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(665) 考えるということ |
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投稿者:工藤順一
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「考える」ということについて、最近は考えています。教師なら一日に何度でもこの言葉をいうはずなのです。「よく考えてごらん」「もっと考えて」「----を考えましょう」などですが、それでは、一体、具体的にどういうことをすれば、「考える」ことになるのでしょうか。
たいていの場合は、教師にはすでに解答とか、その解答を導く考え方なるものが解っていますので、生徒と一緒になって考えることはありません。どのように考えればよいか教師にも分からないもので授業をすることは、そもそもできないからです。
------ 具体的にあげると、さまざまな作業がこの「考える」という言葉の中には含まれています。 たとえば、整理する、順番をつける、いらないものを捨てる、補助線をひく、----あげればきりのないことになってしまうでしょう。
文章というものも、結局は考えなければ一行も書くことはできません。 そもそもがホモ・ロクエンスである私たち人間にとって 書くということが考えることなのか、それとも、考えるから書けるのか、その区別をつけることは容易なことではありません。 実は、言葉を使ってしか書くことはもちろですが、考えることもできないのです。
ただし、私たちの主に扱っている小学校3年、4年という段階では、明らかに、書けるからこそ考えることもできることの比率の方が、考えるから書けるよりも大きいでしょう。
何が何だかわけの分からないことになっていきそうですね。 私はここで次のようなことをいいたいのです。
コボちゃん作文やロダン作文でしていることは、何もこぼちゃんとかロダンという犬のことを教えてるわけではなく、 「考える」ということの、最小の単位を扱っているということです。 この程度の情報処理を言葉でできない限り、考えるもへったくれもないということなのです。
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2004年07月18日 (日) 00時26分 |
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