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国語専科教室掲示板

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(252) 受験勉強のはじまり = 投稿者:工藤順一 MAIL URL
受験勉強について

国語の受験勉強で、進学塾へ行かなければ分からないような受験テクニックというものがあるのはとてもおかしいと思いませんか。私はそう思います。なぜなら、あくまでも国民が全員で使っている自然言語=国語の運用に関すること以外の問題は出せないはずだからです。つまり、ルールは誰にも分かるもの、一般社会で使われるものでなければ国語ではないからです。受験問題にのみ適応する国語なんて言語の矛盾でしょう。そんなものを出せば、テストという客観性すらあやうくなってしまうでしょう。
 受験のテクニック、--それが分かっていれば、得点できるもの、そんなことがあれば私ものどから手が出るほど欲しい。そして、かつて求めたこともあります。でもそんなものは金輪際ありませんでした。素直に、言葉どおり考えていけばいいのです。テクニックなんてありません。
 ですから、この教室では、受験生だからといつて特別のことは一切しません。過去問ぐらいはつきあいますが、こういった問いにはこう答えなければならないというような特殊技術的な指導は一切ありません。無いからです。
 大切なのは、言語の運用なのです。こうも言えることは、ああも言える、この情報量とこの情報量は違う、これはこういうようにまとめられる、そういったことの厳密さを要求する訓練なのです。そのためには、実はコボちゃん作文で十分だと思っています。
 実際にやってご覧になればよく分かると思います。コボちゃん作文は思いのほか深い。
そして、難しい。これが瞬時に書けるようになり、あとは、通常の読書体験さえあれば
実は受験国語は征服できるのです。
2002年09月12日 (木) 11時13分

(254) = 投稿者:T-P MAIL URL
>コボちゃん作文は思いのほか深い。そして、難しい。これが瞬時に書けるようになり、あとは、通常の読書体験さえあれば実は受験国語は征服できるのです。

昔の人は「読み・書き・そろばん」と言いましたが、全くいいことを言ったなと思います。
ところが今年度から採用されている小学生の国語の教科書を見ると、驚くほどに文章は減っています。例えば某出版社の小4の教科書では、1学期に扱う文章はわずかに3つ!後は何の役に立つのかよく分からない、どうでもいい(と私には思える)項目がならんでいます。文章を書かせるような項目が増えているわけでもなし、一体何を考えて作ったのかと思ってしまいます。
あの齋藤孝氏も仰るように、いい文章をどんどん読ませ...もとい、読むようにうまく仕向け(まだ言葉が悪いか?)、また書くようにもっていかなければならないというのに。
では塾ではそうしているのかと言えば、しません。教科書の予習か、受験問題を集めた問題集をやるだけですから。多少長めの文章を読ませて要約を書かせるとか、難しめの文章を解説しながらみんなで読みこなしていくとか、コボちゃん作文ではないが、楽しみながら書く練習をさせるとか、そういうことをした方が結局は実力がつくとは思うのですが...(隠れて、陰でやってやろうか?)この辺りは、固定観念に縛られた受験の世界の限界なんでしょうね。
2002年09月15日 (日) 00時19分

(255) = 投稿者:hawk MAIL URL
 現在、大手予備校にて大学受験の国語講師をしています。
 以前中学受験塾で直接子供たちに指導していた経験も踏まえて、受験勉強についての私見を述べさせていただきます。
まず受験国語指導に対する批判が多いのですが、その内容を分類すれば以下のようになるかもしれません。
 1.単なる知識の機械的暗記を大量に強制させる
 (宿題が多すぎる・テスト中心=得点主義に生徒を追い込む・  きちんとした用法よりも効率のよい覚え方を重視)
 2.文章の読み方・書き方をきちんと指導していない
 (文章の一部を切り取った不完全文章で指導しても無意味・読  書指導が弱い・記述の指導は一部の優秀生徒中心である・選  択肢を選ぶテクニックでは文の本質がつかめないなど)
 これらの批判はもっともです。しかも上記の1と2とは裏表の関係です。要するに「記述指導ができない→知識暗記に傾く」のです。しかしにもかかわらず多くの塾があいかわらずテクニックを教え続けています。なぜでしょうか?自己批判能力がないのでしょうか?工藤先生の古巣のTスクールでは、せっかく「本を一冊、まるかじり」のノウハウがありながら、活かしきれておらず、生徒も集まっていません。(需要もない?)
 簡単に申しましょう。現在の塾には過去問題を教える以上の指導方法が全くないのです。したがってそれ以上の指導ができる「能力」を持つ講師もまたいません(可能性は否定しません)。塾で記述指導をする先生はある限られた人に集中します。記述は難しいと思われているからです。しかし、実際に問題を解いてみればわかりますが、きちんと文章読解のできる大人の目から見れば、記述問題のほうが極めてやさしく(すぐ解けてしまう)、知識問題のほうが難しい(訓練を要する)のです。
 ここに大きな誤解というか矛盾が隠れています。多くの賢明な父兄が「割り切って」こどもを塾に行かせています。せめて本人が「行きたい!」といえば一安心です。中学受験を部外者が批判するのは簡単ですが、当事者(講師・親・子供)は矛盾を抱えながら悪戦苦闘しているのが現状です。
 そうです。塾には指導の方法論が、実はありません。「教える内容」は整理されているけれども、「教える方法」は講師各自に任せられている・・・そういう場所でしかないのです。
 教育とはなにかを考えるとき、教育という字を見ると「教える」ということと「育てる」という二つの要素から成り立っていることがわかります。多くの塾には「育てる力」がありません。過去問題の分析から、そのようなノウハウは出てこないからです。『国語のできる子どもを育てる』を読んで私がうなったのは、その「育てる力」と方法とが、あっさりと軽やかに語られていることでした。既存の塾の限界がここにあります。どんなに優秀な国語講師でも、あなたの子供は「育て」られません。育てる場としての「国語専科教室」に羨望を覚えるのはその点です。そこでは「受験勉強」が軽々と乗り越えられています。
 結局、受験勉強(=入試の出題内容)にこだわっていては、受験も成功しないという皮肉な状況があるということでしょう。

 最後に、大学受験の現場からひとこと。
東大・京大の論述を指導していますと、本文が全く読めていない生徒が多いことに驚かされます。とくに中学受験経験者は、書き方の形式にばかりこだわって、筆者の論理を素直に追う当たり前の方法がなかなかなかなかできず、苦労しております。
2002年09月16日 (月) 08時15分



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