途中で投げっぱなしの考察を、ここらで完結させておこうと思います。
いきなり論文調の硬い文章になっているのは、レポートを書くときの癖です。
で・ある調の文章で「賢太郎さん」と書くと違和感があったので、この文章内では「小林」と呼び捨てにさせていただきました。
ご了承ください。
冒頭のしりとりの意味伏線。
このしりとりは、とっても重要だから覚えておいてね! という意図。
いきなりいい加減な解釈。
お母さんが変な声なのは何故か原作に登場するお母さんは病気。
そこから派生したギャグ。
また、今回の公演は以前やったネタ(手法)のおさらい的な面があるので
「悪魔が来たりてなんか言う」の要素を取り入れた。
アニメ版「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニの母が声のみで描かれているらしい。
小林が「母は声だけ」というイメージを持っていた可能性も考えられる。
お母さんが、祭りに行けと行けと言った理由「常盤が祭りに行かない」ことを強調するため。
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」ではジョバンニが祭りに行くことで、話が進展するので、祭りは不可欠。
だけど、このコントのジョバンニ(常盤)は祭りに行かない。
「銀河鉄道を下敷きにしているけど、ここからは独自の話になるからね」
というメッセージ。あるいは主張。
重要なシーンを省くことで、原作を知る観客の頭を切り替えさせる作戦。
ずっと一緒に行こうなジョバンニ(常盤)が言うはずの台詞をカムパネルラ(カネムラ)が言っている理由。
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」で、何度も繰り返し登場する重要な台詞なので
「銀河鉄道の夜」の要素が強く出した以上、外すわけにはいかなかった。
しかし、原作通りに常盤がこの台詞を言うとオチが破綻する。
独り言に組み込む(例えば新聞に書いてある言葉を朗読する、など)ことも可能だが
それだと対象が変わってしまう。
ジョバンニとカムパネルラが一緒に行くのではなく、他の誰か達が一緒に行くのでは意味がない。
そのため、この台詞をカムパネルラ(カネムラ)が言うことになった。
以前やったネタのおさらい、という考えを継続するのであれば
このシーンは「器用で不器用な男と、不器用で器用な男の話」の流れを汲んでいると思われる。
「器用〜」では、ずっと片桐君と一緒に居たかったけど、居られなかった小林君の姿が描かれるが、
このコントではその立場が逆になっている。
カネムラは何だったのかカネムラが始めに登場しているときは、確実に常盤と会話している。
しかし、最後のシーンでは会話が成立していない。
なぜか。
これに関しては、ぶっとんだ解釈します。真に受けないで下さい。
いきますよ。
原作通りに考えるのなら、最後のシーンに登場するカネムラは既に死んでいる。
お祭りで死んでしまったので、お祭りに行く前は会話出来たのに
最後のシーンでは会話が出来ない。
カネムラが死人だから。
小林は宮沢賢治が好きらしい。
(
前の記事の「銀河鉄道」の項参照)
おそらく「銀河鉄道の夜」も好きなのだろう。
しかし、その結末に不満を抱いていたのではないだろうか。
原作のジョバンニは、カムパネルラのことが大好きだ。
ジョバンニは、数少ない(もしかしたら唯一)の友達だからなのかカムパネルラに固執する。
例えばこんな独白がある。(長いので要約。旧字体は新字体に修正)
ぼくはもう、遠くへ行つてしまいたい。みんなからはなれて、どこまでもどこまでも行つてしまいたい。
それでももしもカムパネルラが、ぼくといつしよに来てくれたら、そして二人で、どこまでもどこまでも行くのなら、どんなにいいだろう。
ぼくはもう、カムパネルラが、ほんとうにぼくの友だちになつて、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやってもいい。
こんな風に思うほど、カムパネルラは大切だったのだ。
それなのに、ジョバンニはカムパネルラと死別する。
死んだのがジョバンニなら救いはあるが、死んだのはカムパネルラの方だ。
物語が終了した後の世界で、ジョバンニは一人で生きていかねばならない。
このコントでも、最終的にカネムラと常盤は別れる。
しかし、原作と違ってはっきりと「カネムラは死んだ」とは描かれていない。
結局カネムラが何者だったのかは客にゆだねることになる。
自分の作品が、自分の意図と違った形で伝わるのを嫌う小林が、
あえて曖昧な描き方をしたのは「伝えたくなかったから」ではないのだろうか。
つまり、「カネムラが何だったのかは分からない」が小林の用意した答えだ。
原作では死んでしまったカムパネルラ。
しかし、小林はそのラストを自分の作品では使わなかった。
ジョバンニ(自分)を一人きりにするのも、カムパネルラ(相方)を死なせるのも
どちらも嫌だったのではないだろうか。
しかし宮沢賢治のファンでもある小林は、原作を大きく変えるのにも抵抗がある。
「銀河鉄道の夜」には、カムパネルラの死が不可欠だ。
カムパネルラを死なせたくない、しかしカムパネルラは死ななければならない。
そこで、小林は両方を取り入れることにした。
カムパネルラがどうなったのかを明かさない、という描き方がそれだ。
一見、カネムラはカムパネルラと同じように死んだ、
死んだとまでは行かなくても、今生の別れをしたように見える。
しかし、そうだとは断言出来ない。
カネムラは死んだのかもしれないし、始めからいなかったのかもしれないし、存在を確認出来ない透明人間だったのかもしれない。
でも、いるかもしれない。
もしかしたら、また会えるかもしれない。
そんな希望を残して終わりたかったから、あえて答えは出さなかった。
「カネムラが何なのかは分からない」
これが私の出した結論である。
以上!
後半、盛大に煮詰まりました。
そのうち修正するかもしれないし、ほったらかすかもしれません。
ひとまず、これで銀河鉄道の解釈は終わりです。
長文にお付き合いくださいまして、ありがとうございました!