――コンコン。
ドアがノックされる乾いた音。 「う……ん……」 それを耳にしながら、シオンは軽いまどろみの中を漂っていた。
――……誰だろう?
現実と夢の狭間をさまよっている時の、心地良さと憂鬱の入り混じった、独特の気だるい虚脱感。 「シオン? 起きてるか?」 だが、そんなものは、扉の向こう側から聞こえてきた、聞き慣れた彼の声によって、瞬時の内にかき消された。
――……志貴!?
閉じられていた瞼が持ち上がり、その奥から明紫色の瞳が覗く。 机の上を埋め尽くさんばかりに山積みにされた本が、寝起きの眼に映し出される。 枕代わりにしていた腕の下には、古ぼけた分厚い一冊の本が、あるページを広げたまま敷かれていた。
――昨日は、確か夜更け近くまで、眠り目を擦りながら調べものをしていたはずなのだけれど……。
ふと背後を振り返ってみる。 窓から差し込む明るい陽光が、締め切られたレースのカーテンを透過して、部屋中に朝の訪れを知らせていた。 どうやら、自分でも気付かない内に、いつの間にか眠り込んでしまっていたようだ。 「……入るぞ?」 「ち、ちょっと待って下さい!」 シオンは慌てて言葉を返すと、素早く椅子から立ち上がった。 寝起きそのままな姿を志貴に見られるのは、さすがにかなり恥ずかしい。 シオンは広げられていた資料を閉じ、それを乱雑に積まれた資料の山の中に適当に置くと、自分の頭に手をやった。 撫でるように髪を手櫛ですいていく。 良かった。 髪型が乱れているということは無さそうだ。 「シオン、もういいか?」 「えぇ、どうぞ」
――ガチャッ。
扉が開かれ、その向こう側には、私服姿の志貴が見えた。 「おはよう、シオン」 「おはようございます、志貴」 毎朝恒例の手短な挨拶を交わす。
――おはようございます……ですか……。
そう言いながら、シオンは表情に出すことなく、心の中で溜め息を付いた。 〈おはようございます〉とは、何と型にはまった挨拶だろう。 そんなに形式ばった言葉など、志貴と話す時には使いたく無かった。 だけど、こういう言葉無しでは、どのように話せばいいのか分からない。 昔から、このような礼儀正しい言葉遣いを続けてきたからだろうか。 これは、もはや自分という存在の一部に他ならなかった。 志貴は、こんな自分のことをどう思っているのだろう? 堅苦しい女だと思われているのだろうか? せめて、可愛らしく笑うぐらいの技能があれば良かったのだが……。 「……シオン?」 「えっ!?」 すぐ近くで自分の名を呼ばれ、シオンの瞳が焦点を取り戻した。 「どうしたんだ? 突然ぼーっとして」 「い、いえ、何でもありませんよ」 怪訝そうに尋ねる志貴に、シオンは出来る限りの平静さを保って言った。 「そうか? ならいいんだが……変に気を遣ったり、無理をする必要は無いからな」 不安そうな表情を浮かべながら、志貴が優しい言葉を投げ掛けてくれる。 「えぇ、心得ています。気遣いありがとうございます」 そんな志貴の優しさに、シオンは素直に感謝の念を告げた。 自然と口元が綻ぶ。 「ところで、シオンは今日が何の日か知ってるか?」 「え? 今日ですか?」 シオンが何気なく壁に掛かったカレンダーへと目を向ける。
――今日は……確か七月の最初の日曜日……。
そのことを確認してから、
――……何か、特別な日でしたっけ?
シオンは首を傾げた。 自分の知る限りでは、誰かの記念日という訳では無かったはず……。 「……知らないみたいだな」 志貴がちょっと得意気な笑みを浮かべる。 ……何だか、少し悔しい。
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