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(363) その1、テストをしない |
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投稿者:工藤順一
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そうです。予想通り、テストをしないということだけでどれだけ効果が上がるかを、まずは言いたいと思います。
その理由は、テスト=試験の反対概念を考えてみると分かりやすいでしょう。テストの反対は「本番」つまり「生きる」ということです。日本語であれ英語であれ、テストではなく、生きられてつまり、現実をともなって使われてはじめてなんぼのものでしょう。コミュニケーションしたり一冊の本が読めたりしてはじめて日本語なり英語を学習した意味や価値があるでしょう。そのようなことができないのにテストだけできるというのはおばけに近い。そんなおばけに近い人間を生み出すのが教育ではありません。 子どもはテストよりも「生きる」ことの方が圧倒的に好きです。 一冊の本がおもしろくてどんどん読んでいくとき、言葉は自然に身に付くでしょう。書くことが好きになってどんどん書いていくとき、これに勝るものはないでしょう。 たとえば、漢字にしろ、「犬・猫・熊」たいていの子どもが読めますよね。でもこれらは教育漢字ではありませんので習って覚えているものではないのです。そして、どれぐらい身に付いたのかなとふり返ってみるときに、一年に一度くらいならテストというものが自己確認のためにあってもいいでしょう。本を読むこともなく、現実に使うこともなくテストのみでは絶対に言葉というものはみにつくものではありません。日本人の学校英語がいい例です。 国語という教科があるせいで、私たちはいま、日本語すら、同じような学校日本語にしてしまいそうになっています。
もちろん、これらのことは段階のはじめにしかすぎません。次なる段階である概念的な理解、メタレベルでの理解が必要な段階というものがあります。読解問題をしていく段階です。でも、いま、進学塾というところは、はじめからこの後の段階から入ります。四谷とかサピックスが出しているはなまる国語とか、ピグマリオンの一二年生を見ると、それがよく分かりますね。 私の提案はその前にすることをきちんとしなければ、つまり、生きていなければ、その影を追うようなことはやらせても当然できないということなのです。
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2003年04月18日 (金) 14時47分 |
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