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(213) 新しい場 |
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投稿者:工藤順一
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Y.Iさん、こんには。国語的には、新しい「教育の可能性」なのか 「新しい教育」の可能性なのか、分からないところがありますが、私にはどちらでもいいです。そのタイトルでいったいどのようなことを語り合っていたのか、私にはかいもく見当もつきませんから。前にもこの欄で述べさせていただいたことがあると思いますが、教育のことには私は全く関心がありません。特に文部省がらみの「ゆとり教育」とか、それに反対する立場の進学塾の話は、どれひとつも面白くないですね。
「しつけ」=よい習慣の獲得のようなものも教育の部類に入れてもらえるなら、確かに私の教室もそのようなことにお手伝いできるたぐいのことをやっています。それは、実は身体を使うたいへんなことで、高尚で哲学的な教育論とはおよそ縁のないようなしろものです。きっと母親ならよく分かっているようなことです。
たとえば、最近は鉛筆を正しく握れない子どもが増えていますが、その理由を力学的に説明しても社会学的に説明してもちっとも面白くなんかありませんよね。私だったら、その子の前で正しい鉛筆の握り方は講義しません。後ろに立ち一緒に鉛筆を握ってやります。簡単なことです。でも、世の学者先生たちは絶対にしないことですね。
たとえば、最近は本を読めない子どもが増えています。私たちがしているのは、その子と一緒に読んでやることです。あるいは、その子に面白い本を一冊具体的に提示してやり、その子を本好きにすることです。決して世の教育者たちのように読書の重要性を説いたり講義したりすることではありません。
たとえば、作文の苦手な子どもが増えています。私たちがしているのは、その子と一緒に書いてやり、楽しんでやり、作文好きにすることです。決して作文の書き方などを教えたり、講義したりすることではありません。
以下、同じように続きます。---------
ですから、私たちのしていることは、教育などとはほとんど関係ありません。まして、新しい教育など想像すら私にはできません。
「古いシステムに依拠しないまったく新しい場」が必要だとすれば、それは、だれのためでもない、まったく私自身のためにです。でも不思議です。どんなに新しく見えても、一瞬一瞬それは古くなっていくのですね。それとの格闘の毎日です。「生きている」こと自体がそういうことなんですね。
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2002年06月05日 (水) 13時00分 |
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