「ケホッ、ケホッ」 あれ? 「ケホッ、ケホッ」 何だろう? 何故だか咳が止まらない。 ここ最近……というか、つい今さっきまで何とも無かったのに。 「ゴホッ! ゴホッ!」 「どうしたんだ秋葉?」 向かいの席から声が投げ掛けられる。 ふと顔を上げた私の視線の先には、私のことを覗き込む兄さんの不思議そうな表情があった。 「いえ、何でもありません」 「そうか? ならいいんだが」 兄さんはそう言うと、何事もなかったかのように、視線を私から読みかけの雑誌へと戻し、空いている方の手で紅茶のカップを持ち上げる。 「…………」 私は態度に出すことなく、いまさっきの自分の行為を悔いた。 あぁ、まただ。 またやってしまった。 兄さんと話すといつもこうだ。 私の兄さんに対する話し方が無愛想なことくらい、自分が一番良く分かっている。 だけど、自分でも何故だか分からないが、兄さんと話す時は、どうしても刺々しくなってしまう。 裏返しの感情……という言葉を最近良く聞く。 だが、自分のこの感情は、本当にこれに当てはまるのだろうか? 「…………」 私も、同じように紅茶のカップを持ち上げ、それを口元に持っていき、飲むフリをしながら、上目使いでそっと兄さんのことを覗き見た。 雑誌を読む眼鏡の奥のその瞳は、上下左右へとせわしなく動いており、私の視線に気付く気配はない。 「…………」 私は、そんな兄さんの表情を、しばらくの間見つめ続けていた。 いや、見とれていたと言った方が、正確かもしれない 「……ん?」 余りにもジロジロと見つめすぎたのか、兄さんも私の眼差しに気付いたようだ。 雑誌から顔を上げた兄さんの目と、兄さんに見とれていた私の目とが見つめ合う。 「どうかしたか?」 「えっ!? あ、い、いえ、何でも……!?」 と、その時、私は急に喉に違和感を感じて、蒸せ返るように口元を押さえ込んだ。 「ゴホッ! ゴホッ!」 「おいおい。大丈夫か?」 目線を伏せて咳き込む私に、兄さんが心配そうに声を掛けてくれる。 椅子の動く音と、視界の隅に映る閉じられた雑誌から、兄さんが立ち上がったことが分かった。 「いえ、ゴホッ! だ、大丈夫で、ゴホッ! ゴホッ!」 兄さんに心配をかけまいと、何とか話そうとはしてみるのだが、出てくるのは乾いた咳ばかりで、なかなか言葉が繋がらない。 「大丈夫ってお前……全然大丈夫じゃないじゃないか」 そう言いながら、兄さんが私の背中を優しく撫でてくれる。 「ゴホッ! 兄さん、ありが……ゴホッ! ゴホッ!」 「無理に喋ろうとするな。余計に酷くなるぞ」 服越しにでも暖かい兄さんの手が、私の背を慈しむように撫でるその度毎に、だんだんと苦しさが無くなっていっているような気がする。 そうこうしている内に、大分気分は楽になってきたが、咳はなかなか止まってはくれなかった。 「秋葉様、風邪でも引かれましたか?」 そんな私が心配になったのか、兄さんだけでなく翡翠までもが、不安げな表情で歩み寄ってきた。 「秋葉様が風邪ですか〜?」 それだけではなく、台所の方からは琥珀の声も近づいてくる。 「にわかには信じられませんね〜。秋葉様が風邪を引くなんて、太陽系の全惑星が突如として直列する確率と大して変わらないんじゃないですか〜♪」 ……どうやら、皆が皆心配をしてくれているのでは無いらしい。 カップの中の紅茶がカラだったなら、あのムカつくまでににこやかな顔面めがけて、迷わず投擲しているところなのだが……残念かな、まだ紅茶は半分以上残っていた。 「また琥珀さんはそんなこと言って……いくら秋葉でも風邪くらい引くさ」 兄さんが慌ててフォローを入れる。 だけど、これが純粋に私のためだということではなく、後々自分にとばっちりが来ないようにという意だと、私はしっかりと理解している。 だんだんと喋れるようにもなってきたので、ちょっと意地悪してみよう。 「ちょっと兄さん、“いくら秋葉でも”とはどういう意味です?」 「えっ!? い、いや、そ、そういう意味で言ったんじゃないよ! お、俺はただ……」 案の定、兄さんは面白いくらいに狼狽えてくれた。 期待通りと言えば期待通りの反応なのだが、だからといって、こんなにおたおたされるというのも、何だか少し悲しくなってくる。 普段、兄さんの目に私はどう映っているのかしら? 「それはそうと……」 そんなとき、脇から翡翠が控えめに進言してきた。 こういう時に場の空気を戻すのは、大抵翡翠の仕事だ。 「本当に調子が悪いのでしたら、一度病院で診てもらってはいかがです?」 「そうね……」 もう咳は止まっていたが、喉の奥には未だに痺れるような痛みが残っていた。 それに、少し体がだるいような、気だるい倦怠感も感じる。 どうやら、本当に少し風邪気味のようだ。 だが、実を言うとこの時、“病院”という言葉に、私はちょっと抵抗を感じていた。
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