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(499) 好きこそものの上手なれ |
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投稿者:工藤順一
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前回のみなさんのご期待を裏切るようで申し訳ありませんが、どんなに考えて見ても、テストの点数とか成績なんて、よいに越したことはないという程度のことであり、本質的にはどうでもいいと私は思っています。
その理由はいくつも挙げられます
@、この時期に大切なことは、評価ではなく、読み書きの体験そのものだからです。読み書きの初心者にテストしてもほとんど意味はありません。一冊の本をむさぼり読むこと、あるいは、たよりなげに文章を書いていく、その経験そのものとか、その習熟が大切なときに、その行為にどう成績をつけよというのでしょうか。あるのは「はげまし」という評価であり、この場合の評価とは「はげます」こと以外ではありません。
A長い間、そのテスト作りをし、評価にたずさわった経験から、テストの作り方や配点ひとつで同じ生徒が「できる子」にも「できない子」にもなってしまうということを私は骨の髄まで知っているからです。
B点数で示された成績のその数字なんか何も意味をもっていないからです。85点の得点と100点の得点にどんな有意味な差があるというのでしょう。漢字や計算のテストではあるまいし。記述の答案などは、採点者の解釈でそれぐらいの差は必ず出てしまいます。あるいは、逆に記号選択肢の問題などは、「勘」とかその日の「運」でそのぐらいの差がでてしまうのです。客観テストとは名ばかりのものであるのが国語のテストというものの実態なのです。
Cこの教室はたとえ仮想であれ、選抜することとは無縁であり、育てる役割のほうを担うつもりです。
成績をつけるなら、生徒よりも、むしろそれを教えた先生のほうに成績をつけたいぐらいです。なぜなら、先生たちは明確に意識的にそれを有料でしているからです。
以上のことから、「好きこそものの上手」になるためには次のような要素が関連すると思います。
1、読み書きという体験の絶対量と質。 2、自分の意志で楽しんでいること。下心はすぐ見抜かれるし、本人をしらけさせるだけです。 3、自分の力と言葉で考える機会と、それを適切にアドバイスする教師の存在の有無。
どうでしょうか。たいがいのご父兄の場合、これとは逆のことばかりしてお子さんをかえってだめにしてしまっている場合が多いのではないでしょうか。
いやいやながら「国語の塾」へ、母親に引きずられて体験授業にくる生徒たちがときどきいます。はじめは仕方がありませんよね。でも、この教室の本の量をみ、コボちゃんが教科書だよといわれてパズルをするときあたりから、顔つきががらりと変わります。この教室には親とか教師のような下心がないと見抜くわけです。
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2003年09月17日 (水) 10時58分 |
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