時は夕刻。 夕飯も終わり、その後片付けに忙しい、いつもと何ら変わりのない、普段通りの遠野邸。
――ガシャーン!!
そこへ、何の前ぶれも無く、唐突に響いたけたたましく甲高い騒音に、琥珀は洗い物をしていた手を止め、ふと自分の背後を振り返った。 「あ……ご、ごめんなさい……」 その場にしゃがみこんで、床に散らばった皿の破片を集める翡翠の姿が、その瞳に映し出される。 「あらあら。翡翠ちゃん、大丈夫?」 そんな翡翠に、琥珀が優しい言葉を投げ掛けた。 珍しいな。 翡翠ちゃんが、こんな不注意な失敗をするなんて。 最初は、その程度にしか考えていなかった。 だけど、そんな自分の考えが浅はかであったことを、琥珀はそのすぐ後に知ることとなる。 「え、えぇ……大丈夫……」 翡翠が腕を動かしながら答える。
――……あれ?
琥珀は首を傾げた。 何だか、いつもと少し様子が違う。 いつになく控え目……というか、今日は控え目を通り越して、どこか弱々しささえ見受けられた。 「翡翠ちゃん、本当に大丈夫なの?」 形容し難い不安にも似た違和感を感じた琥珀は、洗い場の水を止め、近場に掛けられた手ぬぐいで両手を拭いてから、翡翠の傍らへと歩み寄った。 「だ、大丈夫……だから……心配しないで……」 そんな琥珀に、翡翠が顔をうつ向かせたまま答える。 近寄って初めて気付いたが、少し呼吸が荒いようにも感じた。 ……と、急に翡翠の体が横へと傾き始めた。 「ひ、翡翠ちゃん!?」 その体を、琥珀が慌てて抱き抱える。 糸の切れた人形のように、腕の中で力無く横たわる翡翠。 その顔色は、普通では考えられないほど赤く紅潮していた。 ほとんど閉じられたと表現してもいいくらいの瞳孔と、苦しげな息遣いが、その不調のほどを言外に物語っている。 ……様子がおかしいのは、もう明白だ。 琥珀は、その額にそっと手のひらを重ねてみた。 「きゃっ!? 翡翠ちゃん、すごい熱よ!」 その余りの熱さに、琥珀の口から驚愕の声が漏れる。 「琥珀さん、どうかしたの?」 リビングの方から聞こえる声。 目線を上げてみると、台所の入り口付近で、こちらを見つめる志貴の姿が見えた。 その後ろで、肩越しに眼差しを向ける秋葉の姿も。 「あ、志貴さん、秋葉様……翡翠ちゃんが……」 「はぁ……はぁ……」 翡翠の方はと言うと、もう苦しくて言葉を紡ぐことすら出来ないようだ。 「翡翠!? 大丈夫か!?」 「翡翠!? どうしたの!?」 そんなただならない様子の翡翠に、志貴と秋葉が慌てて歩み寄る。 「何だか、すごい熱があるんです」 再び、腕の中の翡翠へと目線を落とす。 脂汗を浮かべ、苦しげに歪んだ表情が、見ているだけで痛々しい。 「と、とにかく、早く部屋へ運んであげないと!」 志貴は自ら率先して、琥珀の腕から翡翠を受け取り、優しくその体を抱き上げた。 いつもなら、そんなことをした瞬間、秋葉の周囲からドス黒いオーラが発散され出すのだが、今回は翡翠の一大事だ。 さすがの秋葉も反論一つせず、心配そうな眼差しで、翡翠の青ざめた表情を見守るのみだった。 「……だ……大丈夫……です」 志貴の腕の中で、翡翠が消え入るような声を発する。 「志貴様の手をお借りせずとも……ちゃんと歩けます……」 息も絶え絶えにそう呟く翡翠の頬は、今の体調不良とは別の意味で紅潮しているようだった。
――翡翠ちゃんったら、こんな時にでも、志貴さんに抱かれて恥ずかしいなんて感じてる。
そう考えると、優しい姉の立場としては、ちょっとからかってあげたくなるのだけれど……、 「ダメよ、翡翠ちゃん。自分の体のことは、自分が一番良く分かってるはずでしょ?」 残念ながら、今回は場合が場合なだけに、そうゆう訳にもいかない…………、 「それに、こんなことでも無い限り、志貴さんに抱き抱えられるなんて滅多に無いんだから、こういう時は遠慮なく甘えなきゃ♪」 ……とかなんとか思いながらも、結局からかわずにはいられないのが琥珀である。 「ね、姉さん……」 「こ、琥珀さん、何を……」 志貴と翡翠の声が重なる。 その視線は、さりげなく傍らの秋葉へと向けられていた。 「……何です?」 そんな二人分の眼差しを受けて、秋葉が訝しげに問い返す。 その表情は平然を保っていたが、眉間に寄った小さいシワが、何とも言えない迫力を醸し出している。 「ささ、志貴さん。早く翡翠ちゃんを運んであげちゃいましょう♪」 翡翠を抱えた志貴の背を押しながら、そんな秋葉の横をすりぬけるようにして、琥珀は台所を後にした。
|