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メロディーズ伝言板

A Day In The Life

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[4396] 題名:疑問 名前:素人パンク百姓 MAIL URL 投稿日:2022年04月16日 (土) 17時42分

党派について考えて、さらに疑問が浮かびました。

1 戦争は、個人の人間関係を超えて殺すことになります。外国の友人同士が戦場で殺し合うなど悲惨な場面も想定できます。戦争は、党派の現れですか?

2 宗教の教祖、例えば、パウロでも、日蓮でも、モハメットでも自分の宗教教理には絶対的な確信を持ち、言動します、そして教団を作ります。こうした人類史に残るような強烈な宗教家の人々も当然、党派的な存在ですよね。
そうすると、宗教を信じれば、必ず党派的になりますか?あるいは、主義、自分なりの真理とか信じれば必ず党派的になりますか?


[4394] 題名:ウクライナ・ナショナリズム・悪魔崇拝 名前:AB MAIL URL 投稿日:2022年04月10日 (日) 22時02分

党派と同胞意識はちがう。そのくらい知っておくべきだ。
 党派とはイデオロギーを成立要件とする集団だ。保守とか、リヘラリズムとか、キリスト教とかコミュニズムとか。人種は関係ない。それも細分化して党派は形成される。保守派だって、親米と反米がいるらしい。おなじプロテスタントでも、ルター派とクェーカーではかなりちがう。

 こんなぼくにだって愛国心はある。日本の歴史文化を大切におもっている。それがぼくをつくってくれているのだから。
 だがそれと、イデオロギーとしての民族主義はぜんぜんべつものだ。三島由紀夫のような思想は大キライである。

 素人パンク百姓も、ちょっと三島に似ている。英語の語源をふりかざすところも。
 
「人を助けるのは、相手が同胞の一人と感じているからではないでしょうか。」

 ぼくはわが目を疑った、これが敬虔なキリスト教徒の言葉か、と。なにをいっているか、自分で解っているのだろうか。

 前回、溺れた中学生の話を書いたが、かれが日本人だから、山口県人だからたすけようとおもったのではない。ロシア人だろうと、中国人だろうと、ぼくはおなじ行動をとったろう。
 民族意識に特権性を付与するあらゆる思想にぼくは反対する。

 あの日、晴れわたった人気のない晩夏の砂浜で、救急隊が到着するまで、ぼくは溺死体となった中学生とふたりきりだった。なにごとも無かったかのように、日の光はふりそそぎ、風がそよいでいた。汗ばんだ右腕に虻がとまり、ほくを刺した。潮騒だけが低くひびいていた。
 
 ぼくは、日本人である前にひとりの人間だ。
 ところが素人パンク百姓は、人間である前に、日本人であり、ルター派であるらしい。だからぼくの言動を「不思議だと思う」
 しかもそれを自明の理としてすこしも疑うところがない。だから前回、党派性を語った。つまり、「テオフィロのアイロニー」だ。自己矛盾に悩まずにいられる要因がそこにある。

 素人パンク百姓はゼレンスキーさんに、なにか後ろ暗いところがあるのではないかと、あいかわらず小心な猜疑心をはたらかせているが、ぼくにはどうでもいい話だ。かりにゼレンスキーさんがそうだとしても、それをいうならプーチンさんは桁違いだ。引退後に住む「宮殿」は二百五十億円以上と推定され、五兆円を超える資産を隠している。数十年にわたって国家を私物化し敵対者を殺戮してきた。

 ゼレンスキーさんにもプーチンさんにも、それぞれの「正義」がある。ぼくは、ぼくの立場から、相対的にどちらに分があるか判断するだけだ。今回はウクライナを支持する。素人パンク百姓のように、そこに道徳的評価を性急にもちこもうとはおもわない。ぼくはプーチンさん同様、ゼレンスキーさんになんのおもいいれもないし、かれ個人の肩をもつつもりもない。
 ただし、ロシア軍の戦略攻撃だけは許しがたい。そのうえ組織的虐殺とは――。

 どの党派にも属さないことは、素人パンク百姓のいうように、不安定ではある。身を預ける場所はなく、ものごとの是非を独力で評価しなければならない。だが、どこに属そうとも、つまるところ人間は徹底的に孤独だとぼくはおもっている。 
 しかし友人もいて家族もいる。それでたくさんだ。

 素人パンク百姓とは、若い時分に何度も旅をした。なつかしく想いだされる。その間、いく度となく激論を交わしたものだ。ぜんぜん、いまとかわってない。それでもいまだに親友である。それでいい、イデオロギーや知的な相互理解など馬に食わしてやれ。そんなものは、人間において二義的なものにすぎない。
 
 素人パンク百姓はぼくのことを、あの「地下生活者」のように考えているとおもう。一杯のお茶が美味しく飲めるなら世界なんてどうなってもかまわない、という感じがたしかにぼくにはあることを、これでも多少は自覚している。だから坂口安吾にはちっとも似ていない。でもあこがれはある。

 安吾のすばらしさは、学生の時分、上村先生の父君に、夕食をご馳走になりながら教わった。素人パンク百姓のご両親、Kのご両親、高田や源田のご両親、みなさんにとてもお世話になった。素人パンク百姓の父上はとてもやさしい方だった。こうした想い出は、ぼくにとってどんなイデオロギーや愛国思想よりもはるかに大切なものだ。もしロシアや中国が攻めてきたら、それだけで自分の命をかけるに足る動機であるにそういない。それはナショナリズムはおろか、同胞意識ともいっさい関係はない。

 悪魔崇拝云々については、たとえキリスト教的観点からみても、独りよがりな清教徒の世迷言としかうけとれない。まして一般人からしたらまるでつきあい難く、まともに論ずるに値しない。だから前回スルーした。
「悪魔」は党派的歴史的存在者だ。党派の外には実在しない。

 そして最後に、イエスからも一言。

――外より人に入りて、人を穢しうるものなし。されど人より出ずるものは、これ人を汚すなり。

 すべてはこの言葉に尽きている。アーメン。
 


[4393] 題名:撮りたいものを撮れ、それがパンクだ 名前:素人パンク百姓 MAIL URL 投稿日:2022年04月10日 (日) 08時56分

パンクロックについて書いたら、新聞にハービー山口という人がジョーストラマーの写真を撮った記事が出ていた。
山口さんが1981年、ロンドンの地下鉄にいたら、ジョーストラマーがいた。写真家になりたい彼は、悩んだが、頼んで、写真を撮らせてもらった。その時、ジョーストラマーが言った言葉が、「撮りたいものは撮れ、それがパンクだ」。
その言葉に勇気をもらって、その後山口さんは有名な写真家になったそうだ。

https://former-cdn.cinra.net/uploads/img/interview/201712-watanabeyamaguchitanaka-photo7_l.jpg

考えてみると、「やりたいことをしろ」という言葉は欲望に従って生きるということではなく、使命感を持って生きろという意味に近い気がする。


[4392] 題名:私の影響を受けた音楽4〜セックスピストルズ・ネヴァーマインドボロックス 名前:素人パンク百姓 MAIL URL 投稿日:2022年04月08日 (金) 11時51分

ピストルズはある意味、最も影響を受けた。
当時は、ガツンとやられて音楽生活がパンク一色になった。それまでの音楽はだめ、ビートルズもディランも一時、聞かなくなったほどだ。
パンクから私が影響はどんなだったろう。
「言いたいことを言え」
「やりたいことをしろ」
「現実から逃げるな。現実に直面しろ」
「戦え。」
「自分一人でも戦え」
「お前が問題だ。お前がどうするかが問題だ」

当時、不安や憂鬱や自己嫌悪に苛まれた、高校生が「すげえ」と思ってガツンとやられた。

パンクがなければ、ギターをもって人前で歌おうとは思わなかっただろう。

私も年を取り、日本人だから和の和合生活の心地よさも知っているし、和の処世術もそれなりに身に着けたつもりだ。しかし、自分の人生を他人に売り渡すつもりもないし、納得できないことをするつもりもない。(多少の妥協はしますが)。嫌なものは嫌、やりたいことをしたい。そうでないと何のための自分の人生かと思う。
仕事も、宗教も、農作業も、音楽も、社会活動も、基本自分のしたいことをしている。そうでないと長続きしない。
そういう意味では、私は、今でも、一人のパンクだ。


[4391] 題名:感想 名前:素人パンク百姓 MAIL URL 投稿日:2022年04月03日 (日) 08時41分

私の初めの分に感想いただき、びっくりです。
半ば冗談で書いたので、真剣に取られて驚きました。

ただ、ABさんは、私から見ると正直、よくわからないと思っていたところがあるので、今回、いろいろ書いていただき、わかったところもあります。

若いころは、ABさんは坂口安吾みたいな人かなと思っていました。時間が立つと、生活環境から、やっぱりいわゆる「保守派」なのかと思ったりしていました。

勝手に党派色分け的な書き込みをして、すみません。

ちょっとわからないなと思ったのは、どこにも属さないなら、人のために自分の命を危険にさらす必要あるのかなと思いました。
これは批判ではなく、単に不思議だと思ったということです。

ウクライナ人が戦うのは、ウクライナという祖国を守りたいからでしょう。ウクライナ人は、ウクライナという祖国に属している。だからウクライナのために自分の命を危険に晒しても戦う。あるいは自分が家族・一族に属していて一族を守りたいから戦う。

大の虫を生かして、小の虫をを殺すという言い方がありますが、自分という小の虫を殺して、家族や祖国という大の虫を生かそうとする。

人を助けるのは、相手が同胞の一人と感じているからではないでしょうか。

英語でもKindnessという言葉は同胞意識ということではないでしょうか。

私は日本人が、独特な同胞意識をもっているように感じます。日本人は、腹を割って話せば、お互い共感できると感じており、だから日本人は立場が違っても、みんなお互い同胞だと心の底では感じているように見える。
日本人が外国人との交渉である外交が下手なのは、外国人が日本人のことを食い物にしようと計算しているのに、日本人は相手が話せば分かる同胞であるような楽観性(お人好し)をもっているからではないかと感じる場合があります。(それだけでなく、卑怯で自分のことしか考えていない日本人もいるでしょうが。また最近はそいういう日本人の同胞意識がだんだん崩れてきた来ますが。)

どこにも属していない人間が自分の命を捧げるかもしれないことは不思議に思いました。

私自身の体験でも、かつて、どこにも属していない感覚で生きていたと思われる時期があって、その時は、憂鬱、不安、恐怖が強く、他人のため命を捧げるなんて、考えることもしませんでした。あらゆることに関して懐疑的で命がけのような気持になれませんでした。


あと話は変わりますが、ゼレンスキー大統領は、どうなんでしょう。
あの立場では、「祖国を守れ!」というのは私はいいです。
それしかないとは思います。

しかし、私は彼に背後に、EUやNATOや欧米の資本家がいるように思えてなりません。
彼はユダヤ人だし、ユダヤ金融資本との関係はどうなのでしょう?


あと、繰り返しになりますが、別に真剣に「反教会派リベラリスト」なんて思ってないですよ。長年の友人に簡単にレッテル張り、して事足れり、とかないです。
ただ、思ったのは、宗教的には私と意見が違い、かつ、ちょっと坂口安吾みたいだなと思っただけ。



[4390] 題名: テオフィロのアイロニー 名前:AB MAIL URL 投稿日:2022年03月25日 (金) 22時57分

 ぼくはリベラルでも保守派でもない。周囲のひとたちはぼくを自民党員だとみなしていて、総裁選のときなどだれを支持するかさかんにきくので、適当に誤魔化す。

 ほくはいかなる党派にも属してない。少なくともそう望んでいる。それが素人パンク百姓との決定的なちがいだ。カン違いしては困るが、なにもそれがいいといっているわけじゃない。むしろどこも受け入れてくれなかったのだ。ロックと文学がぼくをそういうふうに導いた。

 たまたま見かけたんだが、玉川徹という人が、テレビ番組で、ゼレンスキーさんは一刻も早くロシアに降伏すべきだといっていた。時間がたつほど戦死者がふえる。政治家は国民の生命を守るのが本分であり、主権や自主独立の理念など生命と引き換えにするほどの重みはない、と。
「命を守ること以上に大切なことは果たしてありますか」

 ぼくはこの発言に違和感をおぼえた。ぼくが「保守派」だからではない。生命維持以上の価値はないという「リベラル」なひとの確信のもちかたに疑問をもっただけだ。

 どこの党派にも属さないというのは、ある一定の集団が確信として抱いている自明の理を疑うということである。そしてそれを推し進めてゆくと、結局は、自分を疑うということになる。ぼくも特定の時代の水平線上に存在しているのであって、ソクラテスではなく玉川徹氏の近親であることは火を見るより明らかな事だ。なので、三島由紀夫のように生命上の価値があると軽々に反撃する気にはなれない。
 違和感の正体をつきとめようとすると、自分の立っている地盤を掘り崩してみることになる。

 玉川氏が声を大にしてした主張は、これにだれも反論しうるはずがないという予断にもとづいているので、それが現代社会を支える理念の枠組みに準拠していることを示している。こうした理念は、ルネッサンス以降のヨーロッパを起源とし、徐々にかたちづくられてきたものだ。それは文明開化からわが国に移植され、とりわけ敗戦によってふかく定着し、日本の伝統的価値観と習合しながら今日にいたっているとおもわれる。

 そういう近代精神史についての詳細は、ウェーバーやテイラーの立派な研究があるので、興味ある方はどうぞ。
 めちゃくちゃ端折っていうと、命より大切なものはないという確信は、中世の神学的世界観にかわるものとしてあらわれた「自然法」の理念を起源とする。そこからロックやルソーの社会契約説などもうみだされた。
 そこでは国家は市民の安心安全を確保することが最高価値として想定されたのである。しかもそれがしだいに社会秩序を支える「道徳」として通用してゆく。

 もうひとつ、ウェーバーもテイラーも、宗教改革とピューリタニズムを大きな要因としてあげている。
 中世においては聖と俗は分離され、イエスの教えに従って生きうるのは事実上、修道院に暮らす聖職者だけであるとみなされていた。ところがプロテスタントは、とりわけアングロサクソン系のピューリタンは、本当の回心はそういう世俗と隔離された場所ではなく、職業をベースとした秩序だった社会生活においてこそなされると主張した。説教師ヒエロンは、「怠惰な人間の頭はたちまち悪魔の仕事場になる」といった。仕事に精をだせば悪魔は退散するというのだ。

 そういうところから現在のアメリカ的価値観は生じた。質素倹約美徳とするいっぽうで、経済活動への異常な執着。しかしそれは神への奉仕であり、そこから得られた富は神がくだされた賜物。バイブルベルトの連中はそういう世界観の延長線上にうみだされた勢力である。みずからのエゴイズムを合理化し、信仰にかなうものだとみなしている。極端にいうと、秩序を維持し職業を通じて経済活動で成果を上げれば、自余の罪は贖える。だから、トランプさんを支持する。
 ぼくが個人的に知っている日本のプロテスタントたちは、なんとなくバイブルベルトの人びとに親近感を抱いているが、じっさいは両者のメンタリティにはとほうもない落差がある。

 そうした個人主義的エゴイズムにもとづいていたから、米国はもともと孤立主義をとり、独立以来、自国の経済的発展に専心してきた。世界の警察の活動は第二次世界大戦以降のたかだか七十年間にすぎない。なんでも商取引だと考えるトランプさんの登場も、かつての「古き良きアメリカ」にたいする郷愁がもたらしたものかもしれない。すくなくとも米国は徐々に孤立主義へと戻りつつある。

「安全」を最高価値とする現代の枠組みは、自然法とプロテスタンティズムから生じ、多様なかたちで世界に拡散した。玉川徹氏は自分のリベラリズムの本質が個人主義的エゴイズムであることに気づいてないようだ。


 高校一年生の夏、こういうことがあった。
 ぼくはビーチに寝そべって「族長の秋」を読んでいた。そこに中学生とおもわれる男の子がふたり、あわてて駆けてきた。
「お兄ちゃん、友達が溺れてるんだ、助けて!」
 一瞬、ぼくはやばいとおもった。抱きつかれてぼくも死ぬかもしれない。ちょっとまえに、そういう記事を新聞で読んだのだ。
 しかしぼくは海に入って行った。べつに崇高な意志にもとづいたわけじゃない。たんに、そうすべきだとおもったからだ。迷っている余裕すらなかった。泳いでさがしていると、男の子が意識不明で浮かんでいた。砂浜に引き上げてみると心肺停止していた。人工呼吸を必死にこころみたが、ついに蘇生しなかった。
 
 生命維持が最高価値であるとすれば、ぼくはどうすべきだったのだろう。ただ、あのとき自分の生命維持を優先して「勇気ある撤退」をしていたら、ぼくは一生後悔するはめになったろう。

 ゼレンスキー大統領にしても被害者をふやそうとして戦争を継続しているのではない。その反対に、ウクライナ人を危機から救うために努力している。そういう不確定の未来にむかう行為者にたいして、その途中経過のデータだけをみて他者が批判することに、いったいなにほどの意味があるのだろう。もしロシア軍が北方領土を超えて北海道に侵入してきたとき、玉川さんは同じことをいえる覚悟をもって発言しているのか。命さえあれば、ロシア語が公用語となり、日本文化が破壊されてもたいした問題ではないのか。
 そしてもっと悪いことに、玉川氏の論理は、結局、人の死を一つの小宇宙の終焉ではなく、数の論理に還元してしまう。

 こういうことをもし玉川さんにぶつけたとしたら、かれはいうだろう。

――ははあ、君はタカ派なんだね。

 党派人はかならず、そういう。つまりぼくの言葉の意味を吟味する気ははなから、ない。党派のスイッチが入ると、こいつはべつの党派だという判断がすべてに優先する。それは「敵か友か」という二分法であり、その本質は政治主義である。
 どんな課題でも、あらかじめ答えを決めてクロスワードパズルをとくようなもので、途中の不具合には目をつぶるのである。すべてはあらかじめ与えられている解答に合わせて解釈される。不都合な事実は無視する。偶然だとか、特殊なケースとして処理される。しかもそれは無意識に自動的になされる。建設的な議論は成立しない。

 それが党派人である。

 そういうぼくも、知らず知らずに、なんらかの党派に属しているのかもしれない。素人パンク百姓はぼくを、「良きサマリア人」ではなく、反教会派リベラリストとみなしているようだ。アーメン。


[4389] 題名:感想 名前:素人パンク百姓 MAIL URL 投稿日:2022年03月23日 (水) 08時56分

ABさんへ感想を書きます。
ABさんは、保守派なのかと思ったら、すごいリベラルですね。

何か私、魔女狩りしている人に見られているようですね。
自分の正義で他者を糾弾するような人間に。

そこまでではないと感じますが、お前は中途半端だと言われた気になりました。

ロックがキリスト教的な面のある音楽だったということは半分はわかります。解放の音楽、自由の音楽、愛と平和の音楽という面があり、それが世俗的キリスト教的なものだったことはわかります。

思ったのは、キリスト教否定=悪魔崇拝ではないということです。
ジョンレノンはキリスト教を否定した、しかし、それは真実を真剣に求めるゆえだった。(ギミサムトゥルース)。これは悪魔崇拝とは正反対の態度です。私の知る限りジョンレノンが悪魔崇拝的な歌を書いてないです。

世俗的キリスト教というなら、今ある、基本的人権、憲法、民主主義、普通選挙の参政権、言論などの自由、社会福祉、国民皆保険の健康保険、労働組合なども世俗化したキリスト教的なものかもしれません。そうしたものとロックは同根かもしれません。

しかし、ロックは基本的に「神なし」です。無神論ヒューマニズムです。神なしで愛と平和の世界が作れるという思想だと思います。だからその面はキリスト教的ではないと思います。

私は、自分自身が、神なしでは、喜び勇んで地獄に飛び込むような人間だと思っており、人間全般が、そうしたものではないかと推測します。「地獄ぞ一定すみかぞかし」
神なしの愛と平和は危険な結末を迎えると思ったりしています。

また前回書いたように、すべてではないですが、ロックに悪魔崇拝の面があったことも事実です。

あと、現代の悪魔崇拝が弱毒化しているか、どうかは簡単に決められないと思います。
殺人儀式だって、見えないところで行われている可能性だって、ありうると考えます。

ペイジは殺人儀式はしていないでしょうが、ペイジの悪魔崇拝をファッションと簡単に言い切れるかどうか、疑問です。

「偽りて賢を学ばば、賢なり」です。ファッションに、本気が取りつくこともあるかもしれません。

私は、悪魔崇拝は、広く深く長く社会に影響があるものだと最近は考えております。
「私(悪魔)を崇拝するなら、この世の栄華を与えよう。私に委ねられているのだから」(ルカ福音書)

そうした前提がABさんと決定的に違うと思うし、その溝を埋めることは不可能だと思っております。この件についてこれ以上は書かないことにします。これで終わりです。

ホーソンについては機会があれば読みたいと思います。興味深いです。
ピューリタンの陰で悪魔崇拝があったことを初めて知りました。



[4388] 題名:ザ・ビートルズ GET BACK ルーフトップライブ 名前:AB MAIL URL 投稿日:2022年03月19日 (土) 14時23分

だけ、ノーカットで見た。3曲の別テイクは初めてだ。
スタジオテイクもあるのに、ルーフトップのテイクがすべて採用されていることからも解るように、集中力のあるライブだとぼくもおもう。
音も映像も更新されている。ワイドになって劇場版にあった見切れカットがなくなった。
ジョージのギターやプレストンのエレピもよく聞こえる。

おそらくビートルズライブ史上もっとも派手なアクションで演奏を楽しんでいる。
とくにone after909なんて、あのノリをだすにはバンドアンサンブルがかなりハイレベルでないと無理だろう。


[4387] 題名:ロックとビートルズ 名前:高田 MAIL URL 投稿日:2022年03月17日 (木) 17時00分

松村さん、病状が悪化し、原稿が書けなくなった時も『ザ・ビートルズ GET BACK』は見れたそうです。人ごとながら、そこは間に合ってよかったなと。僕はディズニープラス入ってないんで未見ですが、音だけ聴くと、はじめはノリが悪くても、だんだんグルーヴが出てきて、ビートルズってすごいんだなという、いまさらながらというかなんというか、そんな感じでした。

ロックバンドが役割を終えたっていうのはもう2000年入ってからだけど、誰かがこの状況を「ビートルズから始まったロックバンド幻想が40年かけてやっと終わった」って言ってて、要はロックだけが突出して注目された時代が逆に異常だったのでは?ってことみたいです。実際、若いロックバンドも出てきてるけど、不満や怒りや悲しみや反抗とか自由とかはヒップホップやR&Bでも歌われてるし、構造の変化はあっても、通底するものは60年代から変わってないんじゃないかという気がしたので、久々に書き込んでみました


[4386] 題名:松村雄策氏死去 名前:素人パンク百姓 MAIL URL 投稿日:2022年03月16日 (水) 09時24分

また一人、ロック時代を生きた人が亡くなったなあと思った。
高校生の頃ロッキングオンで、渋松対談を読んで楽しんでいた。
LP「プライベートアイ」も買った。

ロックは、愛と平和、自由と民主主義の音楽だと思う。
現代、当時のような愛と平和みたいなことは言えないだろう。
私は、もうすぐ改憲の緊急事態条項が入れば、自由と民主主義もなくなるのではと危惧している。
ロックは過ぎ去ろうとしている気がする。

年も取ったし、最近、ロックを回顧している。
そんな中で松村さんが去ってしまった。




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