煙草の問題を考える伝言板
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ハマリ王 2007年07月30日 (月) 18時05分 No.163
(1)美味しくて喫煙できる飲食店
(2)美味しいが喫煙できない飲食店
(3)不味いが喫煙できる飲食店
(4)不味い上に喫煙できない飲食店
(1)〜(4)が隣接しているなら、喫煙客がわざわざ(4)を選ぶとは考えられません。(2)が存在する以上(4)に非喫煙者が通うとも思えませんから、潰れるのは時間の問題でしょう。(3)に移行するか、味の研究をして(1)(2)の仲間入りをするしか生き残る方法はありません。
食事をする時間程度なら喫煙を我慢できる者であれば(1)〜(3)の全てを選択できます。しかし、そういう喫煙客がわざわざ(3)を選ぶとは考えにくいです。非喫煙客が(3)を選ぶ理由は何一つありませんから、結局ヘビーな喫煙客しか来ない店になってしまうでしょう。しかし(1)が存在するのであれば、ヘビースモーカーといえど(3)を選択する必要はありません。よって、(4)が潰れれば(3)も潰れるのは必然であると言えます。
(2)が残る以上、非喫煙客がわざわざ(1)を選ぶことはありません。ヘビーな喫煙客は(1)を選ぶしかありません。しかし、ライトな喫煙客は非喫煙客になりすますことによって(2)を選択することもできるのです。
きちんと生き残れる飲食店が(2)に向かうのは自然の流れというものではないでしょうか?
管理人 2007年08月03日 (金) 08時04分 No.164
ハマリ王さん
おはようございます。
飲食店の経営について、ハマリ王さんとは私は少し違う考えがあります。
私は、皆さんが最初に云われる”美味い”というのは本当かな?と疑問を持っています。
残念ながら、味の分からない人が多数派なのではないでしょうか。化学調味料に疑問を感じない、煙草のニオイが気にならない、そういう人が多数派なのではないかと思います。
人々の多数に全て十分な知恵があれば、煙草など、成立しない商品なのだと思います。
味の評価は、インチキ評論家に作られた虚構ではないか、そのように考えています。ですから今の周囲の状況を前提に考えると、飲食店の経営について、味という要素は、ゼロとは云いませんが、最大の要素ではないと思うのです。
それにしても、自分で判断できない人が多過ぎる。
ハマリ王 2007年08月05日 (日) 11時38分 No.165
>私は、皆さんが最初に云われる”美味い”というのは本当かな?と疑問を持っています。
私の親は天然ダシと化学調味料を併用していたようです。少量であれば天然ダシのスッキリ感を損なうことなく深みを出すことができると言っていました。もしかしたら手抜きの言い訳だったのかも知れませんが、それが私にとっての「おふくろの味」であることは間違いありません。また、化学調味料と聞くと「薬品・化学物質」を想像しがちですが、実際には天然素材から抽出するという方法で製造されています。天然ダシと化学調味料の親性は高いということですね。
問題は、化学調味料があまりに強力で安価だという点でしょう。特に商売であれば原価率の低下は魅力ですから、客が減らない限り化学調味料の量を増やしたいと考えても不思議はありません。その結果、作る側も食べる側も大量使用から脱却できなくなってしまうのだと思います。ある意味、麻薬のようなものなのかも知れません。
しかし、美味しさというのは主観ですから、食べた本人が美味いと言うのなら仕方ありません。その意味において「美味の絶対値」というものは存在できないと言えるでしょう。ですから私は、疑問を感じながらも他人の味覚には口を出さないよう気をつけております。
>飲食店の経営について、味という要素は、ゼロとは云いませんが、最大の要素ではないと思うのです。
食物を供さない飲食業はあり得ませんから、味の評価を無視することはできません。京都の御茶屋さんや談話室などは「空間・雰囲気」を一番の売物としていますが、そこで供される食事が不味ければ肝心の雰囲気まで損なわれてしまいます。かと言って食物を供さないのであれば飲食業とは呼べません。決して手を抜ける部分ではないということですね。
飲食業に限らず、人間を相手にする職業を営む上で一番大切な要素はホスピタリティであると私は考えております。味・値段・接客・装飾・・・・という要素はすべて上質なホスピタリティを実現させるために作用すべきだということです。これを忘れてしまったお店はいずれお客様に見捨てられてしまうでしょう。
管理人 2007年08月06日 (月) 00時06分 No.166
ハマリ王さんにあまり良くない思いをさせてしまい申し訳御座いません。
分かりにくい議論になってしましましたが、実は、ハマリ王さんのご意見と管理人の意見はかなり多くの部分で一致しています。以下に簡単にまとめます。部分引用ではなく、管理人の理解をもとに纏めます。
ハマリ王さんは、「美味の絶対値」は存在しないと仰っています。管理人は、飲食店を選ぶ基準が、「味」であるという命題に疑問を持っています。疑問の主題は、「味」の評価は好みの問題であるということです。また、管理人は自分自身、通常の食事には「味」を重視しません。先ずは、タバコになやまされないことを重視し、次に、時間と有用性を重視します。有用性とは、変な日本語ですが、選択の余地があるということです。それが満たされれば、よほど、口に合わないということがない限り気にしません。こういう人は少数派かもしれませんし、多数派かもしれません。
「味」を重視しないことにはもう2つの理由があります。ひとつは、こだわると、選択の余地がなくなるということ、もうひとつは、美味過ぎると、早く食事ができないということです。自分自身の評価では、余程のところを除いては、どこも大して変わらない味だと思います。通常はその大差ない味で、納得はしませんが、それで過しています。
美味すぎるというのは、別な問題です。全く違う例えになりますが、私には、物凄く好きな歌劇があります。しかし、この曲は滅多に聴きません。3時間もかかるから、というのも理由のひとつですが、最も大きな理由は、体調や精神状態を整えて聞かないと、作品に対して失礼になると思うからです。これに対して、気軽な曲もあります。同様に食事も、美味過ぎると構えてしまい、落ち着かないのです。ですから美味過ぎると、頻繁には利用できないという矛盾に悩むことになります。
ですので、「味」を無視することはありませんが、自分にとって最大の評価項目にはなりえないのです。
多くの人にとって、「味」を最大の評価項目にしていないと思う理由は次の通りです。
(1)煙草を気にしないという人が未だに多数派だということ。煙草のニオイの中で、味が判別できるとは思えません。
(2)同じような味の飲食店が多すぎること。特にファミリーレストランの類は、味の差が分かりません。味を重視するなら、もっと味に違いがあってもいいはずです。或いは、それらの味が、多くの人にとって好ましい味だということなのかもそれません。そうだとすると、管理人が推奨しているお店は、不味い店ということになります。
(3)食事するという行為は、本来、養分を採るという行為であること。塩分や栄養分を補給し、体を養うのが第一目的であって、「味」は付随する要素に過ぎないと考えます。
(4)不味い、と評判のお店であっても永く生き残っているところが多くあること。特に地方に行くとこのようなお店にあたります。
「味」を無視することはありませんが、とても口に入れられないほどのものでない限りは、私は許容します。
個人的な経験を明かすと、私の母親も化学調味料を使っていました。子供の頃はこれを疑問に感じていませんでしたが、一人暮らしをするようになってから、化学調味料が自分にとって不要であることを知りました。自分にとって家庭の味は、今の家庭の味であって、親の味ではありません。自分の子供時代は貧しい時代だったので、そんなにご馳走にあずかることは滅多にありませんでした。当時は、食事に手間を掛けるということが一般的ではなく、どこも化学調味料の味だったと記憶しています。そのような反発もあって、化学調味料の味は「嫌い」です。勿論他人の好みを否定するのではなく、自分にとって、「嫌い」なのです。
しかし、現実の生活をするのにあたって、化学調味料を口に入れなければ、生活は成り立ちません。せめてもの抵抗として、我が家には、置いてありませんし、なるべく化学調味料を使用しない料理や飲食店を選ぶようにしています。
飲食店の生き残りについては、私は、ビジネスとしてどこまで店主に能力があるか、ということに尽きると思います。過剰な顧客満足度を追求しても結局は無理な話ですので、どのようにターゲットを決めて、どこまで妥協するか、ということになるのだと思います。その中に「味」についての妥協点もあるというのが、私の考え方です。
ハマリ王 2007年08月06日 (月) 12時41分 No.167
人間が行うことはすべて能力である、と私は考えます。たとえば食事を美味しく食べるためには「美味しく食べる能力」が必要だということです。若いうちなら少々不味いものでも掃除機のように吸い込めるのでしょうが、年を取ってくるとなかなかそういうわけにはいきません。しかし、食べることに幸せを感じなくなったり、逆に苦痛を感じるようになれば生命維持が難しくなります。だから神様は人間に「美味しく食べる能力」を与えてくれたのだと思います。あと何食分位この能力が持つかは分かりませんが、年を重ねるほどこの能力の大切さを実感できるようになったことだけは確かです。
若い頃は「美味しいもの=高価なもの」だと信じて疑いませんでした。しかし今は「幸せな気分で食事を終えられること」が私にとっての最高美味だと素直に思えるようになりました。自宅での食事と外食を同列視するのは少し乱暴かもしれませんが、求める満足感の質に変わりはないと考えております。外食も一食である以上は全能力をもって味わうのが自分に対しての、そして作ってくれた人と食材に対しての礼儀だということですね。
私の商売は飲食業ではありませんが、追求するホスピタリティには共通性があります。それは、帰り際に「また来たい」という感情が自然にわきあがるような充足感です。それがなければ良質なリピーターを確保することはできません。そのために必要な手順はまず、顧客の感動スイッチがどこにあるのかを知ること。あとはそのスイッチを押す技術のある従業員を育てること。書けば簡単ですが、実行はとても難しいことです。だからこそやりがいもあるのですが・・・
管理人 2007年08月07日 (火) 22時15分 No.168
ハマリ王さん、こんばんは。
美味しく味わう能力、ということは考えたこともありませんでした。確かにその通りですね。
自分の場合は、生きるために、”不味くても辛くても食う能力”を過剰に重視しているのかもしれません。食べられないものはありますが、この能力を鍛えたお陰で、一度も点滴のお世話になったことがなく、大病無く過ごしています。
美味しく味わう能力とは、グルメの能力かもしれませんが、そのような世俗的なものでなく、生きるため、と云えば納得できるものがあります。
追伸:サービス業と云えば私も同業に入ります。不特定多数が相手のサービス業ではないので異りますが、ホスピタリティは重視しています。
ハマリ王 2007年08月08日 (水) 16時43分 No.169
「不味くても辛くても食う能力」がまだおありになるとはうらやましい。きっと若き日の私にも満ち溢れていた能力なのでしょうが、最近はとんとお出ましにならないようです。美味しく食べる能力がその代償として現れたのか、あるいはもとからあったのに私が気づかなかっただけなのかはわかりませんが、これだけは何とか死ぬまで続いて欲しいものです。
この年になって初めて「美味いもの=高価なもの」ではないと実感できるようになりました。貧乏なので高級料理を食べる機会がなかったことが良かったのでしょうか?
管理人 2007年08月09日 (木) 21時36分 No.170
「不味くても辛くても食う能力」
「美味いものを美味いと感じる能力=食を楽しむ能力?」
はきっとどちらも必要なのでしょうね。ハマリ王さんは、恐らく私と殆ど同年代と思います。食えない給食を無理やり食わされた辛い経験もおありなのでしょうか。小学校のときは何と言っても給食が拷問でした。その後は社会全体が豊かになったので、食えないものが減ったのかもしれません。未だに嫌いで食えないものはいくつかありますが。
「美味いもの=高価なもの」ではない、という考えは以前からありました。今でもそう思います。「高価なもの=入手しづらいもの」ということでしょうか。しかし、丁寧に調理すればいずれにしても高価なものにはなりがちだと思います。
高価でも美味いと思えないものは多数あります。カネをかければ美味いものを食べられるのも大抵は確かだと思いますし、矛盾するようですが、美味いものは安いものに多いとも思います。例えば、水とか米とか...高価すぎるものは、お金があっても食べ続ける気はしません。
「高価だから有り難いわけではない」というのは事実だと思います。それよりも、高価でなくても食べられるほうが有りがたいと思います。
話しがずれてしまいました。