示板、はたまたメールボックス宛てに催促と励ましのメールを下さった皆さま、本当にありがとうございました!
これからも、時間の合間を上手く使って、何とか頑張っていくつもりですので、応援して頂ければ幸いです♪
ではでは、ここでいくつか、皆さんからの励ましメールを紹介してみましょう。

―小説更新頑張って下さいね。新作、楽しみに待ってます。

おぉ!
何ともありがたきお言葉!

―色々と忙しいでしょうが、負けずに執筆頑張って下さい。

マジで励みになります!
ありがと〜〜っ♪

―ちょっとエッチなのも書いて下さい。

おぉっ!
応援ありが…………




…………( ̄□ ̄;)!!



あ、あんですと!?
私にエロスの道をひた走れと!?
そ、そんなことしたら、本能の赴くがままに、エロ要素100%の18禁な代物が……。



…………か、考えておきます……(^o^;)


さて、今回の作品はどうでしたでしょうか?
余りメインとして取り上げられることの少ない、カレー大魔神ことシエル先輩メインの作品として作り上げてみました。
またしても勝手に創作キャラを出演させてしまいましたが、そこらへんも含めてどうでしたか?
楽しんで頂けたなら幸いです。
今回作品を作る上でちょっと気にしたのは、実はシエルとアルクェイドの絡みだったりします。
前作(とは言っても、もう大分前の話ですが……)についての感想で、“シエルとアルクェイドの絡みが、マンネリ化してる”との意見がございましたので、今回はそこを一変させてみました。
多分、そんなに違和感は無い……と、作者自身は思っているのですが、如何でしょう?

月姫のアンソロジーを書くにおいて、シエルとアルクェイドの絡みは捨てられない要素ですからね〜。
出来る限りマンネリしちゃわないように、精一杯試行錯誤していきたいと思います(^_^;)


さて、それでは今回もこの辺りで幕引きと致しましょうか。
この作品についての感想やアドバイス、はたまたリクエストなどは「小説感想アンケート板」または「小説感想掲示板」、「月夜に吠えろ」等々から、じゃんじゃんとお寄せ下さいね♪
ではでは、これからも頑張っていきますので、どうぞ皆さまよろしくお願いしますm(__)m
管理人兼素人小説家の月夜でした♪

月夜 2010年07月02日 (金) 01時44分(153)


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