【広告】Amazon 対象商品よりどり2点以上!合計金額より5%OFF開催中

メルブラ短編置き場

ホームページへ戻る

書き込む
タイトル:赤い夜、紅の世界 ホラー・怪奇

――吸血衝動。それは、吸血鬼に噛まれた全ての者の前に立ちはだかる、決して越えられぬ壁。だが、彼女は諦めない。自分の双肩に負う二つ名の為。こんな自分を思ってくれる友の為。そして、いつの日も優しく微笑みかけてくれる彼の為。そんな彼女に訪れる限界の時。己が血に混じるもう一人のワタシに、果たして彼女は、最後まで抗うことが出来るのか……。6作目にお送りするは、シリアス&ホラーな悲しい物語。

月夜 2010年07月02日 (金) 00時16分(91)
 
題名:赤い夜、紅の世界(プロローグ)

「……う、うぅ……」
朱色で埋め尽くされた暗い路地裏。
生臭い香りが充満するその場所で、私は独りぼっち、血まみれでそこに佇む。
腕も、足も、体も顔も、全身が鮮烈な赤で彩られていた。
目の前に転がった、今は動かぬ骸へと視線を戻す。
全身を八つ裂きにされ、原型を留めないまでに引き千切られた、見るも無惨な人間の死体。
随所に転がった腕や足が、今もまだその切り口から、夥しい量の血を垂れ流していた。
胴体から切り離され、死の苦痛に醜く歪んだその表情が、何かを訴えるように私を見つめる。
はて……これは誰だったか……。
私は、そんなことを考えながら、腕に付着した血液を舌で舐めとる。
口の中が、鈍い鉄錆びのような味で満たされた。
甘美……そう、とても甘く美味しい。
返り血で全身を赤く染めたまま、その場に座り込み、私は独り天を仰ぐ。
雲一つとない夜空に皓皓と輝く月と、それを取り囲むかのように煌めく数限りない星々。
それらを見つめながら、私は少しだけ瞳を閉じた。

月夜 2010年07月02日 (金) 00時18分(92)
題名:赤い夜、紅の世界(第一章)

――バタン。

「ん?」
何やら、微かに扉の閉まる音が聞こえた気がする。
多分、玄関の方からだ。
志貴は開けていた冷蔵庫を閉め、付けていた電気を消してから、台所を後にした。
床を叩くスリッパの乾いた足音が、寝静まった夜の遠野邸に響き渡る。
玄関まで来ると、志貴はその場にしゃがみ込み、置かれている靴の数を確認した。
……どうやら、靴の数は減っていないようだ。

――……気のせいか?

そう考えながらも、志貴は今一つ納得のいかない表情を浮かべていた。
先ほどのあれは、間違いなくこの扉の閉まる音だった。
この屋敷に来て以来、今までに幾度となく聞いてきた音だ。
今更聞き間違うとは思えない。

――……シオン?

そう思って、志貴は一旦玄関前を去ると、一路シオンの部屋へと向かった。

――……。

胸を絞め上げる嫌な予感から、自然と歩みが早くなる。
シオンの部屋の手前に辿り着く。
……間違いであって欲しい。
ただの、俺の勘違いであって欲しい。
そう切に願いながら、志貴はそっと目の前の扉に耳を当てる。
いつもなら、この時間帯にはまだ寝ずに、調べものをしていることだろう。
そうであるなら、本を捲る微かな音が、扉越しにも聞こえてくるはずだ。

―……。

だが、何も聞こえては来なかった。
いくら待てども、耳をつんざくような無音が続くばかりだ。

――コンコン。

「シオン?」
心に降り積もる焦燥感を押し殺して、志貴は軽く扉をノックしながら、その向こう側へと小声で尋ねかけた。

―……。

だが、一向に返事は無かった。
志貴の胸を締め付けていた嫌な予感が、ドス黒い不安と化して、その心に暗澹たる巨大な影を落とす。
「……入るぞ?」
暫しの逡巡の後、志貴は意を決して呟くと、その扉を開け放った。
その奥に覗ける、数多の書籍が山の如く積み上げられた机や、枕元に電気スタンドの置かれたベッド等が、いつも通りの景観を作り出している。
……ただ一点、本来そこにいなければならない人物だけを除いて。
部屋の明かりを付ける。
電灯の無機質な明かりに照らされ、薄暗かった室内の様子が明瞭となる。
その中に一歩だけ足を踏み入れてから、志貴は周囲をくまなく見渡した。
……それでも、結果は同じだった。
不意に脳裏に蘇る、厳しさの中にも時折見せる、彼女の明るく朗らかな笑顔。
―いつになるかは分かりませんが、必ず私はこの病に打ち勝って見せます。
口元を綻ばせ、自信ありげにそう断言した時の彼女の表情が、つい先ほどのことのように思い出される。
その次に脳内に描き出されたのは、ほんの少し前に見た玄関の様子だった。
減っていない靴。
だけど、部屋には見当たらない彼女の姿。
……残念だが、もう嫌な予感などでは済ませられそうになかった。
部屋の明かりを消すと、志貴は急ぎ足で玄関先へと舞い戻った。
遠くに脱ぎ捨ててあった靴を、手を伸ばして引き寄せながら、そこにゆっくりと屈み込む。
乱雑にその靴の中へと足を突っ込むと、素早く立ち上がり、つま先で地面を叩いて履き心地を整えた。
「……シオン……大丈夫だよな……?」
志貴は誰に言うともなく呟くと、外界へと続く物々しい扉を押し開き、夜の闇が支配する世界へと飛び出した。

月夜 2010年07月02日 (金) 00時20分(93)
題名:赤い夜、紅の世界(第二章)

「ハァ……ハァ……」
闇が蔓延る夜の世界に、自分の乱れた呼吸音がこだます。
地面の刺々しい痛みと、夜の冷気に冷やされた無機質な冷たさが、素足の裏を通して全身に伝わってくる。

――私は……一体何を……。

私は、自身で自らへと問いかけた。
……分からない。
それが答えだった。
ただ、何故だかは自分でも分からなかったが、自分という存在が、消えて無くなるかのような凄まじい恐怖に苛まれ、無我夢中の最中に屋敷を飛び出したことだけは覚えている。
……いや、消えて無くなるというのは、正確な表現ではないかもしれない。
言うなれば、自分が自分で無くなるといった感じだ。
その体は確かに自分の物で、そこに宿る心も、間違いなく自分の物。
そうであるはずなのに、何故だか自分という存在を、確固たる己の自我として捉えることが出来なかった。
理由は何か?
そんなことは明白だ。
そう。
あの日以来ずっと、私の中に息づき続けている、私の心を蝕むもう一つのワタシ。
それが今、私という存在を著しく侵食し始めていた。

――……血が欲しい。

私の中のワタシが訴える。

――……だめ……。

私は堅くなに拒絶する。

――何故? 私の欲望と貴方の望みは、常に同義且つただ一つのはずよ。

ワタシが私に尋ね掛けてくる。

――人を……殺めてはいけない……。

私が答える。

――どうして?

ワタシが再び問う。

――人を殺してはいけない? 何を言っているの? 貴方は、もっと自分の欲望に素直になるべきよ。

私の中のワタシが豪語する。

――私の……欲望……?

私がワタシに問い返す。

――そう……私たちの欲望よ。さぁ、素直に言ってご覧なさい。

ワタシの声が大きくなる。

――……私は……。

ワタシを縛る理性が、次第にその束縛を弱めてゆく。

――私は……。

それに従って、今度はワタシの中の本能に基づいた暗い欲望が、ゆっくりとその姿を浮き彫りにしてゆく。

――私は……血が……。

「違うっ!!」
そんな暗黒色の誘惑を断ち切るように、私は大声で力の限りに叫んだ。
夜の静寂の中に、その悲痛な悲鳴が響き渡る。
「私は……私は、エルトナムの娘だ……!!」
私は自分自身に言い聞かすべく、強い口調で言い放った。

――……。

ワタシの声が聞こえなくなる。
それと時を同じくして、理性が本能を抑え込んだのが分かった。
「ふぅ……」
私の口から、小さく安堵の溜め息が漏れる。
良かった。
まだ、私は人のままだ。
心の中に芽生える、ほんの小さな安心感。

――だけど……。

そして、それと平行して生み出される、とてつもなく巨大な危機感。
それは、先ほど感じた安堵感なんかとは、比較の仕様がないほどに膨れ上がっていた。

――……そろそろ、限界かもしれない。

ふと、そんな不吉な考えが、私の頭の片隅をよぎる。
……それもまた、分かってはいたことだ。
秋葉の親切心から、遠野の屋敷に住まわせてもらって以来、そこにある膨大な量の文献の一つ一つを、それこそ吸血鬼に関わるものは余すことなく、ほとんど全てを調べ尽くしてきた。
だが、それら幾多の知識のどこにも、吸血鬼化した人間を元に戻す方法など、その一欠片すら載せられてはいなかった。
もう、そこからは完全に独学の世界だった。
吸血鬼が人を吸血鬼化させるために、血を吸い上げると同時に、己の血の一部をその体内へと送り込む。
なら、その血を中和させることが出来れば、人間に戻れるのではないだろうか?
最初にそれを思い付いた。
けれど、よく考えてみれば、それは到底無理な話だった。
噛みつかれて直ぐの人なら、まだ話は別だろう。

月夜 2010年07月02日 (金) 00時21分(94)
題名:赤い夜、紅の世界(第三章)

だが、私の場合、噛みつかれてから大分経ち、吸血鬼化が始まるまでになってしまっている。
そこまで血が混ざり合ってしまえば、その中の吸血鬼の血だけを選んで中和することなど、到底不可能だ。
……なら、吸血鬼の血に対抗出来るような、抗体を産み出すのはどうだろう?
一瞬、そんなことを考えたものの、それもまた不可能の極みだった。
元来、抗体というものの定義は、体外から体内へと侵入する異物に対抗するためのものだ。
元から体内に存在する不純物を、限定して駆除することなど出来はしない。
そのためには、まず体内にて混合してしまった私の血と、異物である吸血鬼の血を分離しなければならない。
そのためにはどうしたらいいか?

――……そんなこと、100%不可能だ。

結論が出るまでに、大した時間は掛からなかった。
ありとあらゆる方向性から、持ち前の知識と判断力で幾度となく分析してきた。
しかし、その問いに答えは見つからなかった。
よくよく考えてみれば、それは当然のことなのかもしれない。
私が生来持つ人間の血。
その中に後天的に流し込まれた吸血鬼の血。
この二つが完全に混じり合い、生み出された混血が、今の私というものを形作っていた。
その中から、吸血鬼の血だけを選び出し、それだけを体内から消し去る。
それはつまり、私自身を自らで拒絶することにも等しい。
つまり、私がワタシを捨て去り、純粋な私に戻りたいという願望は、その中に避けようのない、無意識的な逆説を含んでいた。
私の中で、また徐々に肥大化してゆく暗い感情。
それは、一種の諦めにも似た感情だったのかもしれない。

――血が……飲みたい……。

欲望の声。

――だめだ……私は……まだ、人を辞めてはいない……!

それを制止する理性の声。

――もういいじゃない。

そんな理性をたしなめるかのように、優しく囁きかける声。

――私は、一人で今まで良く耐えてきたわ。もう我慢しなくても良いのよ。

暖かく包み込んでくれるような、慈愛と絶望に満ち、諦観を含んだ混沌たる声。

――そんな私を、責められる人なんて誰もいないわ。

その声に語り掛けられる度、私の中の理性が薄らんでゆく。
「もう……我慢しなくてもいい……」
私の口から、小さな呟きが漏れる。

――そうよ。私はもう、私自身の欲望に素直になっても良いの。そして、私は私を超えてワタシになるのよ。

「欲望に……素直に……」
誰かの首筋に歯を突き立て、その血を啜り上げている自分の姿を想像する。
口の中いっぱいに広がる、生暖かく甘美なその甘さを想像するだけで、言いようのない愉悦混じりの快感が、背筋を駆け上ってくるのを感じた。

――さぁ、欲望を解き放って……血を啜って……。

「……血を……」
私はゆっくりと口を開く。
もう駄目だ。
もう、私はワタシの欲望に抗えない。

――シオン。

脳内に不意に蘇る、朗らかな少女の笑顔。
唯一、私と同じ境遇に置かれ、自らの吸血衝動と戦う健気な少女。
そう。
私は彼女と誓った。
貴方を、絶対に人間に戻して見せると。

――シオン。

次に頭をかすめたのは、控え目な笑みに口元を綻ばせる、彼女の姿だった。
彼女は、私なんかのために、屋敷の一室を与えてくれた。
それと共に、そこに眠る膨大な情報をも供給してくれた。
そんな彼女の親切に報いるためにも、私は人間に戻ると誓った。

――シオン。

最後に思い起こされたのは、彼の姿だった。
私が心惹かれ、どこまでも恋慕の念を募らせてきた、あの人の笑顔。

月夜 2010年07月02日 (金) 00時22分(95)
題名:赤い夜、紅の世界(第四章)

それも今は、どこか悲しげな表情で、無言のまま私を見つめるだけだった。
……嫌。
貴方には、そんな目で私を見て欲しくない……。
私の、こんなにも惨めで愚かしい姿を、貴方には見られたくない……!
私の心が悲鳴を上げる。
でも、もう無理みたいだ。

――さつき……秋葉……ごめんなさい。

薄れゆく意識の中、私は最後の理性を振り絞って、心の中の彼女達に謝罪した。
「……志…貴」
私の口が、途切れ途切れに彼の名を呼ぶ。
「……ごめん……なさい」
その言葉を最後に、私の理性は眠りに付いた。
代わりに、空席化した表層意識を本能が埋め尽くす。

――血を啜れ……。

ワタシが私に呟きかける。
抗うことは出来ない。
……いや、抗う気すら起きない。
ワタシが足を進める。
私が腕を伸ばす
ワタシが口を開く。
私は……血を…………。
「シオン!!」
そんなワタシを呼び止める、聞き慣れたあの人の声。
「っ!?」
遠退いていた意識が、急速に覚醒を始める。
私を支配していた本能が、途端にその陰を潜め、失われていた理性が再び私の全身を掌握する。
その時、私は初めて、私の腕の中にある何かに気が付いた。
それは、私の両腕によって拘束された、見ず知らずの女性の姿だった。
恐怖の余りに、歯をガタガタと震わせながら、全身を痛いくらいに強張らせている。

――私は……今、何を……。

私は私の行為に恐怖した。
自分で自分を恐ろしく感じた。

――もう少しで、私は取り返しの付かないことを……。

「何やってるんだよ!シオン!」
背後から、こちらへと駆け足で歩み寄る、乾いた靴音が聞こえた。
その足音が近づいてくるにつれて、私の中に先ほどまでとは違う類の恐怖が芽生える。
「くっ……!!」
私は、その女性から手を離し、逃げるようにして声とは反対の方へと走った。
「あっ! ま、待てよ!!」
後ろから飛んでくる引き止めの声。
止まれるものなら止まりたい。
出来るものなら、すぐにでも振り返って、彼の顔を真っ直ぐに見つめたい。
だけど、そんなこと、間違っても出来はしない。
彼のために。
そして、私のためにも。
「うぅ……っく……」
溢れる涙を拭い取り、漏れそうになる嗚咽を押し殺しながら、私は闇の中へと走り続けた。

月夜 2010年07月02日 (金) 00時23分(96)
題名:赤い夜、紅の世界(第五章)

「ハァ……ハァ……くそっ、全然見つからない……」
走り疲れ、膝に手を付いた体勢のまま、志貴は苛立ちを露わに呟いた。
何も言わず、急に走り去っていったシオン。
その後を追いかけて、すぐにでも走りだしたかったのはやまやまだったが、彼女が放置していった女性を、置き去りにしていく訳にもいかなかった。
シオンのことは気掛かりだったが、やむなくその女性を家まで送り届けることとなったのだ。
その後、何度と無く礼を述べる彼女に背を向けて、志貴は急ぎ元の場所へ戻ると、シオンの消えた方角へと足を走らせた。
だが、どこにも彼女の姿を認めることは出来なかった。
「ここで最後か……」
志貴が呟く。
そこは、志貴とシオンが初めて出会った場所だった。
周囲を見渡しながら、その辺りを宛てもなく歩き回る。
石畳の床を叩く乾いた靴音が、静寂に包まれた街に響き渡る。
しかし、そこにも彼女の姿は見当たらなかった。
「シオン……一体何処に行ったんだろう……」
弱々しい声で呟きながら、志貴は東の空を仰いだ。
だんだんと明るみがかってきた地平線が、夜から朝への移り変わりを示している。
「……もう朝か」
志貴は辛そうに表情を歪めた。
こんなに憂鬱な気持ちで朝を迎える日は、随分と久しぶりな気がする。
「……仕方ない。帰ろう……」
やりきれない思いを胸に、志貴は力無く肩を落とすと、屋敷への帰路に着いた。
その道程でも、首を左右へとせわしなく動かし、その瞳に映る光景の中に彼女の姿を探す。
だが、そんなに簡単に見つかるようなら、別にこんな苦労はしない。
結局、最後まで彼女を見つけることは叶わず、いつの間にか屋敷へと辿り着いていた。
門前まで進みながら、もう一度東の空へと視線を向ける。
先ほどまで地平線下で輝いていた太陽は、もうその姿を空の端に表していた。
正確な時間までは分からなかったが、もうとっくに朝のようだった。
それでも、多分屋敷の中では、まだ秋葉や琥珀さんや翡翠が、安らかに寝息を立てているはずだ。
そう思い、志貴は彼女達の安眠を妨げないようにと、目の前の扉をそっと開いた。
「あら? お早いお帰りですね。兄さん?」
「っ!?」
そんな折、志貴の予想を完全に裏切って、唐突に投げ掛けられた聞き慣れた声に、志貴が大きく退けぞる。

月夜 2010年07月02日 (金) 00時24分(97)
題名:赤い夜、紅の世界(第六章)

条件反射的にその音源へと向けられた、彼の瞳に映り込んだのは、満面の作り笑顔を面に浮かべつつも、時折眉をヒクヒクと引き釣らせている、愛しき妹の姿だった。
「なっ! あ、秋葉!? 何でこんな時間に!?」
別に、やましいことなど何一つとして無いにもかかわらず、どうしてだか焦ってしまうのは、これまた条件反射というものだろう。
「何だか、夜遅くに玄関の方から扉の閉まる音がしたものですから」
そんな兄に対して、その恐怖を更に煽るかのように、表面上は優しくも、その裏にはれっきとした刺々しさを含んだ口調で、秋葉が言葉を繋げる。
「ま、まさか、それからずっと起きてたのか?」
「えぇ」
依然として、“朝帰りを決行した兄”を叱る気満々な様子で、秋葉が志貴を見つめる。
「……あら? シオンは一緒じゃなかったんですか?」
「あ……」
と、秋葉が不意に呟いた一言で、志貴の中の焦りは瞬時の内に霧散した。

――シオン……。

つい先ほど、最後に見た彼女の姿が、鮮明な映像となって思い出される。
こちらに背を向けて、一度も振り返ることなく走り去ったシオン。
最後に見えたその後ろ姿からは、絶望的な悲哀と悲壮感に満ちた、哀しい何かが感じられた。

――……あの時、他人なんかに気を取られたりせず、すぐにシオンを追いかけるべきだったのかもしれない。

同時に胸の中にて巻き起こる、既に決定されてしまった過去における激しい自責の念。
だが、その時のことを、今更いくら悔やんだところで、この現状が改善されるわけではない。
第一、あの人をあのまま見捨てる訳にはいかなかったことは、紛れもない事実だ。

――あの時は……仕方なかったんだ。

志貴は心の内で自らに言い聞かし、その内心に芽生えかけていた自身に対する悔恨の念を振り払った。
「……兄さん? どうしたんですか?」
秋葉が怪訝そうな表情を浮かべて、どこか思い詰めた様な志貴に問いかけた。
秋葉も、志貴のただならぬ様子を感じ取ったのだろう。
その顔色からは、先ほどまでのような怒りは感じ取れなかった。
「あぁ……実は……」
「秋葉様? どうかなさいましたか?」
口を開きかけた志貴の言葉を遮って、秋葉の背後から翡翠が近寄ってきた。
「あら? 秋葉様、志貴さんに夜這いですか?」
その後ろについて、外の様子を確認しながら、琥珀が何やら楽しげに微笑みながら近づいてくる。
「……」
目の端を釣り上げた尖鋭たる眼差しで、秋葉が琥珀を睨み付ける。
「姉さん。もう朝ですから、正確には朝這いですよ」
能天気な姉に対し、翡翠が妙な箇所にツッコミを入れる。
「……シオン……」
そんな、少し早いがいつも通りの賑やかなやり取りを聞きながら、志貴は誰にも聞こえないような小さな声で、ぽつりと彼女の名を呼んだ。

月夜 2010年07月02日 (金) 00時25分(98)
題名:赤い夜、紅の世界(第七章)

「う……うぅ……」
私は膝を抱えたまま、閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。
その視界に映る、薄暗く汚れた路地裏の景色。
湿っぽくて荒んだそこの空気が、表通りから時折吹き込んでくる風に混じり、生暖かく私の肌にまとわり付く。
「朝……?」
私は呟きながら、そっと空を見上げた。
青く澄み渡った綺麗な青空が、その瞳に映し出される。
いつもなら、清々しさを覚えるであろうその空も、今は見ているだけで酷く不快な気分になった。

――こんな青……見たくない……いえ、むしろ、この空を鮮やかな朱で彩ってみたい……。

私はそう思った。
そして、そんな自分の考えに、何の疑問も抱かなかった。
「喉……渇いたな……」
私は地面に手を付きながら、重々しく腰を上げた。
汚い路地裏を、表通りへと向かって歩いて行く。
足の裏に、何だか妙な感覚を覚え、私は視線を自らの足下へと落とす。
そこに見えたのは、血で赤黒く汚された、コンクリートの地面だった。
誰の血だろう?
一瞬、そんなことを考える。
すぐに答えは出た。
あぁ、そうか。
これは私の血だ。
多分、今までずっと裸足でいたからだろう。
足の裏の皮膚が、ぐちゃぐちゃになってしまったみたいだ。
でも、全然痛みは感じない。
痛覚が麻痺していた。
その代わりに、本能に基づく激しい飢えと喉の渇きを感じた。
「血……飲みたいな……」
表通りが近づく。
路地裏の薄暗さの向こう側に、人の……食物の姿が目につく。
私の足が、無意識下に前へ前へと進んで行く。
そして、その体が朝の陽光に触れる……その瞬間。
「っ!?」
全身に焼けるような高熱を感じ、私は直ぐ様路地裏へと逃げ込んだ。
時を同じくして、今まで深層心理に押し込められていた理性が目覚めた。

――私は……また……。

「……うぁっ!!」
途端に、今まで眠っていた全身の感覚が、急激な覚醒を始めた。
先ほどまで、何の痛みも感じなかった足の裏が、鈍いうずきを伴った激痛となって、体中の神経を掻き回す。
額から、大量の冷や汗が吹き出す。
だが、肉体の痛みなどはたかが知れていた。
事実、この程度の激痛など、今までに何度と無く体験してきている。
本当に痛かったのは、私自身の心……シオン・エルトナム・アトラシアとしての心の痛みだ。

――……血が飲みたい。

ほんの少し前まで、そのことに欠片たりとて疑問を感じていなかった自分が、自分でも信じられない。
ドス黒く増大をし続ける、自分自身に対する自己嫌悪の念。
だけど、私の中の理性が、私の知らないところで徐々に削り取られるにつれて、そのような理念が薄れて行くのを感じた。

――もう……無理かもしれない……。

自分でも気付かない内に、暗く沈んだ諦観を抱いていたのかもしれない。

――血が……飲みたい。

私の中の欲望が囁く。

――血が……欲しい。

それは、もはや欲望などという生易しい欲求ではなかった。
「血が……」
本能の赴くまま、私は小さく口を開いた。
「っ!?」
同時に、突如として腕を走った激痛に、またもや沈みかけていた私の理性が、再び私の中に浮かび上がってくる。
そんな私の目に映ったのは、自分の歯形がついた自らの右腕だった。
どうやら、この吸血衝動が臨界点に達するのは、そう遠くは無さそうだ。
「違う……私は……人間だ……」
心の奥底ではそう自覚しながらも、私は必死に抗った。
だが、そこに以前のような力強さが見受けられないことは、私自身が一番良く分かっていた。
今はまだ大丈夫かもしれない。
世界を照らし出す、私の体を焼かんばかりの陽光が、私の行為に束縛をかけてくれているから。
だけど、太陽が沈んでしまったら……この世界が夜の暗闇に支配されてしまったら、私は……。
「……志貴……」
私は、私が私でいられる今の内に、小さな声で彼の名を呟いた。

月夜 2010年07月02日 (金) 00時26分(99)
題名:赤い夜、紅の世界(第八章)

あれから数日。
依然として、シオンが帰って来る気配は無かった。
あの日以来、志貴も放課後の時間を活用して、街中の至るところに彼女の姿を探し求めた。
けれど、どこにも望んだ光景は見つからなかった。
そして、今日は彼女がいなくなってから迎える、初めての日曜日だ。
「じゃあ、行ってくるよ」
「はい。行ってらっしゃいませ。志貴様」
「行ってらっしゃいませ〜♪レンちゃんのお世話は、この私にお任せ下さい♪」
相変わらず無表情な翡翠と、こちらも相変わらず笑顔満面な琥珀さんに見送られて、志貴は屋敷を後にした。
今日は、例え一日丸々を使ってでも、きっと……いや、必ずシオンを見つけるつもりだった。
だからといって、別に行く宛てがある訳じゃない。
手当たり次第、街中をくまなく探すだけだ。
しかし、不思議と妙な気持ちだった。

――うん。きっと見つかる。

それは、ある種の確信に近いものがあった。
何故かと問われれば、答えることは出来ないだろう。
何の根拠も証拠も無いのだから。
けれど、今日はきっと見つかる。
そう思うことに、理由や原因などは必要なかった。

――そう。絶対に見つけるんだ。

志貴は心の中で、自らに対して強く言い聞かせた。
「よし。とりあえず、街中の賑やかそうな所から、適当に探し歩いてみるか」
快晴の空を見上げ、志貴は力強く言い放つと、歩みを商店街の方へと向けた。


時刻はそろそろ宵闇といったところだ。
地平線へと沈み行く太陽が、その輝きで世界を赤く染める。
「……やっぱりいない……か」
夕日に照らされたビルの前で、志貴は力無く呟いた。
ここは、シオンがいなくなったその日にも訪れた、彼女と初めて出会った場所だ。
もしかしたらと思ったのだが、やはり所詮は淡い期待に過ぎなかったようだ。
「シオン……どこにいるんだよ……」
定間隔毎に低木が植えられた、その周囲を囲む背の低い塀に腰を下ろす。
人通りが多くなってくるこんな時間帯だ。
薄汚れた塀に腰掛けて、がっくりとうなだれている志貴に、時折人々から好奇を含んだ眼差しが向けられる。
だが、その程度ことは、当の本人にとってみればどうでもいいことだった。
不意に、その脳裏に初めて彼女と会った時の思い出が、鮮明な映像となって蘇る。
出会い頭に、いきなり「あなたを拘束します」と、引き締まった表情で言い放ったシオン。
初めて俺の名を呼んだ時の、頬を赤らめて、どこか恥ずかしそうだったシオン。
俺の常日頃からの無計画さに半ば呆れながらも、優しく微笑みかけてくれたシオン。
普段は無表情に構えている彼女が、時折見せてくれた一喜一憂の表情が、こんなにも俺の中に根付いていることを、こんな時に実感するなんて……。
「……くっ!」
志貴は苦悶にも似た声と共に激しく頭を振り、固く握り締めた拳で、己の膝を強く叩き付けた。
……何を考えてるんだ、俺は。
こんなの、まるでシオンがもう戻って来ないみたいじゃないか。
伏せていた顔を持ち上げ、その視線を西の空へと向けた。
その視界に既に太陽は無く、空は一面薄暗さで覆い尽くされている。
世界は夕暮れから夜の世界へと移行していた。

――まだ……諦めるには早過ぎるだろう?

志貴が己自身に問いかける。
「……当たり前だな」
口元に微かな笑みを浮かべて、志貴は勢い良く立ち上がった。


「……ダメか……」
志貴は弱々しく呟いた。
既に、空は漆黒の闇で彩られている。
もう、何処をどう探したか、自分でも覚えていない。
ただ、粗方自分が想像し得る場所は、全て当たり終えてしまったことだけは覚えていた。
もう、何処にも行く宛てなど無い。
それでも志貴は歩みを進めた。

月夜 2010年07月02日 (金) 00時27分(100)
題名:赤い夜、紅の世界(第九章)

胸を絞め上げる、罪悪にも似た激しい焦燥感と、その脳裏にちらつく、いつかの彼女が見せてくれた暖かい微笑み。
それだけが、彼の疲弊しきった足を、前へと突き動かしていた。

――もしかすると、もう屋敷に帰っているんじゃないだろうか?

そんなことを考える。
だが、志貴はすぐに首を横に振った。
シオンの生真面目な性格から察するに、あのような状態のまま、みすみす志貴達の前に戻って来るとは考え難い。
例え、いつも通りの彼女に戻っていたとしても、自分から帰っては来ないだろう。
自分が原因となって、他の誰かを危険な目に合わせるぐらいなら、自らの手でその関係を断ち切る。
彼女はそういう人だ。
……あの時、何故自分はすぐに彼女を追わなかったのだろう。
何故、あんな見ず知らずの他人に構って、彼女の姿を見失うようなことをしたのだろう。
そんな後悔の感情が、今更になって志貴の胸中にて渦を巻き始めた。
「……くそっ!」
志貴が悪態を付きながら、手近な壁に思いきり拳をぶつける。
こんなことを考えたところで、この現状が改善されたりはしない。
それに、まだ時間が無くなってしまった訳じゃない。
空は暗くなり、腕の時計もとうに夜の時間を刻んでいる。

――……だから、どうしたと言うんだ?

志貴が再び己自身に問いかける。
そうだ。
俺は誓ったんだ。
今日中に、絶対彼女を見つけ出すと。
腕の時計へと目線を落とす。
「……まだ、今日は終わっちゃいない……」
そう言って、志貴は自らを奮い起たせると、激しい倦怠感に、今にも動かなくなりそうな足を叱咤し、夜の街を再度歩き出した。
……だけど、何処を探せば良い?
ふと脳内に浮かび上がる、諦めを促すかのようなそんな疑問。

――……何処だって構わない! とにかく探すんだ!

ともすれば、疲れきったこの心を折ってしまいそうなその疑問を、志貴は強い意思で振り払った。

――……ガタッ。

「……ん?」
そんな折、どこかから聞こえてきた、その微かな物音に、志貴がふと立ち止まる。
その場から周囲を見渡してみて初めて、自分が何処に居るのかを理解した。
「ここは……」
志貴が小さく呟く。
ここは、志貴とアルクェイドが、まともに言葉を交した初めての場所だ。
自分が切り刻んで殺したはずの相手……真祖の吸血姫との初めての出会い。
その時感じた死への恐怖は、今も確かな記憶として残っていた。
薄暗く狭い、不快に湿った空気が漂う路地裏。
ここには、良い思い出なんか、何一つとして無かった。

――ガタッ。

再び聞こえてきたその物音に、志貴の目線が其方へと向けられる。
少し遠く、地面にうずくまるようにして膝を抱え、そこに自らの顔を埋めている見慣れた少女の姿が、その瞳に映し出された。
服装は、最後に会った時そのままだったが、その至るところは無惨に引き裂かれ、余すことなく泥と煤と赤黒く変色した血で薄汚れている。
切り傷や擦り傷のような裂傷の刻まれたその体は、見ているだけで痛々しい。
紫の特徴的だった髪も、今や本来の美しさを損い、服と同様、泥や煤、血などで汚れていた。
それでも、彼女が誰かはすぐに分かった。
見間違えるはずがない。
そんな彼女の姿を見ているだけで、心を錐で刳り貫かれているかのような痛みを感じた。
だけど、それ以上に喜びの方が大きかった。
どんな姿でも構わない。
生きて、俺の前に姿を現してくれた。
それだけで、もう十分だ……。
「……シオン……」
志貴は、小さく彼女の名を呼んだ。
「……」
その呼び声に、シオンが無言のままゆっくりと顔を持ち上げる。
久しぶりに見る、彼女の表情。
それは、薄汚れてはいたけれど、根底にある彼女の魅力は損なわれてはいなかった。
「……シオン……」
志貴はもう一度その名を呼ぶと、逸る気持ちを抑え、彼女へ向かってゆっくりと歩み寄って行った。

月夜 2010年07月02日 (金) 00時28分(101)
題名:赤い夜、紅の世界(第十章)

……そこで、記憶は途切れた。
多分、辛うじて生き残っていた脳が、たった今死を迎えたのだろう。
となると、そこに転がっている死骸は、既にただのモノでしかない。
ワタシはその脳に差し込んでいたエーテライトを引き千切り、腕輪ごとその辺りに放り捨てた。
もう、こんなもの使うこともないだろうから。
だけど、最後に読み取ったその記憶のおかげで、彼が誰なのかは思い出すことが出来た。
そうだ。
彼は、ワタシが私だった頃に恋慕っていた人だ。
名前は……何だっただろう?
もう、思い出せない。
これからも、思い出すことは無いだろう。
だって、思い出す必要もないことだから。
視線をその骸へと戻す。
バラバラに解体され、血を垂れ流していたその五体は、もうとうの昔に渇いてしまっていた。
恐怖に引き釣った表情を浮かべる、首から上だけになってしまった彼の顔。
ワタシはそれを抱え上げ、慈しむようにその首筋に歯を突き立てた。
まだ渇いていない、彼の中の血を啜り上げる。
生臭い香りを伴った、甘美な味が口の中いっぱいに広がる。
背筋を走る、身悶えするようなたまらない快感。
「ふ、ふふ、はは――」
ワタシは声の限りに嘲った。
心の内に溢れる、この感情の一切を隠すことなく。

――もう、失くすモノなんか何も……何も、無い……。

ワタシは空を見上げた。
ワタシが、生まれて初めて見た月は、一部たりと欠けたることのない、妖しい光を放つ真円の如き満月だった。

月夜 2010年07月02日 (金) 00時29分(102)
題名:赤い夜、紅の世界(あとがき)

はい。
皆様、またお会いできましたね♪
今回はなかなか素早く作品を完成させることが出来まして、自分でもかなり狂喜乱舞しかけな、半ばイカレた素人小説家の月夜です。
だからといって、決して手抜きという訳ではありませんので、ご心配なさらずに♪
前にも述べましたが、やはり私は暗い話の方が向いているみたいです。
書くスピードが、正直申し上げて段違いでしたよ(^_^;)

さて、今回は読者リクエスト第三弾。
シオンメインの物語です。
今作では、シオンの中での理性と吸血衝動の葛藤をより良く表現するため、彼女の内部に二つの“私”を生み出してみました。
彼女の中の、エルトナムとしての自分を“私”。
そして、彼女の中の、吸血鬼としての自分を“ワタシ”として表現してみました。
この二人の人格を上手く使って、彼女の内なる孤独な戦いを、出来る限りの臨場感でもって表してみたつもりなのですが……如何でしたでしょうか?
私の中では、まあまあ良いのではないかなと思っているのですが……(^o^;
さて、話は多少変わりますが、皆さんメルブラで使うとしたら、ノーマルシオンですか?
それとも、吸血鬼シオンの方でしょうか?
私は間違いなく吸血鬼シオンですね。
ノーマルシオンより使いやすいというのも……まぁ、多少はあるかもしれませんが(^_^;)
ただ私はこの性格上、どこか逆説を孕んだ歪みのようなものを持つキャラ、簡単に言ってしまえば、ダークなキャラが好きなんです。
そういう点では、もう七夜なんか最高ですね♪
ある意味、他のどのキャラよりも「萌え〜♪」ですよ(笑)

さて、今回もこの辺で終焉と致しましょうか。
この作品についての批評等は、下の「小説感想アンケート板」または「小説感想掲示板」、「月夜に吠えろ」の方で、常時受け付けておりますので、そちらの方にもじゃんじゃんお書き込み下さいね♪
では、また次に会うその時まで、暫しのお別れですね。
次に書く作品の予定は……まだ未定ですが、次の作品もどうぞよろしくお願い致しますm(__)m
それでは、また次回作でお会いしましょう♪o(^-^)o
素人小説家の月夜でした♪

月夜 2010年07月02日 (金) 00時31分(103)


Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】Amazon 対象商品よりどり2点以上!合計金額より5%OFF開催中
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板