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祝 |
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From:ヒトシ
ダイスケの部屋開設おめでとうございます。 暗いときいていたほど暗くないじゃないか。 まあ、こういう話も宜しいかと。
触発されてヒトシの部屋の続きを書く.....かもね?
公案といえば、尿道結石と緑内障併発したときに、結石の医者では「お水たくさん飲んでください。」といわれ、目医者では「水分のとりすぎは絶対ダメ!」といわれたことを思い出しますが、少し違いますか?
2007年11月13日 (火) 18時34分
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公安? |
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From:木蘭
じゃなくて公案ですか。 私は苟安が信条ですが。
「武術はなんだ」読ませて頂きました。 武道で養う人格形成という事ですが、その目指すべき所は「良い兵隊」ですよね。 江戸太平の世に芽生え、明治以降の体育として確立された武道教育なんでしょうが、 元々作為的で矛盾を抱えた思想であるにもかかわらず、 現代日本の(生涯?)教育に当てはめようとするのは、いささかキメラ的というか、御都合主義的な違和感を覚えます (逆に敗戦を経て、江戸時代に回帰したのかも知れません)。 太平の世、近代国会、戦後社会で生き延びようとした努力の結果ではあり、 先人の言葉を鵜呑みにはしませんが、否定も出来ないです・・・私自身は。 そういった事情をかんがみると、武道で養う人格とか精神について、 その人が語る言葉は、その人の教養の試金石足り得るので、 聞いていて非常に楽しくはありますね。
ぶっちゃけ十数年殺し合いを続けて、フッと芽生える心が武道で養われる精神だと思いますが、 それって「もう武道は止めようぜ」だと思うんですね。 実際に武力衝突をせずに、冷戦を経て武術(の団体や稽古)から身を引く事になるというのは、 ある種、極意なのかも知れませんし(皮肉では無いですよ)、 そう思う予定が無いと言う事は、私ってば幸せ・・・じゃなくて、 本当はトータルな意味で武道にいそしんではいないのかも知れません。
ただ武術も身体表現の一つなんだから、我が飛び出してしまうのは当たり前でしょうね。 我が飛び出すというよりは、それ自体が我の表象なんですが。 しゃべったり、笑ったりする様に。
とはいえ、本来の目的(敵の無力化)への使用機会が減れば減るなるほど、身体表現の道具ではなく、それ自体が目的化してしまうと言うのは自然の流れだと思います。 それは武術が身体表現ではなく、ダンスの様に自己表現の為の身体動作化するという事で、我が無いのは逆に空虚なのかも知れません。
しかしダンスなら思いっきり踊ったもん勝ちですな。 悩むと言う事は踊りが足らないのでしょう。 周りの人が気になる様では踊りでは御座いません。 そんな事では神の声は聞けません。 踊りが最高潮に達し、理性のキャパシティを越えた瞬間! それこそ真の武術が花開く一瞬ですな。神との融合。 血の花が咲くぜ! ううん・・・グレイト。
2007年11月14日 (水) 03時34分
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反省 |
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From:木蘭
「絡みにくいよ」とダイスケさんに口頭で言われてしまいました。 そうですね。半分お茶を濁そうとして意図的な部分もあるんですが、それではやはりいけませんね。 わかりやすさというのは大切です。
ダイスケさんの文章では「武術」と「武道」が明確に区別されていなので、 両方について言及してみたら、話が散漫になってしまいました。
以前、昇段審査の筆記試験に「武道とは何か?」という問題があり、少々考察した経験があります。 「武道」は「思想」であり、「武術」は「技術」であり、「スポーツ」は「(原義は)娯楽」です。 言葉の意味はそういう事・・・のはずです。 そして「武道」とは本来「武士道」のハズです。 武士身分の人間、一族が共有する行動様式の標識と言えるでしょうか。 現代日本で、もっとも古典的「武士道」を体現しているのは、「極道」の方々というのは事実です。 ただ「武道」も「武士道」も、それを担う人々が時代に合わせて変質していますし、生き延びる課程の中で、「道」も変化するのは当然です。 谷先生が「商売」と簡潔に表現した事象だと思います。 私としては、教育界を筆頭に「武道ファンタジー」から、そろそろ目を覚まして欲しいなぁ・・・と思っています。 鬱陶しいので。 別に「武道」って、「礼儀が身に付くスポーツ」って定義じゃないんだから。 ・・・と言いたかった訳ですよ。 「武士道」の原点を見つめ、古典に帰れば、武道団体の醜い一面も、道理にかなっているなぁ・・・と思うのですが、如何でしょう。 もっとも、私は武士じゃないし、武道に邁進している気もないのですが。
所で、
>この「自分」や「坐禅」に「武術」を入れても違和感が無ければ良いのになぁ
とありますが、ダイスケさんは「武術」と「座禅」を同列に考えておられますか? 或いは、願望はあるが、残念ながら同列ではないという事でしょうか。 それぞれ目的(「敵を無力化する」「悟りをひらく」)を達成する為の「手段」であるという点では同列ですが、 向き合う相手が「敵」か「自分」かという違いは、決定的だと思うのですが。 如何でしょう?
2007年11月28日 (水) 02時33分
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こちらも反省。。 |
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From:ダイスケ
お、御坊程ともなると判っておいでですね。 私も反響や勘繰りを恐れて意図的に武道と武術を混ぜて書いたので、 感想を書きにくかったと言うのはよく分ります。 元々のタイトルも、「武道はなんだ」だったのです。 #お互いぼやかして書いていたわけですね(^^; むしろ、武道家はなんだ、にすべきだったんですかね。
今回私が書いた武道は、戦後のいわゆる現代武道と呼ばれるような ものの事です。明確な定義は書いていませんでした。失礼しました。
御坊が >別に「武道」って、「礼儀が身に付くスポーツ」って定義じゃないんだから。 こう書かれているのももっともで、内部の人はほとんどの場合気が ついている部分でもあります。 #スポーツの部分はそのうち書く予定ですので、ここでは論じません
しかしながら、各団体のほとんどが大義名分として礼節の部分は語ってあり、 指導者も口にします。少し前に話題になった通り、学習指導要領の中でも 武道を必須にする方向でほぼ決まったようですが、これも精神面からの 鍛錬などが望めるから、という側面が大きいようです。 #「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を #愛する態度を養う」だそうです(^^;。
武術の古典に帰れば、おっしゃる通りです。精神面の修行は自分との 戦いがほとんどであり、「武術家は全て仁義に厚く、礼節を重んじ〜〜」 なんて事は個々人の問題で、全体として言える訳ではありません。
片や口では礼節を語り、内心、あるいは言動ではそれに反する事をしている 人が多く見られるので、第三者的に見ていても嫌になってきてしまうわけです。 内部にいればもっと嫌でしょう。 この嫌になっている人に対して、こんな良い側面があるよ、と言う 反論がしたくて思考を重ねたのですが、結局ミイラ取りがミイラと言うか、 自分も嫌になってきてしまったと言う。難しいものです。
また、 >ダイスケさんは「武術」と「座禅」を同列に考えておられますか? この部分はきっぱりとNoです。究極的な部分はともかく、全く違うものと 捉えています。今回は2例として当てはめるために書いただけで、その2例の 因果関係は考慮していません。
禅と武術を並列で語るとおかしくなると思います。 魔境とか野狐禅を使って、例として語るならまだ分りますが(危険なジョーク)。
ところで。 反響は嬉しいところですが、ライトな感じで結構ですよ〜。 私は谷大先生が天岩戸から出てくるまでの「つなぎ」ですので。。 反響無しのスルーでも結構です。はい。 #だって、反響あると次を書かなきゃいけない気もするし(^^;
2007年11月29日 (木) 09時42分
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ちっ |
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From:木蘭
さすがですな。 なんか上手い事、芯を外された気がします。 波風立てたいのにぃ(笑)。
それはそうと良い感じで更新が続いておりますね。 楽しみです。
リゾート空手といえば、高校の部活動で汗を流したN本S林寺拳法も、表現方法は仏教の衣を借りていても、主張する所はリゾート拳法だったんだよな・・・と再認識。 あれでXXXXと合わせて、会員数を増やせたんだから、上手い事やっているよなぁ・・・と感心します(皮肉じゃなくて本当に)。 最近のキーワードは「愛」らしいんですが。 やっぱり客を呼ぶには、間口の広さと、一寸した嘘が大切なんですね・・・。 でも言葉通りリゾート拳法を体現した母校のN本S林寺拳法部が、全国大会に行ったら偉い事浮いていて、びっくらこきましたが。 ダメだよ、みんな。そんなに眉間にしわをよせて真面目になっちゃ。 特にS林寺は思想的傾向が強いんだから。 やっぱり洒落って大切だな・・・と痛感しました(そんな事を言っている青少年もどうかと思うが)。 開祖だって腕っ節の強いトンチオヤジなんだから。
・・・そういえば、自分も色々めんどくさくて、数年武道から離れていたんだっけな・・・と今思い出しました。
2007年11月30日 (金) 17時29分
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