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(723) 引き出し作文とは |
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投稿者:工藤順一
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『論理に強い子どもを育てる』講談社現代新書で、私は「引き出し作文」を紹介しました。 次に述べるのはこの作文の使い方です。
混沌とした現実は、まるで散らかった引き出しのようなものです。そこで『引き出し作文』をやってみるべきでしょう。そして、そこからある抽象的概念が引き出されるとき、それは、混沌を照らすサーチライトのようなものになりえます。
ところが、それで終わりなのではありません。いくらサーチライトがあっても、それはひとつの方向しか照らし出してくれないからです。現実の混沌や闇はもっと深いときがあります。たとえば足下に見えない障害物がありつまずくかもしれないのです。
実は、複数のサーチライトが必要なのです。つまり、複数のものの見方が必要なのであり、それらの間に優劣というものはなく、それは、現実そのものの全体を決して見ることができない人間の条件をカバーするようなものです。遠くを照らすサーチライトと近くを照らすサーチライトのどちらも必要なのです。
四人の生徒がいるなら、四人で『引き出し作文』をします。すると四通りのものの見方というものが出てきます。その四通りに優劣をつけるのはもちろんできません。もちろん、ただ一つの正解のようなものもありません。私たちは互いに補い合いながら、「私たち」としてこの過酷で混沌とした現実に対してかろうじて存在しているものなのです。 「私」は「私たち」につながっていることではじめて成立している微弱なものなのです。 「引き出し作文」をするときには複数でやり、そのことを実感できる授業をしたいです。
国語という教科は、はじめはもちろん漢字やひらがなという文字を学んでいきます。ところが、その後には、何も指針がないに等しい。それが、ともすれば、安易な道徳を説いたり感傷的文学鑑賞になったりすることを導いてしまいがちな科目でもあります。 そうではなく、言葉を使ってきちんとした「ものの見方、考え方」を学ぶ教科なのです。
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2005年05月21日 (土) 15時23分 |
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