濡れた石畳を照らすのは、瓦斯灯の火。月は雲隠れにして、見しや其れともわからない。暗闇に程近い中央通りを、柔らかな足音が進んでゆく。 最上質のベルベッドを幾重にも縫い合わせてつくられた、ピンクのドレス。四肢の半ばまでを覆うそれは雨を吸い、重く背中に圧し掛かる。赤ん坊用のものを仕立て直した絹のフードが風にはためき、前進を妨げる。 低い前傾姿勢。顔は見えない。唸るかのように言葉が漏れる。 「オーケー、マム。こいつは簡単な、とてつもなく簡単な選択肢だ。つまりは今日。今。この時間。アンタの命令に従ってこの雨の中を駆けつけるか。それともこのまま行方をくらますか。どっちでもいい。好きに決めりゃあいい。大事なのは。そう、こいつが最も大事だが。それ以外の選択肢はない。分かれ道は、いつだって二択だ。俺が今探している選択肢は、もっと前の。もう俺が通り過ぎてしまった場所にあったモノだ。オーライ?」 速度を上げる。等間隔に並んだ瓦斯灯の一つ。光を受けてその下に、一軒の館。 館の前で足を止める。そして軽く二度、ノック。 「お入り」 声に従い、足を踏み入れた。 月のない夜とは思えぬほどの眩しさ。屋敷の中は煌びやかにライトアップされていた。いつだってそうだ。ここは、マムのステージだから。 「待っていたよ」 首を振ってメイドにタオルを返し、声の方へと歩む。大きな椅子に腰掛け、内装以上に華やかなドレスを纏い、乗馬鞭を手にした女主人。組まれた脚には網状のストッキング。その上にはXだかZだか知らないが、化け物じみた乳が二つ揺れている。 女主人は無駄な口を利かない。脚を解き、鞭を鳴らした。 「はじめようか」 イエス、マム。 ご主人様がドレスの裾を持ち上げる。ストッキングと、ガーターベルト。その間には、何一つ纏われていない。つまり、絶対領域。 甘い匂いに誘われ、黄金の密林にむしゃぶりついた。 今や好物となったそれを舐め上げ、穿ち、舐り、突く。ただひたすらに。己の欲望を満たすために。 ただ一つの電動器械と化し、サンダーロードを駆け巡る。 時折主人の指示が飛ぶ。 お手。そして、おかわり。 チンチン。 断続的に響く水音。喜悦を告げる高周波。そして激流はすべてを飲み込み、今日も一つの仕事が終わる。 液体を顔で受けながら、俺は吼えた。 「よく逃げなかったね」 椅子に体重を預けたままで、気だるそうに女主人が問う。 光る鼻先を鳴らして、背を向けた。 わかってる。俺たちゃバター犬さ。死ぬまでな。 館を出る。 雲が切れ、ようやく姿を見せた月が、石畳の街を朧に照らし出す。その一角で、首のない犬がメイドに引き摺られていく。 瓦斯灯立ち並ぶ中央通りから、足音は遠ざかってゆく。 別れを済ませるには、いい月夜だ。
|