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(680) 考えること |
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投稿者:工藤順一
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>私達大人はいったい、子供に何をしてあげるべきなのだろうと、深く深く考 えます。
私の場合、誰かがやらなければいけない仕事を、自分もやらなければならない、と思い、幸運にもやらせていただいています。 (それははじめは私の「したい」こととは違っていましたが、最近では近づいてきました。)
それは言葉を大切にすること、言葉で読み・書き・考えることであり、子どもなりの時間を大切にすることです。私がそのようにされて育ってきたことでもあります。
私は国語教育の専門家でも、国から認定された教師でもありません。ということは、どこか外側に基準をおいて、それとの対比で子どもたちに過当競争させたり、その逆に制限してしまうことからも無縁でありたい、つまり受験ともゆとりとも関係なくありたいのです。 もしも、どこかに基準を置くならばその子そのものであってはならないのでしょうか。
この東京の建築的な意味での現実は大震災でも起こらない限り変わらないでしょう。 そして、このままでいくならば当分の間は、政治・経済・制度の改革は無理でしょう。 それが現実というやつです。外側の基準とはこの場合、この変わらない現実でもあるでしょう。
ひとつ可能なのは、その現実というやつが絶対ではないということ、疑うことができるということ、----つまり、何かおかしいと疑問を持つということが「考える」ことの第一歩なのです。
読み・書きの延長線上に「考える」子どもを育てていきたい。そのためにはその子に基準を合わせて行かなければならない、そのように思うようになりました。それがいま私が見いだしている唯一の「希望」のようなものです。
おそらくこのことは私の世代のみでは解決のできないことでもあります。
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2004年08月24日 (火) 11時20分 |
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