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(430) 国語のりセットその一 |
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投稿者:工藤順一
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まったく新しい国語を作っていきたい。これまで国語という教科では一体何が、どんなことが行われていたのだろうか。読み書きというが、それは別な言葉で語ればどんなことになるのだろうか。
教科としてそこにあるからただ惰性でするということを極力さけ、リセット感覚で読み書きというものを捉えるとどういうことになるのだろうか。
これから、少しこのことについて語っていきます。
言葉、この場合活字ですが、それを読むということは単なるインクの染みから想像的・創造的な世界を立ち上げていくことです。ですから、もちろん、文章を書くこと は、逆に、そのような世界を書いていくことです。
この場合、「世界」とするととても抽象的になってしまいますが、日常的、中間的 には、私たちは環境という世界を生きていると言ってもいいわけです。それが、「町」という単位のときもある。小さな町を生きる、小さな私がいるということになりま す。
「作文を書く」とか日記を書くということで通常私たちがやっていることはほとん どこのことです。生きられた小さな私の世界を書いているのです。
さて、言葉の第一の働きは、『ふしぎのことば ことばのふしぎ』にもあります が、名前をつけて、私の大切なものを区別していくことです。この本は言葉がどうして 世界をつくっていけるのかを書いています。
このことを難しいことばでいうなら、「カテゴライズする」ということです。それ は 私たちの教室のことば言い直すと「引き出し作文をする」ということですね。 「引き出し作文」をすると、だれひとり同じものは書きません。こんなに小さな引 き 出しであってもです。ですから、だれひとり同じ世界を生きているのではありません。 こ れが私という個人です。
さて、いま、環境世界という引き出しを作文してみましょう。それは、以上で述べ た ことをすることに等しいわけです。つまり、日記を書くとか、作文を書くというこ とです。
この小さな私の世界からどうやって大きな私たちの世界を作り出していくことがで きるのでしょうか。
小さな私が大きな私たちに通じていくものこそ「論理」です。特殊解を一般解に高 めていくものでもあります。
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2003年07月18日 (金) 23時16分 |
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