【広告】Amazon 対象商品よりどり2点以上!合計金額より5%OFF開催中

メルブラ短編置き場

ホームページへ戻る

書き込む
タイトル:日常の延長戦 ファンタジー

――ある日の登校中、志貴が出会った一人の少女。彼の朗らかな笑顔はその少女の心を捕らえ、知らずの内に抱くのは仄かな恋心。だが、その恋が実ることはない。なぜなら、彼女は――。初のシリアス作品は、無謀にもオリキャラが登場! 月夜が送る短編第三作!

月夜 2010年07月01日 (木) 23時21分(43)
 
題名:日常の延長戦(第一章)

「ふあぁ……眠いな……」
本日何度目かの欠伸と共に、遠野志貴は目頭を擦りながら、朝の明るい陽光に照らされたいつもの通学路を、いかにもダルそうに歩いていた。
貧血の気がある志貴の朝に対する弱さは、他の一般人とは比較にならない。
毎朝のようにサボりたい欲望に襲われるのだが、そんな甘えが遠野家で許されるはずはない。
よって今日もいつものように、無表情な翡翠とにこやかな琥珀に見送られ、半強制的に学校へと向かうことになったのだった。

――全く……何で学校なんかに行かないといけないんだろうなぁ……。

足を前へと進めながら、まだぼんやりとする頭で、そんなことを考えてみる。
英語はまだいい。
もしかしたら、いずれ使わなければならない日が来ないとも限らない。
だけど、数学や古文、物理や化学などはどうだ?
そんなもの、専門家にでもならない限り、一生使う機会が無いと言っても過言ではない。
ピタゴラスの定理?
一体これからの人生のいかなる場面において、三角形の三辺の長さを知る必要があろうか。
古文単語?
今は現代だ。
道を歩いてて、いきなりどこのキチガイが古の言葉で話しかけてくるというのか。
重力加速度?
木から落ちるリンゴを見ただけで、そんなことを思い付くような電波系の輩と、どこにでもいるような普通の学生を一緒にしないでいただきたい。
化学記号?
あんな訳の分からないアルファベットの羅列、覚えたところで雑談の話題にすらなりゃしない。
こうして考えてみると、学校というものの存在意義が、何一つとして見出せない。
なら、サボっても問題無いんじゃないだろうか?
「……でも、そういう訳にもいかないんだよな……」
志貴は誰に言うともなく呟くと、がっくりと肩を落とし、力無く首を振った。
例えば、今これから学校をサボったとしよう。
だが、一人でサボったところで、別にこれといってやりたいことがあるわけでもない。
かといって、こんな早い時間に屋敷に帰ることなんか出来やしない。
本屋やCDショップ回りという、放課後のいつもの暇つぶしコースになるのが関の山だ。
しかも、万が一学校から屋敷に連絡があってみろ。
門前にて、髪を真っ赤に染めた我が妹が、怒りのオーラを身に纏って待ち構えていても、何らおかしくはない。
もしそうなったら、明日からは学校どころじゃない。
棺桶か病院のベッド行きは確定だ。
余りにもハイリスク、且つ余りにもローリターン。
……という訳で、サボるわけにはいかないということを再認識した志貴は、重い足取りで学校へと向かわざるを得なかったのだった。
……そんなことを考えている内に、どうやら着いてしまったようだ。
その視界に、見慣れた校門が徐々に近づいてくる。

――また今日も、これから学校という名の檻の中で、夕刻まで延々とダルい授業か……。

そんな避けようのない未来に、志貴は重たい溜め息を付いた。
……ちょうどそんな時だった。
「あっ!?」
不意に、志貴のすぐ背後で誰かの驚きの声が上がった。
反射的に後ろを振り返ったその目に、地面に屈み込んだ一人の女性徒の姿が映り込む。
どうやら、鞄の止め具が外れてしまったらしい。
教科書やらノートやらが、辺り一面に散乱している。
なかなか派手にぶちまけたらしく、一冊の教科書が志貴の足下にまで転がってきていた。
そこに書かれている『一年用』という文字から、彼女が自分の一つ下の学年だということが分かった。
後ろで一つに結わえられた、淡いピンク色の緩やかな髪が特徴的な少女だ。

月夜 2010年07月01日 (木) 23時23分(44)
題名:日常の延長戦(第二章)

「ど、どうしよう〜……」
などと言いながら、慌てふためいた様子で、散らばった教科書類をかき集めるその様は、どこか小動物を連想させるような、不思議な愛嬌を醸し出している。
見つめているだけで、何だかこっちが笑顔になってしまうような、そんな可愛らしい妹みたいな感じを受けた。

――何だか、秋葉とはちょうど両極に位置するような女の子だな。

などと、当の本人に知られたら、何と言われるか分からないようなことを考えながら、志貴は当たり前のようにその場にしゃがみ込むと、足元の教科書を拾い上げ、ゆっくりと彼女に歩み寄った。
「はい。これ」
「えっ?」
唐突に上から掛けられた声に驚いたのか、その少女が弾けたように顔を持ち上げる。
まだまだ幼いあどけなさの残るその顔立ちは、先述した小動物という表現そのままに、人なつっこい雰囲気がありありと感じられた。
深く澄んだ碧色の綺麗な瞳が、いたいけな眼差しで志貴を見つめる。
何だか、見られていると思うだけで、少し恥ずかしいとさえ感じる程に、その瞳は無垢で純粋だった。
「落ちてたよ」
志貴も、言葉では言い表せられないような、妙な気恥ずかしさを覚えて、ちょっと他方へと顔を逸らしながら、手短な言葉と共に手の中の教科書をその少女に手渡した。
「あ、どうもありがとうございます」
差し出された教科書を受け取りつつ、少女は明るく微笑んだ。
誰の目にも良い印象を与えるであろう、明朗とした朗らかな笑みだ。
「それじゃあ」
そんな彼女の笑顔に、志貴は多少恥ずかしがりながらも優しく微笑み返すと、踵を返して再び校舎へと向かった。

――ドクン!

その突如、何の兆候も無しに、いきなり心臓が高鳴った。
何度か味わったことのある、胸が締め付けられるかのような苦しい動悸。
――……?
だが、それは一度激しく脈動したかと思えば、その途端に陰を潜めた。
不思議に思いながら、そっと自らの胸に手を押し当ててみる。
その掌に感じたのは、いつもと何ら変わりのない、穏やかな周期を刻む胸の鼓動だった。

――……何だ?

何となく、今来たばかりの道を振り返ってみた。
やっとのことで、散らばった学習用具達を回収しきり、額に掛かった前髪をかきわけて立ち上がったその少女と目が合った。
にこやかに微笑んだ彼女が、鞄を持っていない方の手を大きく振る。

――……気のせいだな。きっと。

そう思い直し、彼女に応えるために手を上げようとした……その時。

――ガチャ。

志貴の見ているその前で、彼女の鞄が勝手にその封印を解いた。

――バサバサッ!

束縛を失い、重力に引かれるがままに口を開いたその鞄の中から、再びありとあらゆる内蔵物が撒き散らされる。
「あぁ〜っ!!」
……という叫び声を上げ、慌てて鞄のフタを抑えるが、その時には既に、鞄の中には何一つとして残ってはいなかった。
おたおたしながら、その少女がまたもや校門前にてへたり込む。
「……はぁ」
そんな少女に、志貴は呆れ混じりの溜め息を付いてから、あたふたするその彼女の元へと歩み寄った。
その頃には、先ほどの一時的な激しい動悸は完全に治まっていた。

月夜 2010年07月01日 (木) 23時25分(45)
題名:日常の延長戦(第三章)

――キーンコーンカーンコーン。

四時限目終了のチャイムが、狭い教室内にうるさく響き渡る。
それと同時に、日直の生徒が素早く号令をかけ、起立と礼と着席とを一度に行い、クラスには昼休みの空気が訪れた。
途端にわいわいと騒ぎ始める生徒達。
そんな彼らをよそ目に、ぼんやりとした眼差しで窓から空を見上げ、静かな佇まいを見せる一人の女性徒がいた。
後ろで一つに結わえられた、淡いピンク色をした髪と、綺麗な碧の瞳が一際目を引く。
そのあどけない顔つきは、まだまだ無垢な純粋さを残している。
他の生徒と比較しても、多分かなり幼く見える方だろう。
「ねぇねぇ、か〜すみん♪」
唐突に名を呼ばれ、その少女―霧霞零那(きりがすみれいな)が顔を上げた。
その視界に映る、憎らしいまでににこやかないつもの笑顔。
「あのさ〜」
少々うんざりした様に口を開く零那。
「な〜に?」
それに対し、いかにも楽しそうな笑みで応えるクラスメイトの女性徒。
「いい加減、その「か〜すみん♪」っていうの、何とかならないの?」
零那はげんなりと呟いた。
確かに、霧霞なんていう名字は言いにくいだろう。
自分でも面倒な名前だと思う。
実際、他の友人には下の名前の零那や、名字の霧霞の片方を取って、霧とか霞とかいう風に呼ばれている。
そして、そんな呼び方に、別に違和感や嫌悪感を感じたりしていた訳ではなかった。
だが、いくらなんでも『か〜すみん♪』はおかしいだろう?
しかも、このクラスメイト曰く、普通に『かすみん』ではダメらしい。
あくまでも、『か〜すみん♪』という響きに含まれる、『〜』と『♪』が重要な要素を形成しているようだ。
「どうしてよ〜?」
「どうしてって……恥ずかしいじゃない」
「そう? 可愛いよ〜?」
「だから、そういう問題じゃなくて……」
零那は返す言葉に詰まった。
毎度毎度のことだが、この娘と話していると、何だかペースが乱れる。
自分のテンポで話そうとしても、彼女の持つぽわわんとした雰囲気に流され、いつの間にか彼女に主導権を握られてしまう。
「……もういいよ」
今回も、今までと同じようになってしまったことをいち早く悟り、零那は自らの手でその話題を切った。
「それより何?」
「何って……何が?」
零那の問いかけに、その女性徒が首を傾げる。
「何か用事があって、ここに来たんじゃないの?」
「あ、そうそう」
彼女は両手をポンと叩くと、悪戯っぽく笑いながら、零那の顔を覗き込んできた。
「朝のあの人、一体何だったのかな〜?」
「なっ!?」
その言葉に、零那の顔が一気に紅潮した。
「あ、あんた、見てたの!?」
「うん」
悪びれる様子も無く、彼女が素直に頷く。
まさか、こいつに見られていたとは……。
「……で、どうなの?」
「な、何がよ!」
「軽く惚れちゃった?」
「なっ、そ、そんなわけ無いでしょ!」
零那は慌てて首を振った。
「うふふ〜、恥ずかしがらなくてもいいじゃない、か〜すみん♪」
「は、恥ずかしがってなんか……」
「でも、顔真っ赤だよ〜?」
「うるさい!!」
零那は声を荒げた。
否定すれば否定するほど、それは肯定を暴露しているようなものだ。
そう分かっているのに、否定せずにはいられなかった。
第一、何故こんなに慌てているのか、自分でもよく分からない。
彼は、確かに整った顔立ちをしてはいたが、そこまで飛び抜けてハンサムという訳ではなかった。
だというのに、何故だか頭から彼のことが離れない。
眼鏡の奥のくりっとした大きな瞳と、その優しい声色が、今でも鮮明に思い出せる。

――私……どうかしちゃったのかな?

胸打つ鼓動の高鳴りを抑え、零那は一度だけ深く深呼吸をした。
「お〜い、霞〜!」
「ん?」
そんな折り、教室の前の方から聞こえてきた自分の名に、零那がその方へと視線を向けた。
「資料係ってお前だろ? さっき使ったこの資料の山、ちゃんと図書館に返しておけよ」
一人の男子生徒が、教卓の上を指差している。
そこにあったのは、山さながらに重ねられた資料の束だった。
つい先ほど、理科の授業で使ったばかりのものだ。
「あ、うん。分かった」
零那はこの場から逃げる口実を見つけ、いつもは鬱陶しいことこの上ない資料係という肩書きに、この時ばかりは感謝しながら、勢い良く席を立ち上がった。
早足で教卓へと向かい、そこに積まれた冊子の束を抱え上げる。
「あ〜、逃げちゃダメ〜」
その背に掛けられる無邪気な悪意を秘めた声に、零那は振り返ることなく教室を後にした。

月夜 2010年07月01日 (木) 23時27分(46)
題名:日常の延長戦(第四章)

――キーンコーンカーンコーン。

「……やっと終わったか」
四時限目終了を告げるチャイムで、志貴はようやく長い眠りから目覚めた。
日直の号令に合わせて、気だるい倦怠感の中、重々しく腰を上げ、適当に頭を下げる。
そのまま腰を下ろすと、再び快眠を貪ろうと机に突っ伏した。
「……」
……だが、今度は何故か全く眠れる気がしない。
ふと顔を持ち上げ、黒板へと目を向けてみると、そこには訳の分からない記号の羅列が記されていた。
机の上に広げられた、まっさらな状態の自分のノートと比較対称してみる。

――……どうしよう。

それらを見比べている内に、何だかそこはかとない危機感に襲われ、仕方なくペンを手に取ろうとしたが……、
「……面倒だな」
ダルそうに呟くと、次の瞬間にはノートを閉じ、乱雑に机の中へと放り込んでしまった。
背もたれに身を預け、周囲へと目配せをする。
昼休みということもあって、教室内に残っている生徒はほとんど見られなかった。
いや、ほとんどというより、一部の弁当持参の女性徒達を除いて皆無といった方が正確だろう。
つまり、教室内に残っている男子生徒は、志貴ただ一人だった。

――……食堂にでも行くか。

何となく居心地の悪さを感じ、志貴は気だるさを露に腰を上げると、そそくさと教室を後にした。
昼休みの賑やかな廊下を、無言のまま歩み進める。
「……?」
その途中、ちょうど階段を下りたところで、妙な何かを目撃し、志貴はその場に立ち止まった。
何やら、前方から背の高い不思議な物体が近づいてくる。
両手で山積みの冊子を抱え、足元さえおぼつかない、ふらふらとした足取りで前へと進む一人の生徒。
その様子は、見ているこちらがヒヤヒヤするほど、危なっかしいことこの上ないものだった。
その証拠に、廊下にてすれ違う生徒達のほとんどが、驚愕に目を見開きながらも、それの邪魔だけはするまいと、大げさなくらいに壁に張り付いてその場をやりすごしている。
志貴も彼らと同じように、壁際に寄ってそこを通り過ぎようとしたのだが……、
「きゃあっ!?」
案の定と言うべきか、あからさまな無理矢理さが祟り、前のめりにバランスを崩したそれは、抵抗する間も許されずに、ものの見事に倒壊した。
山積みよろしくなまでに重ねられていた冊子が、志貴の見ている目の前で豪快にぶちまけられる。
そのおかげで……というのはおかしいかもしれないが、少なくとも視界を遮っていた遮蔽物を、床にばらまいてくれたおかげで、それを持っていた生徒の姿が露になった。
「あわわわ……ど、どうしよう〜」
うろたえたような情けない声を上げ、その少女はすぐさま屈み込み、散らばった冊子達を一冊ずつ集めていく。
薄いピンク色のポニーテールが、彼女の首の動きに合わせて、左右へとせわしなく振り回される。

――……あれ? この娘は……。

何だか見覚えのあるその光景に、志貴は軽く首を捻った。
いや、見覚えがあるなんてものじゃない。
シチュエーション的には、完全なまでに朝の校門における出来事の再現だ。
間違いない。あの娘だ。
「いっつもぶちまけてるんだな」
志貴はそう確信すると、その場で膝を曲げて、散乱した冊子を集め始めた。
「えっ?」
零那がハッと顔を上げる。

月夜 2010年07月01日 (木) 23時27分(47)
題名:日常の延長戦(第五章)

「あっ、あなたは今朝の……」
そう気付くや否や、彼女の頬が急激に紅潮し始めた。
「覚えててくれたんだ?」
「あっ、はい……」
零那は小さく頷くと、すぐにまた赤らんだ顔をうつ向かせてしまった。
恥ずかしさの余り、顔も見れないって感じだ。
まぁ、今朝に続けて本日二度目なだけに、恥ずかしがるのも無理はない。
「これで良しと。ところで、この山積みの本、どこまで持って行くの?」
粗方集め終えた資料を、再び元あった状態へと積み重ねていきながら、志貴が何気なく尋ねた。
「あ、えと……図書室までですけど……」
零那が控えめに答える。

――図書室か……。

下顎に指を当てて、志貴が少し考える素振りを見せた。
図書室までとなると、ここからはまだ結構な距離がある。
彼女一人に持たせたとなれば、またどこかで転倒するのは必至だろう。

――放っておくわけにはいかないな。

「手伝うよ」
志貴は、そう言うと重ねた冊子の山から、その半数と少しの量を取り出した。
「えっ!?」
そんな志貴の行為に、零那が目を丸くする。
「そ、そんな迷惑なこと……」
「別にいいよ。どうせ、特にすることも無いんだから」
「で、でも……」
「遠慮するなって。一人でやったって、きっとまたこけるだけだぞ?」
そうして取り出した冊子の束を持つと、志貴はゆっくりと腰を上げた。
そのまま、依然として床にへたり込んだままの零那に、にっこりと微笑みかける。
「っ!?」
それと同時に、零那は何故か急に顔を背けてしまった。
うつ向いているせいで、その顔色は伺えないが……。
「俺、何か変なこと言ったかな?」
「い、いえ! 決してそんなことは……」
不思議そうに尋ねる志貴に、零那が左右へと激しく首を振る。
その表情は、何だかかなり上気して赤く見えた。
体調でも悪いのだろうか?
「大丈夫か? 顔、何だか赤いみたいだけど」
「へ、平気です! 全然大丈夫ですから、ご心配なさらずに!」
そう思って尋ねた志貴に、零那が並々ならぬ気迫を含んだ口調で答える。
「そ、そうか? なら、いいんだが……」
その余りの勢いに、志貴が少々気圧されながら呟いた。
これだけ元気なら、別に何の心配もいらないだろう。
「じゃあ、行こうか?」
「あ、は、はい!」
志貴は訝しげに首を捻りながらも、大して気にする訳でもなく、山積みの資料を両手で抱き抱え、依然として頬を赤く染めたままの零那を引き連れて、一路図書室へと向かった。

月夜 2010年07月01日 (木) 23時28分(48)
題名:日常の延長戦(第六章)

「ふぅ……」
自宅に着くなり、私はすぐさま二階の自室へと向かい、鞄を放り捨てて、ベッドの上に倒れ込んだ。
その柔らかい感触が、まるで疲弊しきった全身を優しく包み込んでくれるかのようだ。
ともすれば、すぐにでも眠りに落ちてしまいそうな、倦怠感からくる軽いまどろみ。
そんな心地良さの中、私は今日の昼休みのことを思い返していた。

――手伝うよ。

そう言ってくれた時の、彼の優しく暖かい笑顔。
今でも、つい先刻のことのように、鮮明な映像として脳裏に描き出せた。
満面の笑みという訳ではない。
どちらかと言えば控えめな笑顔だっただろう。
だが、そんなことは関係なかった。
何と言えばいいのだろう……見ているだけで、安心できるような、ほのぼのするような……あれはそんな笑顔だった。
口だけなんかじゃない、本当の優しさを持っている人でなければ、あんな風に笑うことはできない。
あぁ、この人に任せておけば、どんなことでもきっと上手くいく……心からそう思えた。
美化のし過ぎだ。
そう思われるかもしれない。
しかしそれは、あの人の笑顔を見たことのない、赤の他人だったらの話だ。
一度でも、彼の本当の笑顔を見たことのある人なら、きっと今の私と同じような印象を抱くに違いない。
……例え、彼に惹かれているこの心を差し引いたとしても。
私は、そう確信していた。
ダメだ。
今朝、あの人に会ってからというもの、あの人の事以外何も考えられない。
授業中だろうが、休み時間だろうが、放課後であろうが、そんなことは全くもって関係なかった。

――あの人は、どこに住んでいるのだろう?

――あの人は、どんな家庭で暮らしているのだろう?

――あの人は、いつもどんなことを考えているのだろう?

――あの人は、毎日どんな道を歩いているのだろう?

――好きな人はいるのだろうか?

――自分は、あの人の目にどう映っているのだろうか?


考え出すとキリがない。
それは想像の範囲に収まらず、そこを超越して際限無くどこまでも膨らみ続ける。

―あの人と、もっと話がしてみたい……。
―あの人と、一緒に歩いてみたい……。
―あの人と、固く手を繋いでみたい……。

やがて、その思考は想像の範疇から妄想へと移行してゆく。

―あの人に触れてみたい……。
―あの人と一緒に寝てみたい……。

なにぶん、こんな経験は初めてのことだ。
この想像には、最初から歯止めなど存在していない。
ただただ、限りない膨張をし続けるのみだ。

――あの人に抱きしめられてみたい……。

――あの人と唇を重ねてみたい……。

「やだ……私ったら……」
何だか無性に恥ずかしくなり、私は顔を赤らめ、布団を頭から被り込んだ。
次から次へと浮かび上がってくる、自分の中の深層心理に根付く強い欲望。
それらの余りの多さに、私は恥ずかしさを覚えながらも、口元がにやけてしまうのを抑えられなかった。

――あの人の……。

また、一つの欲望が心の底から姿を見せ始めた。
あぁ、私は何て欲張りなんだろう。
これだけの望みを渇望しながら、まだ願いが溢れてくるなんて。
そう思いながらも、私は自分の中から込み上げるその本能を、好奇の眼差しで見つめ続けた。

――あの人の……。

さぁ、何?
これ以上、一体何を望んでいるの?

――あの人の……みたい。

「……えっ!?」
私は布団を跳ね退け、勢い良く起き上がった。
大きく吹き飛ばされた布団が、ベッドからその半身をはみ出す。

――今……何を……。

何か……何か恐ろしいことを聞いた気がする。
それが何かは分からない。

月夜 2010年07月01日 (木) 23時29分(49)
題名:日常の延長戦(第七章)

だけど、分からなければ分からない程、実体が見えなければ見えない程、それは巨大な恐怖となって還元されていくようだった。
自分の胸に手を当ててみる。
心臓が激しく高鳴っていた。
だけど、それは心地よい動悸なんかじゃない。
息が詰まるような、重くて苦しい鼓動だ。
「何……今の……」
震える声で呟く。
鏡がないせいで知る術はなかったが、恐らく、今の私の表情は、得体の知れない恐怖に歪んでいるに違いない。

――あの人の……を……みたい。

「いや……」
私は反射的に顔を背け、その瞳を固く閉じた。

――あの人の……を……てみたい。

でも、何も変わらない。
「いやっ……!」
私は続けて耳を塞ぎ、頭を抱えてベッドの上にうずくまった。

――あの人の……を……ってみたい。

何も分からない。
分からない分だけ増長されていく、捕え所のない不気味な恐怖。

――……啜ってみたい……。

私の意思とは裏腹に、うねりを上げてこの心を蝕む、抑えようのない残酷な衝動。

――……あの人の……血を啜ってみたい……。

意識が薄れる。
自分で自分を認識出来なくなっていく。
自我の境界が曖昧に歪み、確固たる自分という存在が消えていく。

――そうだ……啜ればいい……。

その自我の侵食に従って、私の中で次第に別の何かが姿を現し始めていた。

――この渇きが満たされるまで、あの人の喉元に歯を突き立て、思う存分その血を啜ればいい。

脳内で、その光景が鮮烈な映像となって映し出される。

……夜。
闇が支配する暗黒の世界。
その中でただ立ち尽くす私。
その少し前方、鈍色の鎖に繋がれ、両手両足を拘束されたあの人の姿。

――あの人に近づいて……。

私の足がゆっくりと前に踏み出される。
その度毎に、朗らかだった彼の表情が、死への恐怖に醜く歪む。
そんな彼に、たまらない愛しさを感じながら、私は一歩ずつその距離を詰めていく。

――ぎゅっとその体を抱きしめて……。

私は彼のすぐ目の前まで歩み寄ると、両手を彼の背に回して、小刻みに震える彼の体を、きつく抱きしめてあげる。

――その首筋に優しく噛みついて……。

私は小さく口を開き、彼の白くて滑らかな肌に、そっと歯を突き立てる。

――そう……そのまま、暖かくて甘美な彼の血を……。

「零那〜っ!」
「っ!?」
唐突に鼓膜を揺らした母親の呼び声に、薄らんでいた私の意識が、現実の世界へと舞い戻る。
つい先ほどまで、確かに私を支配していたはずの、暗く淀んだ残虐な欲望は、再び心の深淵へと沈み込み始めていた。
額に浮かんだ嫌な冷や汗を拭いながら、もう一度、自らの心臓に手を当ててみる。
早鐘を打っていた息苦しいその鼓動は、徐々にではあるが、元の落ち着きを取り戻し始めていた。
「そろそろ夕飯だから、下りてらっしゃ〜い!」
一階から、母親の聞き慣れた声が響いてくる。
「は〜い! 今行く〜!」
私は大きな声で返事をすると、跳ね飛ばした布団を元通りにしてから、自分の部屋を後にした。
扉を閉め、そこにもたれかかりながら、静かに顔をうつ向かせる。
「……」
今日の昼休み、唯一聞くことのできた、愛しいあの人の名前。
「遠野……先輩……」
それを、私は小さな声で呟いた。

月夜 2010年07月01日 (木) 23時30分(50)
題名:日常の延長戦(第八章)

それからだった。
零那の中で、今まで感じたことのない衝動が芽生え始めたのは。

――血を啜りたい……。

頻繁にそう感じるようになった。
授業中、前の席に座っている生徒の背中に、隠し持ったペンナイフを突き刺し、そこから溢れる血を舐めてみたい。
廊下ですれ違った見ず知らずの生徒の、その首に歯を突き立て、思う存分生暖かい血を吸い上げてみたい。
それは、今までに感じたことのある些細な衝動の延長などではなく、降って湧いたような激しい欲望だった。
全くの無であった所から、突如として生み出された有。
だからこそ、その欲望は急激に肥大化していった。
このままでは、いつか取り返しのつかないことになってしまう。
そう考えるだけで、自分で自分が怖くてたまらなくなった。

――もう……誰とも会いたくない……。

そう思って、何度外界との接触を絶とうとしただろう。
自分という存在を、この世界から隔離してしまおうと、何度考えたことだろう。
だけど、結局は何も変わってはいなかった。
自分と世界の関係を断絶する。
それだけなら容易いことだ。
だが、一度断ち切ってしまえば、それは二度と修復されることはない。
そうなってしまえば、もうあの人と会うことはできない。
話すことはおろか、近づくことも、見ることすらあたわない。
そんなことに、この心は到底耐えられそうになかった。
……だけど、それがそもそもの間違いだったのだろう。
やはり、境界を敷いておくべきだったのだ。
あの時……自分の中に、別の何かの芽吹きを感じた、あの時に……。

「零那?」
「っ!?」
背後から急に名を呼ばれ、零那は玄関で立ち止まった。
「何処へ行く気なの?」
「ちょっと……散歩に……」
怪訝そうに尋ねる母親に、靴を履き終え、今まさに外出しようという体勢のまま、零那が振り返ることなく答えた。
「こんな時間に?」
母親が時刻を確認しながら問い詰めてくる。
時計は、既に夜中の10時少し前を示していた。
「そ、それは……」
口ごもる零那。
「……どうしたの? あなた、最近ちょっと変よ?」
そんな彼女の方へと、心配げに尋ねるその声が、次第に近づいてくる。
それに伴って、心の奥から暗い声が響き出す。

――啜れ……。

思考力が著しく衰えていく。
もはや、考えていられるだけの時間は無かった。
「……くっ……!」
零那は苦しげな呻き声を漏らすと、扉を勢い良く開け放って、そのまま外へと飛び出した。
「あっ、ち、ちょっと! 零那!」
その背を追いかける呼び止めの声を無視して、零那はひたすら走った。
宛てはない。
目的は、少しでも母親から離れること。
ただそれだけだ。

――もう……堪えきれない……。

直感的にそう感じた。
この吸血衝動は、徐々に本能へと近づきつつあった。
先ほどだってそうだ。
このまま家に居たら、何をしでかすか分からない。
自分を今まで育ててくれた母親を、この手にかけたくはない。
そう思って、外の世界へ逃げようとした時、不意に背後から投げかけられた彼女の声。
刹那、飛びそうになったその理性を保つことが出来たのは、まだ人の心が残っていたからだろうか?
あの時、零那は振り返らなかった訳では無い。
振り返れなかったのだ。
今、たとえ誰であろうと人の姿を見たら、溢れ出るこの欲求を抑えることは……その血を啜らずにはいられない。
これは予想なんかではない。確信だ。
「ハァ……ハァ……」
家を出て以来、ずっと無我夢中のまま走り続け、その疲労から足を止めた時、零那がいたのは、見たことのない公園だった。
皓皓たる月と街灯の灯りが混ざり合い、無機的で冷たい光が作り出されている。

月夜 2010年07月01日 (木) 23時31分(51)
題名:日常の延長戦(第九章)

肌を刺すような冷えた夜の空気が、失われかけていた人間としての理性を呼び戻す。
「ふぅ……」
零那は大きく安堵の溜め息を付いた。
良かった。
私はまだ、ちゃんと私のままだ。
街灯の足下に設置されていた一脚のベンチに、零那は重々しく腰を下ろした。
途端に、全身から力が抜けた。
今の今まで、ずっと肉体に著しい緊張状態を強いてきたからだろうか?
いくら力を込めようとしても、激しい虚脱感がそれを許してくれなかった。
「……ま、いっか」
零那は楽観的に呟くと、背もたれにその背中を預け、暗い夜空を見上げた。
雲一つない晴れ渡った月の夜だ。
よく考えてみれば、夜の空をじっくりと見つめたことなど、あまりなかった。
だが、改めて見上げてみると、なかなか綺麗で風情がある。
夜空という名の暗黒色のステージを、きらびやかに彩る幾千、幾万の星々。
それらの輝きの中においても、一際輝かしい光を放つ満ちきった月。
それは、妖しさの中にもどこか神々しさのようなものを湛えている。
この時ばかりは、街灯の人工的な白いだけの光を、酷く邪魔に感じた。
そっと胸に手を当ててみる。
あれだけ……とは言っても、正確な距離は知る術もないが、ここが見たこともない公園だということを含めても、恐らくは相当な時間走り続けていたのだろう。
だというのに、もう鼓動はいつもの落ち着きを取り戻していた。
速くもなく、遅くもない、一定のリズムで脈動を続ける心臓。
それは、確かに自分自身の身体のはずなのに、自分以外の誰かに支配されているようだ。
自分が自分でなくなった時、私という存在はどうなってしまうのだろうか?
そう考えるだけで、背筋にうすら寒い悪寒が走った。
「……あぁっ! もう! やめやめ!」
零那は荒々しく言い捨てると、左右に激しく首を振り、脳裏に張り付いた嫌な想像を振り払った。
こんな不吉極まりない考えをしていたら、それだけで気分が滅入ってしまう。
悲観的な思考なんか、捨て去ってしまうに限る。
そう思って、零那は再び星達の瞬く夜空を仰いだ。
―折角こんなに綺麗な空なんだから、気分が落ち着くまでの間、しばらくこのまま見とれてよう……。
「……零那か?」
「えっ?」
そんな時、何の前ぶれもなく、不意に耳へと届いた誰かの呼び声。
いや、誰かなんかじゃない。
そんな、その他大勢と同義な言葉で言い表せられるような、無関係な人なんかではない。
聞き間違いであるはずもない。
他の誰よりも印象的なあの声を……他人はともかく、私にとっては世界で一番好きなあの声を……。
「……」
反射的に顔が持ち上がる。
その視界に映し出される、制服姿の一人の男性。
街灯と月の入り乱れた光に照らされ、その男性は少し離れた所で立ち尽くしていた。
「遠野……先輩……」
唇が小さく動いた。

――っ!?

途端に、先ほどまではっきりとしていた意識が、凄まじい勢いで遠退き始めた。
まるで、自分という存在が闇に喰われていくようだ。

――啜れ……。

次第に消えていく私に代わって、別の何かがその姿を現し出す。
溢れんばかりの本能を縛り付けていた、理性という名の束縛が緩んでいく。

――血を啜れ……。

それを、私の中の何かは見逃してはくれなかった。

――ダメ……やめて……。

目の前が暗転する。

――お願い……あの人だけは……。

一筋の光すら届かない、闇の満たされた深淵へと堕ちていくような心地の中、今にも消えそうな意識で懇願した。
だが、もう叶わない。
私の体は、既に私のものではなかった。
つい先ほどまで、全身を包み込むかのような激しい脱力感のせいで、ピクリとも動かなかったこの体が、私が消えかかった今になって、何事もなかったかのように動き始めた。
だけど、そこから先は、もう何も分からなかった。
果たして、自分が今座っているのか、立っているのか、それとも動いているのかさえも。

――遠野……先輩……。

最期にその脳裏をよぎったのは、いつかの彼が見せてくれた、柔和で優しい笑顔だった。

月夜 2010年07月01日 (木) 23時31分(52)
題名:日常の延長戦(第十章)

「全く……シエル先輩にも困ったもんだ」
志貴はそうぼやきながら、一人薄暗い夜道を歩いていた。
例によって例の如くと言うべきか、志貴は今日も学校内で貧血を起こして倒れたのだった。
しかも、不幸なことに昼休み中の食堂という、人混みの真っ只中で。
せめてもの幸運と言えば、その場に知り合いがいたことだろう。
「遠野君!? 大丈夫ですか!?」
そう言ってこちらへと歩み寄ってきてくれた、何故かカレーパンばかりを3つ4つほど手にしたシエルの姿は、今でもかなり鮮明に残っている。
その後、保健室で目を覚ました志貴は、半ば強制的にシエルに拉致され、今に至るということだ。

――明日は休みですし、今日は泊まっていきませんか?

つい先ほど聞いた言葉が、頭の中で忠実に再現される。
「惜しいことをしたなぁ……」
志貴は未練がましく呟いた。
何とも魅力的な提案だったのだが、あいにくそういう訳にもいかない事情があったのだ。
抽象的に言うなら家庭内事情。
具体的に言うなら妹事情。
もしも、外泊しての朝帰りなどを決行しようものなら、いかに良く出来た言い訳を携えていたとしても、厳しいお叱りを受けるのは避けられない。
下手にボロを出して事実がバレてしまえば、命の保証すら危うい。
よって、志貴には涙を堪えて去る以外に、手段は残っていなかったのだった。
「はぁ……」
志貴は深く溜め息を付いた。
その吐息の微かな音が、夜の街にやけに大きく響く。
「……」
その人通りの少なさに、志貴はもの寂しさを感じた。
無理も無い。
つい最近まで世間を賑わしていた連続失踪事件。
原因は不明ということにされているが、その根底には数多の吸血鬼達の姿が見え隠れしていた。
そしてそれは、全ての元凶であるロアの完全消滅によって、既に解決済みであった。
だが、そのことを知っている人は、自分も含めてごく僅かの特定の人々だけだった。
それ以外の人々は、未だに解決したことを知らず、今となっても得体の知れない未知の恐怖に震えている。
正確には、知る術が無かったというべきだろうか。
それが、人知を遥かに超越した位置で繰り広げられていた以上、例え誰かが説明したとしても、常人には理解出来ないに違いない。
よって、警察による無意味な犯人捜査と、見つかるはずの無い行方不明者の捜索が、今もまだ延々と続いているのだった。
決して犯人が見つからない以上、恐らく、しばらくの間この状況は改善されないだろう。
この忌々しい爪痕が、時代の流れによって風化され、ただの記憶となるまで……。
それには長い時間が掛かるだろう。
だが、待つしかない。
きっと、いつの日か、この地に以前と同じ賑わいが戻る……その時を信じて……。
「……ん?」
ふと気がつくと、志貴はとある公園に来ていた。
見覚えがある……というより、忘れるはずがない場所だった。
時計に目をやってみる。
「……」
その針が指し示していた時刻を見た瞬間、志貴の口元に微かな笑みが浮かんだ。
ここは、彼女と約束したいつかの場所だった。
目を閉じれば今でも、細部まで思い出すことのできる彼女の姿。
金糸を思わすかのような、彼女の鮮やかな金色の短い髪。
ハイネックの白いセーターと、淡い紫色のロングスカートといういつもの姿の彼女が、その脳内にちらつく。
……いるはずがない。
そんなことは分かっている。
だけど、心の内ではどこかで期待していたのだろう。
その証拠に、志貴の足は無意識の内に公園の中心へと向かっていた。
「未練……なんだな……」
志貴は自嘲気味に嘲った。
ふと空を見上げる。

月夜 2010年07月01日 (木) 23時32分(53)
題名:日常の延長戦(第十一章)

限りなく真円に近い満月が、遮るものの無い澄みきった寒空に浮かんでいた。

――そういえば、あの時もこんな満月だったな……。

そんなことを考えながら、志貴はのんびりとした足取りで、いつか歩いた道を、同じ時、同じように歩んでいった。
約束の場所が近づく。
何気なく空へ向けていた視線を水平に戻し、その向かう先へと目を移した。
誰もいるはずがない。
そう思っていた。
だが、その視界に映し出された光景は、そんな志貴の予想をある意味で裏切るものだった。
「……え……?」
誰かがいた。
いつか、自分が腰掛けていたベンチに座って、空を見上げている。
だが、彼女ではない。
そのことは遠目でもはっきりと視認できる、彼女の髪の色で判別できた。
長く緩やかで、ポニーテールなピンク色の髪の毛。
それだけで、彼女が誰であるかは十分知ることが出来た。
「……零那か?」
「えっ……?」
その呼びかけに、零那が顔をこちらへと向け直す。
遠くからだったということと、街灯の明かりが逆光になって、その表情までは読み取れなかった。
しかし、何か尋常ではない何かが、彼女の身に起きているであろうことは理解出来た。
そうでもなければ、こんな時間に、こんな場所にいるはずがない。
「どうしたんだ? こんな……」
そう、心配げに声を投げ掛けながら、ゆっくりと零那の方へ歩み寄って行こうとした。
だが、その行為はあくまでも意思の範疇を超えられなかった。
「っ!?」
突如、体が動かなくなった。
ピクリともという訳ではなかったが、両手足がほとんど言うことを聞かない。
自分の襲われた状況を知るべく、素早くその体へと目線を落とす。
「なっ!?」
それと時を同じくして、眼鏡の奥のその瞳が驚愕に見開かれた。
両手が胴体ごと拘束されている。
体が軋む程にきつく縛られており、自由に動くのは手首から下くらいだ。
しかも、一番驚いたことは、その拘束具の正体だった。
冷たい街灯の光を反射し、鈍色に輝く頑丈な鎖。
それは、虚空から伸びている虚幻の鎖だ。
あり得ない。
何も無い所から、こんな鎖が伸びてくるなど、物理的に起こり得るはずがない。
普通の人ならばそう思っただろう。
だが、志貴はすぐに普段の冷静さを取り戻した。
あり得ないこと。
起こり得ないこと。
つい最近まで、そんな常軌を逸脱した世界で過ごしてきた志貴にとってみれば、この程度のことは何と言う程のことでもなかった。

――カツン。

石畳を叩く乾いた音に、志貴が自分の体へと向けていた視線を持ち上げた。
緩慢な動きで、零那がゆっくりと近づいてくる。
その表情は、まるで能面を貼り付けたかのような、極めて無機質な物質的無表情だった。
普段、濃厚麗美な碧で彩られていた瞳も、今は見る者に鮮烈な死をイメージさせるような、血の如き鮮やかな真紅に染まっている。
もはや、彼女は零那ではなかった。
確かに肉体は零那自身のものだろう。
それでも、その肉体を今操っているのは、決して零那の意識ではなかった。
「くっ!!」
この束縛から逃れようと、力の限り全身でもがいてみたが、微動だにすら出来ない。
恐ろしいまでの拘束力だ。
このままでは、確実に殺される。

月夜 2010年07月01日 (木) 23時33分(54)
題名:日常の延長戦(第十二章)

――ドクン。

そう悟ったと同時に、志貴の中で何かが脈動した。

――ドクン!

考えるまでもない。
自分の中の使われていない行動理念。
それを司る七夜の血が、志貴の中で覚醒を始めていた。

――アレを殺せ。

無理だ。

――殺さなければお前が殺されるだけだ。なら、殺される前に殺してしまえ。

そんなこと、出来るはずがない。

――お前も、今さっき自分で言っていただろう? アレはお前の知っている零那じゃない。

だからといって、それが殺して良い理由にはならない。
彼女は俺に親しんでくれた。
そんな彼女を、殺したくはない。

――だからお前は甘いんだよ。志貴。我が身を守るために他者を殺す。そこに罪や悪などが入り込む余地は無い。

うるさい!
もう、俺は殺人鬼なんかじゃない!

――いいや、お前は立派な殺人貴だよ。心が決まらないなら、俺が代わってやろう。

その言葉を最後に、志貴の表層意識は眠りに付いた。
代わりに、七夜の血が体内を駆け巡り、瞬時にその全身を掌握する。
七夜は激しく首を振り、その勢いで魔眼殺しを振り外すと、その眼が捉える鎖の死を直視した。
ポケットの中から、いつも持ち歩いている守り刀を取り出し、手首のスナップだけでそれを上空へと放り投げる。
その白刃の軌道が、先ほど見つめた鎖の死の線を通過し、それと同時に、彼の体を縛り付けていた戒めも解けた。
断ち切られた夢幻の鎖が、音もなく地面へと崩れ落ちる。
自由を取り戻した右の手で、落下してくる短刀を無造作に掴み取った。
「さぁ、殺し合おう……」
恐怖を煽るかのような、底冷えのする声で呟きながら、七夜が愉悦混じりの狂喜の笑みを浮かべる。
もう、誰にも止めることはできない。
殺人貴は夜の世界に解き放たれた……。

月夜 2010年07月01日 (木) 23時34分(55)
題名:日常の延長戦(あとがき)

月夜のアトリエ、小説掲示板をご覧の皆様、どうもこんにちは♪
管理人兼素人小説家の月夜です。
さて、まずはこの場をお借りしまして、皆さんに謝罪申し上げたいと思います。
前作〈命〉のあとがきの中で、「次は明るい作品を書かせていただきます」などとほざいていたくせに、今回も相当ダークサイドに染まった作品となってしまいました。
いやね、最初から嘘を付く気では、勿論無かったんですよ?
ただ、明るく楽しい作品を書きたいと思い、執筆に向かったは良いものの、全くペンが動かなくなってしまいまして……。
以前はあんなに激しく暴れ回ってくれた、アルク&シエル先輩のコンビも、何故かブースト切れのご様子でして……。
仕方なく、気分転換に七夜を書いてみたら、あらびっくりですよ!
七夜の危なさとカッコ良さが、私のハートを「ズキューン!」ですよ!
こうなれば、もう頭の中は七夜一色。
七夜フィーバーでウハウハ状態のまま、脳内オーバーヒートで本来の目的を忘れ、気が付けばこのような作品が出来上がっていました。
え?
その割には七夜の出番がほとんど無かったじゃないか?
何をおっしゃる!
七夜はあれで良いのです!
短い登場時間の中でも、見た者のハートを瞬時に鷲掴みにするのが七夜です。
そんな彼が、小説の中で四六時中暴れ回っていたらどうなるか?
他のキャラクターから、存在価値を全て奪い尽くしてしまうじゃありませんか!
そんなことになったら、みんなが可哀想です!
だから、敢えて控えめ過ぎるくらいで、彼にはちょうど良いのです。
さて、今までに記した説明で、皆さんご理解頂けたかと思います。
今作が、またもや暗くなってしまった原因。
それは私ではありません。
七夜がカッコ良すぎるのがいけないんです!







誠に申し訳ありませんでした……m(__)m

さて、話は変わりますが、今回は日常の延長線上にある、非日常の世界ということで書かせて頂きましたが、いかがなものでしたでしょうか?
またもや、零那という創作キャラを追加してみましたが、皆さんの目に彼女はどう映ったでしょうか?
少しでも彼女に魅力を感じて頂けたなら、私としても喜ばしい限りです♪
新しくキャラを創る上で、最も悩むこと。
それは、何と言っても名前ですね。
特に日本人の場合、カタカナではなく漢字で考えなければならないので、非常に困ります。
今作で登場させた彼女の名前も、かなりの苦悩と逡巡と妥協の上に成り立っていたりします。
次回作からは、出来るだけ既存キャラだけで構成していきたいとものですね(^_^;)
え?
あの後、二人はどうなったかって?
それは、皆様方のご想像にお任せ致します♪
「これはこうだ」という定められた終わり方ばかりより、「あれからどうなったんだろう?」と想像を掻立てられる終わり方も、たまには良いものですよ?
では、今回はこれにて幕を引かさせて頂きます。
次は……次回こそは、ちゃんと明るく楽しい作品を作り出す……つもりです(^_^;)
作品の感想等ございましたら、下の「小説感想アンケート板」または「小説感想掲示板」、「月夜に吠えろ」に、どしどしお書き込みくださいね♪
それでは、また会う日まで。
素人小説家の月夜でした♪o(^-^)o

月夜 2010年07月01日 (木) 23時35分(56)


Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】Amazon 対象商品よりどり2点以上!合計金額より5%OFF開催中
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板