・ブルーリボン賞1966年作品賞受賞、脚本賞受賞 橋本忍
田宮二郎・・・・・・財前五郎
小川真由美・・・・・ケイ子
東野英治郎 ・・・・東教授
滝沢修・・・・・・・・・船尾教授
船越英二・・・・・・・菊川教授
田村高廣・・・・・・・里見助教授
石山健二郎・・・・・財前又一
小沢栄太郎・・・・・鵜飼医学部長
藤村志保・・・・・・・東佐枝子
長谷川待子・・・・・財前杏子
岸輝子
加藤嘉 ・・・・・・・・大河内病理学教授
永田靖
加藤武・・・・・・・・・野坂教授
下絛正巳 ・・・・・・今津教授
鈴木瑞穂
須賀不二男
清水将夫・・・・・・・河野弁護士
高原駿雄・・・・・・・佃第一外科医局長
早川雄三
北原義郎
潮万太郎
滝花久子
田宮二郎主演の映画やTVドラマ第一部は原告患者側敗訴で終わっています。
本来はここで完結するところでした。
しかし多くの読者から、「小説といえども、社会的反響を考えて、作者はもっと社会的責任をもった結末にすべきであった」という声が寄せられたため、一年半後作者は「続白い巨塔」の執筆にかかります。
この続編では二審でついに患者側が勝訴。
被控訴人側は直ちに上告、裁判の決着を見ずに教授の胃癌による死という結末。
最後まで息をつかせず一気に読ませるストーリーの展開です。
死の床についた財前五郎は最後に最愛の人の名前を叫ぶ、それは「おかあさん」。
田宮さんはこのとき泣いていた。しかもそれは泣こう泣こうとしているのではなく、必死に耐えて泣いていた。
財前五郎の遺体はストレッチャに乗せられ白いシーツを頭から被せられて医大の廊下を静かに進んでいく。
このシーンは吹き替えでも全然かまわないのに田宮さんは自分で演った。
若くて才能があってエネルギッシュで不誠実で野心家のキャラクターと、演じた田宮さん本人のその後の人生があまりにも劇的過ぎて、運命的なものを感じてしまう。
唐沢主演のとは少々違う展開がありながら、大筋では細かい部分も似ている。
150分があっという間。
選挙から裁判まで、内容を知っていても緊迫感があり面白い。
モノクロで多少見づらく知らない役者も多いし、知った役者も若いし(佐枝子の藤村志保さんにはビックリ♪)。
大河内教授もアッパレだし、又一なんて海坊主頭で、でも相変わらず「なんぼや、なんぼいるんや!」ってすぐ言うし。
裁判所側から出した最後の頼みの綱?はなんと船尾教授でビックリ。
でも結局「医者が誤診を認めると後が面倒くさいから」って理由で、大演説(汁)
財前は勝ち、里見は大学を出て行く、という所で映画が終わる、私にはこの展開で充分です。
財前と里見、二人の人物が対照的に描かれている。
外科医としての腕に傲慢になり、名誉と権力を求める野心家財前五郎と、感情移入するほど患者側に立って奉仕する里見。
「医は仁術なり」とよくいうけれど、病人・怪我人の治療は、まぎれもなく人助け。
そういう意味では、里見の方が医師として求められている理想に近いのかもしれない。
お金・名誉・権力などの現実的な人間の悪の部分と、他人に奉仕する理想の善の部分を、この二人は象徴しているかのように見える。
しかし医師も自分や家族の生活がある限り、「仁術」だけの綺麗事では済まず、「算術(お金)」の部分も必要になってくる。
里見医師の中にも、現実問題の前に妥協してしまう心があるし、また財前五郎は、違った意味での理想を求め続けている。
誰しも心の中で、自分の目指す理想に辿り着きたいと希望を抱きつつ、現実に引き戻された我を見いだして失望する。これを繰り返している。
いいかえれば希望と失望は裏表、現実と理想も裏表、悪と善も裏表で、どちらも自分の中に存在している。
田宮二郎は躁鬱であった。そして猟銃自殺を図る。
「私が一生涯 愛を捧げる妻 幸子
富士山の光が目の前一杯に拡がってゆきます。生まれて初めて、胸が踊った僕の心を幸子は察してくれたのだろう。いくつかの難問をのり越えて、2人は神前に夫婦の絆を誓い合った。
今も僕は倖せ一杯だ。
英光と秀晃に、二人が成長すると共にその頃の記憶を、折りあるごとに、伝えて欲しい。若いから東京と京都を毎日往復出来たのだとうか。違う、あれがひとつの愛の表現だった。体力と愛が、細い細いところまで幸子に僕の全てを捧げたのだろうか。いや。今でも僕はそれを意識の中でいつでも出来るような気がする。気がするどころか、あなたの、あのこぼれるような笑顔のためなら、何度でも繰り返せると信じている。
かごに一杯のリンゴが、目の前に積まれた時の感激を忘れない。僕は結婚以来、がむしゃらに働いた。経済的に誰にも不安を与えたくなかったから。本当は素朴なあたたかい生き方もある筈なのに、それを知りながら、働くことしか生き甲斐を知らない人間になって行った。
いま、僕に何の趣味があるだろうか?自分と幸子とを結んでいるものを、またあの笑顔で、あるときは、おかしいほどの生真面目さで、手を組んでゆけるほどの連帯感を生むものがあるだろうか?
すぐに答えられない恥ずかしさしか残らない。いつもいつも小心なくせに、つっぱって、つっぱって、生きている僕の姿。
それをはらはらしながらなんとか応援しようとしている幸子の姿、心、思いやり。世の中に大声で叫びたい。誰の存在も不要なのだ。
幸子と英光と英晃さえあれば、何も不要なのだと叫びたい。事実のとうり叫びたい。一緒に歩けば、何も恐ろしいものはない。そう思うと勇気が湧いてくる。幸子は、聡明で、力強く、それでいて最も、虚飾のない女らしい人だと僕にはよく解った。
十二月一日の夜、青山のマンションから、僕が、麻布に戻る時、「ひとり置いてゆかないで!」と幸子は云った。涙をふきながら、そう云った幸子の顔は、いままでに見せたこともないものだった。「もちろんさ!」と僕は答えた。しかし、心の中をみすかされた僕はあなたの左手をギュッと握ることしか出来なかった。
もう自分でもとめることは出来ないところへ来てしまった。
生きることって苦しいことだね。死を覚悟することはとても怖いことだよ。
四十三才まで生きて、適当に花も咲いて、これ以上の倖せはないと自分で思う。
田宮二郎という俳優が、少しでも作品の主人公を演じられたことが、僕にとって不思議なことなのだ、そう思わないか?病で倒れたと思ってほしい。事実、病なのかもしれない。そう思って、諦めてほしい。
英光そして英晃は僕の片鱗を持っている。僕と幸子の血を受け、僕の姿の一部を持っているあの可愛い、二人を僕だと思って愛してやって欲しい。あなたの心を与えてやって欲しい。
二人の子供は、僕以上に、あなたを倖せにしてくれる筈だ。僕はそう信じる。
それからお母さんを大切にして上げて下さいね。僕の食事からいろいろ案じて貰った。このことは感謝に耐えられないことだ。
僕に寄せられた少数の人の厚意は、そのまま、幸子と、英光と、英晃に向けられると思う。また、どうか、向けて欲しいと心から願っています。
死は全てを解決するものではないけれど、無を等しくするものです。
十字架を背負って、歩む自分の姿を思う時、死が、全てから切り離され、肉親である幸子と英光、英晃が、僕の面影を折にふれ、親しみ合ってくれればもう僕は満足なほほ笑みを空間の中からあなたたちに返礼します。
この本一杯に、文章を書くつもりでした。でも書けば書くほど、幸子の悲しみと僕自身の悲しみが増すばかりです。最后に夫婦の契りを絶つ僕を許して下さい。二人の愛らしい子供をたのみます。
なむあみだぶつ、さようなら
幸子へ
柴田吾郎
俳優 田宮二郎」