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メロディーズ伝言板

A Day In The Life

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[4355] 題名:ダニーガットンモデル 名前:AB MAIL URL 投稿日:2021年06月06日 (日) 23時16分

そうなんだ。あのタブルレイルが気に入らなかったんだ。
ダニーガットンはいい音してるんだが。
結局、ぜんぜんダニーガットンモデルではなくなってしまった。
でも改造がうまくいってバランスよくなった。
とくにネックがぼくの手にしっくりるんだ。
微妙なレリックぐあいも気に入っている。

1959モデルって、スティーブクロッパーとおなじやつだな。
ぼくもほしかったんだが、出会いがない。
Vintage 52 って、ブラックガードかな。ジュリアンラージのやつ。
これもまえから欲しいんだが、もってない。
もうこれ以上ギターは増やさない方針だが、ブラックガードはべつ。

ジャズはたいへん。
スティーリー・ダンを練習してたが、コードチェンジの速さと複雑さにまいった。
ソロより、バッキングがむずかしい。

だいいち、自分がそういうジャズの曲かけないしな。
ぼくは自分がつくる曲に必要な技術が身につけばそれでいい。

DonaldFagenのインタビュー読んだら、AJAのセッションにマークノップラーを呼んだときのエピソードで、ノップラーがけちょんけちょんに言われていた。
あんな複雑な進行とテンションの曲で、いきなりソロを弾けといわれても、
ロックギタリストには酷だとおもう。


[4354] 題名:ひさしぶり 名前:K MAIL URL 投稿日:2021年06月05日 (土) 16時32分

ABさんひしさぶり
馬鹿にはしてないよ、自慢しただけで(笑)
ダニーガットンモデル良さそうだね。もっとも、ダニーガットンモデルってハムバッキン風のピックアップが特徴じゃなかったっけ。

私は、素人パンクは百姓さんとテレキャス談義をしたのちも、テレキャスにはまり続け、とうとうカスタムショップの1959モデル(白、ローズネック)を入手した。とても美しい音で気に入っている。とても軽い(2.9s位)ところもgood。
最初に買ったFENDER JAPANのテレキャスもこれに少しでも近づけようと思って、ピックアップを変えてみたが結果は芳しくなかった。
その後、王道的なテレキャスも弾いてみたくなり、Fender American Vintage 52 Telecasterの中古(2007年頃製)を入手した。非常に音が太く、つやもありとても良い音で、これも気に入った。しかし、音の色気というか深みというか微妙なところで1959モデルにはかなわない。なので、ほとんど1959モデルばかり弾いている。

ここのところジャズギターに挑戦しているのだが、全く弾けるようにならなくてとても悲しい今日このごろ(泣)。


[4353] 題名:ひさしぶり 名前:AB MAIL URL 投稿日:2021年05月30日 (日) 23時33分

10年ぶりくらいか。

ひまなので、40年ぶりに「カラマーゾフの兄弟」を読んだ。
あのころの小説は時間が進むのが遅くて、イライラする。
学生のときはイワンに感情移入したが、いまもかわらずがっかりした。
アリョーシャは私にはやはり遠い。イワンとアリョーシャの関係性は、私と素人パンク百姓とパラレルな感じだ、と今回おもった。
かれは私にとってのアリョーシャだと気づいたのだ。
そういえば、いつも「大審問官」のような話をして、怒りをかっている。

 テレキャスをまいにち弾いている。もう10本くらいもっている。
いま、いちばん気に入っているのは、ダニーガットンモデルなんだが、ビルローレンスのピックアップがキライで、ダンカンにつけかえた。しかし、フロントのザクリがでかいのでテレキャスのPUが合わず、手持ちのSSL-2か、5か、要するにストラトのフロントPUをつけている。音は当然ストラトよりになった。
ボディーはたぶん、アルダー。色はフィエスタレッド。ニトロセルロースラッカー仕上げ。
ネックはメイプル。ローズウッドのが弾きやすいんだが、はじめからこのネックがついてたんで、そのまま。悪くない。
チューニングが合うように段差のある三連サドルがついてて、ハイパスのコンデンサは取り外した。

 おれも、リトルウィングのイントロれんしゅうしたぜ。
メイヤー版の、Bold as Loveも。
やってることはおんなじだな。
BluesBrakersの Hideawayをハードコピーしたと自慢したら、
Kに、おれなんか学生時代に全部やったと馬鹿にされた今日このごろ。


[4352] 題名:女性の結婚2 名前:素人パンク百姓 MAIL URL 投稿日:2021年02月25日 (木) 09時46分

小津安二郎の麦秋を見ました。
まあ、おもしろかった。

そういえば、最近、秋篠宮がお子様の結婚について「両性の合意に基づく」という言葉を使ったのを知りました。
興味深かったです。皇室は、表現の自由とか、集会の自由とか、結社の自由とか、投票の自由とは、かなり制限され、基本的人権はあるのだろうかと思います。その方が、憲法の「結婚は両性の合意に基づく」を使っていて、考えさせられるものがありました。
よく考えると、秋篠宮のご家族のご様子は、小津映画の、彼岸花や麦秋を思い出させます。小津映画は令和でも生きているのだと思いました。


[4351] 題名:女性の結婚 名前:素人パンク百姓 MAIL URL 投稿日:2021年02月01日 (月) 08時43分

小津安二郎の彼岸花を久しぶりに見ました。
昔は、娘と父親の思いのすれ違い描いた、ほのぼのとした話みたいに見ていたけど、今見るとかなり違う印象でした。
これは日本の家父長制度と女性の人権と自由の対立という重い社会的なテーマが家庭に反映していることを描いた映画だったのだと思いました。
日本は家父長制の国だったのです。家長が支配していたのです。その家父長制の国に、戦争に負けて、自由と人権が注入されたのです。
「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し」この日本国憲法の言葉が、日本の家父長制の家庭に注ぎ込まれたのです。それで彼岸花のような話になるのだと思いました。

こんな感想を持ったのは最近、「冬の蕾・ベアンテシロタと女性の権利」(樹村みのり)という漫画を読んだからかもしれません。これはシロタという日本で育った白人ユダヤ人女性が日本国憲法の女性の権利の条文の草案を作る話です。この女性が「婚姻は両性の合意のみで成立」という文案を作ったのです。
女性の結婚についてこうした努力があったのかと思いました。

家父長制を社会全体に広げて、別の言い方をすれば、身分社会とも言えます。
私は、最近、戦後にも身分社会はあったと感じます。彼岸花にも身分社会(結婚と家柄)の話が出てきました。
今、身分社会がグローバリズムの影響で剝き出しになっている感じがします。これからもっと強烈な身分社会になりそうです。


[4350] 題名:カミューのペストを読みました 名前:素人パンク百姓 MAIL URL 投稿日:2020年10月17日 (土) 08時50分

カミューのペストを読みました。

流行りなので、カミューのペストを読みました。コロナを怖がらせる流行りにのるのも悔しいですが、カミューは前から読んでおきたいと思ったので、これを機会に読みました。

現実の日本と比べて驚いたのは、閉鎖された町で、劇場も映画館もカフェも営業していて、繁盛していることでした。伝染病があっても市民は普通の生活をして、楽しんで当たり前だし、規制なんてするつもりは全くない。三密防止なんて、全く頭にないのです。衛生に慎重な日本と違うなと思いました。現在の欧米でも、結構、自由に生活を楽しんでいる人たち、楽しんで当たり前と思う人たちが多いのかもしれません。

作品全体としては、私とは肌が合わないという印象が強いです。
それはカミューが無神論だからだと思いました。カミューは聖書もキリスト教も教会もよく知っている。知識としても、生活実感としても知っている。そのうえで神も聖書もキリストも拒否するのです。徹底した無神論です。その無神論者の雰囲気、救いのない、殺伐とした雰囲気が私の肌に合いません。
例えば、漱石は信仰者ではなかったですが、救いを希求する気持ちがありました。カミューは救いを拒否し、それがないことを前提で生きています。その感覚からくる雰囲気が性に合いません。

でもカミューは常識的な当たり前な感覚を持っています。例えばカフカを読むと、この人の孤独感は普通じゃないと感じます。ドストエフスキーを読むと、何で狂人ばっかりでてくるんだ?と思います。カミューは、夫婦、友情、人間の相互理解などに普通の感覚を持っています。そこは理解できます。
しかし根本は無神論であり、無神論的な殺伐とした雰囲気が作品全体を覆っています。

パルヌーという神父さんが出てきて、2回目の説教で、罪のない子供の死の不条理について話をします。この説教は納得できない話です。
これは明らかにドストエフスキーのイワンの児童虐待の話に影響を受けています。「将来の理想の世界の完成に無垢の子供の涙が必要ならその入場券をお返しする」という話です。
児童虐待の問題は地上での理論的な面でも解決は不可能と思います。来世や転生を視野に入れなければ、理論的に解決はできないと思います。
神に反抗するイワンがそう言うのは一つの意見としてありえます。しかし、キリスト教の聖職者のパルヌーがそれを言うのはおかしい。
まるで、キリスト教がカミューの不条理の哲学に屈したようです。違和感を覚えました。



「また、自然なものは病菌なのだ、清浄とは意志の結果で、その意志をゆるめてはならない」とタルーという人物は言います。
この意見も納得できませんでした。
私は意志の重要さを感じます。意志を持って努力することは人間の大切な営みと思います。
しかし、自然はすべて病菌でしょうか?日本人は自然を尊びます。聖書も「神はこの世界を見て良いといわれた」「野の花を見よ」などの言葉から見て、自然を悪とはとらえません。
自然には病菌、腐敗という面はたしかにあります。しかし、生命、成長、実りなども面もあります。自然はいろいろな矛盾した面を抱えながら、人間の意志とは別の価値や体系で、我々の前にあります。自然なものは病菌と断言しては、自然の良い面や理解できない面を無視することになります。
カミューは自然から取れた魚や小麦を食べないのでしょうか?それを病菌として排除するのでしょうか?
またペスト菌自体にも両面がある。
私はある医療関係者に「病菌は、殺傷能力がそのうち低める。そうしないと宿主である人間が全滅して自分たちの生きる場所がなくなるから。(コロナはもう以前ほど危険ではない)」という話を聞きました。ペスト菌にも人間を殺す面と共存する面との両面がある。だから、ペストは収まったのです。最後にペストの殺傷能力が弱まり、街が解放されます。
それは人力でペストを全滅させたからではない。ペスト菌が自然の力で殺傷力を弱めたからです。

あと、ペストには世界的な陰謀の想定はありません。実はペスト流行はある狂的な集団が科学者を使って流行らせた、人体実験だったかも?という想定はありません。
ドストエフスキーはイワンの大審問官の話の後で、フリーメイソン、イエズス会などをちらっと出し、陰謀論へ一瞥します。

まあ、読んでみて、自分が子供の時に流行って、すごいんだろうなあと思っていた実存主義とはこういう考えかと大人になって自分なりに思いました。



[4349] 題名:漱石の明暗 名前:素人パンク百姓 MAIL URL 投稿日:2020年10月03日 (土) 10時23分

夏目漱石の明暗を読み終わったら、なぜか、明暗の最後の場面に出てくる旅館の場所に行った。行くつもりではなかったが、行ったら、そこでした。漱石が書けなかった、最後の場面にでていく、行こうという話の瀧も見てきました。

感慨深かったです。

それで、いくつかインターネットで調べたら、大岡昇平が、未完の明暗は、その後、主人公が昔の恋人(人妻)の清子と不倫して、清子かお延(主人公の妻)が自殺する話ではないかと推測している書いているのを読みました。

それは違うのでは思いました。

明暗は、漱石が治療と回復の物語として書こうとしたと思います。
それは、最初の場面からもわかります。主人公は痔の手術を受け、直さねばならないという話を医師から聞きます。その後、その治療が話の大きな枠組みです。つまり、漱石は、この明暗を、治療と回復の物語として設定したのです。
漱石は、肉体の病と並行して、精神の病(主人公の昔の恋人への未練と三角関係)が癒される話にしたかったのだと思います。

それは最後の昔の恋人清子と会う場面からも、伺えます。
場面の場所は、湯治場です。湯治場は日本人にとって、癒しと回復の場です。
清子は、流産の回復のために湯治場に来たとはっきり書いてあります。また、主人公が来たのも、表向きは、体の治療と回復のためで、真の目的は精神の治療(三角関係の清算)のためです。

漱石は、聖書からの言葉や話を取り入れて、自分の作品に組み込むことをする作家です。
例えば、夢十夜の十夜は新約聖書のレギオンの豚のエピソードが下敷きになっています。また三四郎のストレイシープもそうでしょう。

入浴というについて、おそらく漱石は聖書のバプテスマ(洗礼)を頭に浮かべていたと私は考えます。バプテスマは死と復活の象徴です。治療と回復の象徴と言ってもいいでしょう。
それを明示するかのように、最後の場面で、主人公は、清子に「生きている癖に生まれ変わる人がいる」と話します。

また、主人公は、清子の出すリンゴに手を出しません。それも聖書的です。それはアダムとイブの知恵の実の挿話が下敷きでしょう。つまり女性の誘惑にのらないということでしょう。

また清子という名前も、不倫のような穢れたことはしないということを示しているように読めます。妻の、お延は、ずっと主人公を愛し続ける女性と位置付けられているように思えます。

また他の漱石の作品たちから見ても、ヒロインの自殺はないと思います。
漱石は、三角関係の悲劇をさんざん書きました。しかし一つとして同じ結末はないのです。「それから」では、不倫と略奪婚を描き、「門」ではその結末の地味でみじめな人生を描きました。「行人」では狂気と宗教的救いの可能性を描き、「こころ」では自殺を描きました。「こころ」で描いた自殺を、再度、描くとは思えません。
その後の「道草」では自分の精神に分析の刃を向け、彼は、自分の問題の根本を直視しました。
問題の根本を見つめた人間が次に描くのは、治療と回復の物語でしょう。

三角関係の悲劇を描き続けた漱石は、ついに回復の物語を書けるようになったのでしょう。彼は嬉しかったでしょう。ついに出口が見つかったのです。解決と平和への道が開かれてきたのです。

しかし、彼自身には病魔が襲いました。
彼は「今死んじゃ困る」といったそうです。
そうでしょう。ようやく、治療と回復の物語を書けるようになり、それを書く寸前に死んでは、困る。ここまで来たんだ。治療と回復を書きたい。「今、死んじゃ困る」。彼は無念だったでしょう。治療と回復の物語を書こうとした自分が、死を迎えるなんて、おかしい、困る、無念だ、そんな彼の言葉が聞こえるようです。

次の場面の舞台になる、瀧を見ました。
彼がここでどんな物語を書こうとしたのか、どんな死と復活の物語、治療と回復の物語を書こうとしたのか。そんなことを思いながら、私は瀧を見つめました。


[4348] 題名:ディラン 名前:素人パンク百姓 MAIL URL 投稿日:2020年09月23日 (水) 21時46分

ディランの「シャドウインザナイト」を聞いた。
最近のディランは、もう絶望にも麻痺したような感覚なのだろう。そうした虚無、絶望、不感症の彼の声が、ちょうど古いアメリカのポップスの甘みのあるしっかりた音に包まれて、ちょうどいいほろ苦さを感じさせる。

彼が、こんな絶望にも麻痺した虚無になってしまったのかといえば、若いころに、悪魔に魂を売ったからだと思う。私がそんな気違いじみた推測しているのではない。ディラン自身がそう言っている。

ノーダイレクションホームで、無名だった彼が有名になるまえに、「悪魔と取引きして、一夜にして変わったんだ」と言っている。
こんなバカげたことを言うのは、私ではない、ディラン自身だ。

彼はゴスペル3部作でキリスト教の救いの素晴らしさを体験し、それを歌った。そして聖書とキリストこそが真実だと知った。

しかし、悪魔が、自分に魂を売った人間が、キリストの信者になり、救いを宣べ伝え歌うことを許すわけがない。
そこからある意味彼は魂を売ることの本当の恐ろしさを知ったのだろう。そこから彼の本当の苦悩と人生が始まったといえる。

彼は最終的に悪魔を選んだ。名誉と地位、才能、金を選んだ。
トゥゲザースルーザライフというCDにマイワイフズホームタウンという曲があり、「ヘルイズマイワイフズホームタウン」と彼は歌う。悪魔と生涯を通じて一緒だったというわけだ。
ノーベル賞ももらった。

「自分は死後地獄に行き、永遠に悪魔と一緒だ。」彼の絶望にも麻痺したような虚無はそれが原因だと思う。

シャドウインザナイトの1曲目、アイムフールトゥワントユウで「あなたを求める私はなんて愚か者、でもあなたなしでは生きられない」と歌う。それは今の彼の切実な気持ちだろう。

最近、最も卑劣な殺人が大ヒットしているらしい。聞いたけど、アメリカの挽歌、アメリカの弔いの歌みたいだ。ディランの絶望とアメリカの絶望が重なる。

急に思い出したけど、悪魔に騙された人物といえばマクベスがいるけど、その中に、こんな詩がある。

「時は来たり、時は去り、数えられる最後の一分まで過ぎ去ってしまう。昨日という日は、愚か者どもが土にかえりゆく道を照らしているのだ。きえろ、きえろ、つかの間の灯、哀れな役者ども。わめいてみたり、見栄をきったり、とどのつまり消えてしまう。重度知的障がい者のざわめき同様、何の意味もない」

ディランはテンペストを出したし、ノーベル賞の時もシェイクスピアの話が出たりして、シェイクスピアが好きなのだろうし、上記の詩は身につまされて読むだろう。
「見栄を切る、哀れな役者ども」。
卑劣な殺人で後半に、歌のタイトルがたくさん出てくるけど、マクベスの詩を思い出して書いたように感じた。


[4347] 題名:ホットツナ 名前:素人パンク百姓 MAIL URL 投稿日:2020年09月03日 (木) 22時34分

最近、アメリカのバンドの音を聞いた、ホットツナとリトルフィート。
ホットツナは私はアメリカンチョイスというLPが好きだった。一時期、そればかり聞いていた。でも他のLPは聞かなかった。
アメリカンチョイスよりつまらなそうに思えた。

今回聞いてリーダーのヨーマカウコネンは何系の人か気になった。
先住民?アジア系?
普通の白人の名前ではない。白人でないミュージシャンの苦労も考えた。
ヨーマカウコネンは日本人はほとんど人が知らないだろうけど、ローリングストーン誌の2003年ギタリストランキングで54位だ。リッチーブラックモアが55位なので、アメリカではそれなりに有名な人なんだろうかと思った。
今回、バーガースとホップコーブスというのを聞いた。
バーガースはアコースティックでアメリカの伝統音楽をやっている曲が多い。ホップコーブスはほとんどハードロックだった。

アメリカの土着音楽からエレキのハードロックという流れは、ある意味、ロックの王道だと思う。
このポップコーブを出した1976年にホットツナは解散している。このポップコーブの解説を読むと1976年は重要な年だと書いてあった。
ザ・バンドの解散、イーグルスのホテルカリフォルニア、セックスピストルズのデビュー。
私は、なるほどと思った。
私は、それにジョンレノンの長期活動停止とボブディランのキリスト教洗礼を加えたい。
つまり1976年から1977年は、人間が愛と平和の世界を実現できるという空想、ヒッピー的なロック、ウッドストック的精神が死んだ時代なのだろう。
ホットツナはそれと同時に解散した。見た目から言って、ホットツナはヒッピーだ。ヒッピー的ロックの衰退とともに、引退したのだ。ジョニーロットンが「ロックは死んだ」といったとき、ロックバンドしている人がなんで、そんなこというのか?と思った。
でもそれはヒッピー的ロックが死んだということなんだと今思う。
つまり、ジョニーロットンは「ホットツナは死んだ」といったのだ。

その後に私は、ストーンズのブルーアンドロンサム、ディランのシャドウインザナイトも聞いた。次回感想を書く。


[4346] 題名:エレキギター&ギタリスト 名前:素人パンク百姓 MAIL URL 投稿日:2020年07月01日 (水) 09時28分

見ていただき幸いです。
やっぱり、ジャズ弾いても、パンクのリズムですかね。
まあ、こんな感じで、ジャズスタンダード、昔の歌謡曲、戦前歌謡、洋楽、クリスマスソングなどバックとメロディーを両方弾く練習をしました。

アンプの違いもあるんですね。(ご紹介サイトでチューブアンプというのが真空管ですよね)
普通のアンプでは、弾いた時のタイムラグがあるんですね。
NOアンプで生音ならタイムラグはなさそうな感じもします。
でもきっと真空管アンプはきっと音がいいんですね。

私もジェフベックを一番聞いています。
一時期、ブロウバイブロウ、ワイヤードにすごくはまって、そればかり聞いていた時期があって、その時、他のベックも聞いてみました。どの曲を弾いても透明感があってベックサウンドですね。動画見ると、アームやボリューム・トーンつまみを多用して、神経のいき届いた演奏だと思います。

ジミヘンのご意見ありがとうございます。
ジミヘンは最近聞き直していますが、私もリトルウィングやエンジェルみたいなバラード好きです。あとファイヤーとかクロスタウントラフィックとか、ポップな曲も好き。

でも彼を聞くと、得体の知れない感じがある。どの曲も得体の知れなさがある。
ブードゥーチャイルという13分のブルースセッション曲なんか、ブルースというより、ブルースの皮を被った得体の知れない音楽と感じました。
彼には表現と表現したかったことにギャップがあるように感じます。Kさんの言う通り、あんなにギターを自由自在に弾けるのに、彼は、本当に表現したいことが表現できないみたいな気持ちがあったのではないかと思いました。
音楽創造の不安、緊張感、悶えがあって、それが聞いていると、息苦しくなることがあります。

ギター演奏の自由自在さが別格なのかな?

クラプトンは私もあまり聞かなかったですね。
安息の地を求めてとアンプラグドくらい。
クリームはそこそこ聞いたかも。

ブルースブレーカーズのコピー、すごいですね。
ピストルズやクラッシュのコードばかり弾いてた私と違う。
ギタリストだ!




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