何といってもマーシーだ。昔から僕にとっては田代 まさしではない。マーシーは真島昌利こそマーシー である。中学校の頃、ブルーハーツに出会った衝撃 は今でも忘れない。詳しくは、ブルーハーツの項を 読み直して頂くとして、マーシーの歌詞は刺激的で、 尖ったナイフのように鋭利だった。そう、今ハイロ ウズにおいてはヒロトの『十四才』に代表される少 年性、純粋さがクローズ・アップされているが、あ る意味ブルーハーツはマーシーだったといっても過 言ではない。少なくとも僕にとっては、マーシーの ギター、血管がブチ切れそうな歌、そしてシニカル な歌詞こそがブルーハーツの肝であった。特にファ ースト、セカンド辺りは反戦的、衝動的なものに代 表されるところはマーシーの真骨頂ともいえる作品 が多かった。その中で僕が個人的に思い入れがある のはセカンド収録の『ラインを越えて』の「夕刊フ ジを読みながら老いぼれてくのはゴメンだ!」の一 節である。これは中学校の時に理科室の机に彫って あるのを発見し、凄いゾクゾクしてその日はもう実 験どころの騒ぎではなく、夕刊フジという親父アイ テムが固有名詞で飛び出したことへの衝撃と、老い ぼれていく事への反抗が血液を巡り体が固まってし まったのを昨日のように憶えている。
そんなマーシーはブルーハーツのレコード会社移籍 辺りからソロへの傾倒を見せていく。『夏のぬけが ら』『HAPPY SONGS』辺りは彼のメロウサイドとい うか叙景的な歌詞がブルーハーツとの線引きを明確 に表していたが、ブルーハーツ自体がファースト、 セカンドの衝動的なロックンロールから一歩退いた 立場としてのロックンロールを奏でだした頃、今度 は逆にマーシーの衝動的なロックサイドが顔を覗か せてきた。そんな折に出されたソロ3作目、『RAW LIFE』は時を越え21世紀になった今でも、ロック ンロールの名盤として尖った存在感を放っている。
マーシーの魅力といえば、何といっても前述した固 有名詞や特徴のある日本語を、巧みに駆使する点に 尽きる。そしてそんな日本語の全てが、彼にとって の=ロックンロールへの暗喩に他ならない。
「偉大なジェリー・リー・ルイス、殺し屋がニックネームだ 幻のバディ・ホリーがアパートでロックしてるぜ ぶっ飛んだリトル・リチャード 八方破れのシャウトだ ハウリング・ウルフが唸れば憂鬱も逃げていくだろう」 (RAW RIFE(reprise))
そしてハッキリと見えるロックへのリスペクトは、 「ロックを殺してはならない」という使命に燃える まるで十字軍のようである。(まぁ、後年ハイロウ ズ『スーパー・ソニック・ジェット・ボーイ』で結 局、ロックは死なない、死んだっていうならそれは ロックの勝手だろうという悟りに到達するのだが) このアルバムはそんなゴリゴリのロックンロールか ら始まり、中盤でお得意のメロウサイドに移行して いく。でも、『かしこい僕達』のように、ただのメ ロウに終わらないシニカルな視点が時代背景とマッ チしていて、いちいち最高である。
「かしこい僕達は 涙なんて知らない かしこい僕達は カラッポに生きていく」 (かしこい僕達)
そして終盤の『関係ねえよパワー』と『こんなもん じゃない』でクライマックスを迎える。一つはまさ にロックの亡霊に取り憑かれたマーシーという一人 のロックンローラーの人生論、そしてもう一つはか つて『チェインギャング』で、懺悔をくり返してき た男の今をそこに現出している。『チェインギャン グ』から数年経ち、ある程度の名誉や富を得てきた 彼だろうが、根本的な部分での枯渇、そのモヤモヤ を一言、「こんなもんじゃない」と何度もつぶやい てみせる。ここまで現在過去をさらけ出したロック ンロールアルバムには、なかなかお目にかかれるも のではない。
最初にも言ったようにハイロウズというのは、ヒロ トのピュアネスに視点が行きがちだが、マーシーの ピリピリした「こんなもんじゃない」な気持ちがあ る以上、いつまでもこのバンドの肝であるこの二人 の枯渇は終わらない。つまりはこの二人がいる以上、 ロックは死なない。ヒロトだけじゃない。マーシー も日本のロックの宝なのだ。
「いいかいボーズ、教えてやろう 上目使いでクライドが言う ブタの自由に慣れてはいけない もっと人は自由なのだ 百科事典を暗記してみても 俺は何にも知っちゃいない 知ったかぶりでいい気になって 心に風も吹きゃしない
こんなもんじゃない こんなもんじゃない こんなもんじゃない こんなもんじゃない こんなもんじゃない」 (こんなもんじゃない)
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