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(757) ことばの力、ことばの質 |
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投稿者:工藤順一
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私たちがだれかの死を悼む時、私たちは確実にその人間の固有の質のようなものを、文字通りかけがえのないものとして悼んでいる。私たちが愛してやまないものも、そして人生で追求しているものも明らかに質=quoliaのようなものなのである。 質こそ、私たちの生きがいとか、生きることに直結したものなのである。
ところが、教育という分野に目を向けると、学力、生きる力、そして、今回の文部科学省の提起している「言葉の力」、はたまた教育力とか恋愛力とか、どこまでも力=power信仰なのには辟易してしまう。その果てが勝ち組とか、負け組みということにまでいたるのであろうか。確かに力という量的なものに還元すると分かりやすい。ところが、質というものはあくまでも量には還元できないもののことをいうのである。
学力さえあれば東大には進学できるだろう。ところが、それらの優秀なはずのホリエモンも、永田議員も、そして表面に決してでることなく、天下りと談合を繰り返す役人たちにも、何か決定的に欠けていることがある。
それが何なのか、にわかに言うことはいまは難しいけれども、何か人間の質的なものであろうことは間違いないだろう。
学力をつけるのには予備校でもことたりるかもしれないが、この人間としての質的なものは一体何によって教育できるのであろか。
はっきりと分かるのは東大ではその教育はできなかったということくらいであろうか。教育とは何をすることなのか分からなくなってしまっているのではないだろうか。
小6のジャンプ。 小学生というものは劇的に変化していくものであり、1年生から6年生までそれぞれの学年で全く別の生物にも見えてくるものである。このような変化こそ、発達の程度と絡んだ学習の結果であり、学力増進のみではもたらされもしないし、測ることもできない質的なものであろう。 昨年は小4のジャンプにこだわった。それは抽象へのジャンプであったが、 今年度は小6のジャンプにこだわってみたい。
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2006年03月14日 (火) 16時36分 |
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