真っ青なよく晴れた空。どこまでも続くじゅうたんのような芝生。その上をラッキーと散歩するのがあたしの日課だった。
ラッキーがうちにやってきたのは、あたしが10歳の時。その時のあたしでも広げた両手の上に乗っかるほど小さかったラッキーは、ほんの数ヶ月でビックリするほど大きくなってしまった。人間の1歳が犬にとっての20歳なんだと聞いて、もっと驚いた。1年で20歳年を取っちゃったら、5年で100歳になっちゃうじゃん。でもそうじゃないことを聞いてほっとした。
だって1日でも長く生きて欲しいもん。 ずっとこうしてあたしと散歩しようね。 兄弟のようにあたしとラッキーは育った。
「千鶴、いい人いないの?」
23を過ぎた頃から、お母さんはたまにこんなことを言う様になった。 もちろんいたときもあったし、いないときもあった。 だけどそれより仕事や遊びのほうが楽しかったから、あたしの返事は決まってこう。
「ラッキーと離れたくないからまだ結婚なんかしない」
そんなあたしもとうとう結婚することになった。
「あたし……っ。お世話になりました、とか言うつもりないから。 てか、これからもお世話になるつもりだから! ―――いい、よね?」
最後の挨拶って言うの? 結婚が決まったときからずっと考えてたけど、いざその時が来ると意外と言葉が出ない。照れくさいのと、なんか、胸がいっぱいなのとで。やっと出たのがこの言葉。 でも、でもね……姓が変わっても、帰る家が変わっても、あたしはずっと二人の子供だから。
お父さんがあたしから顔を背けてしまった。 お母さんが苦笑する。
「今からこれじゃ、お式の時が思いやられるわねぇ」
回避したつもりでも、やっぱり湿っぽくなっちゃった。 グスンと鼻を鳴らすと、ラッキーがゆったりと歩いてきた。あたしの腕に鼻を押しつけてくる。
「行ってくるね、ラッキー」
ラッキーにもサヨナラは言わないからね。行ってきます、のつもりで、ラッキーの体をぎゅっと抱きしめた。
連絡が来たのは次の日だった。 お父さんからの電話だった。 まさか、昨日の今日で実家に帰ることになるなんて思いもしなかった。 あたしはまだ夢の中にいるみたいなのに。 たくさんの祝福の言葉も。交わした永遠の誓いも。大好きな隼人(はやと)のお嫁さんになった、初めての朝も。今だまどろみの中を漂ってる。ふわふわ、してるのに。
「朝起きたらもう息がなかったの。あたしもビックリしちゃって」 「どうして? 昨日まではあんなに元気だったのに……」 「もう16歳だもの。最近は歩くのもやっとだったでしょう?」 「それは……そう、だけど……」
ラッキーにゆっくり歩み寄る。 どれだけ忍び足で近づいても、ラッキーにはいつもすぐに気付かれてしまう。ぱっと顔を上げて、長い毛に覆われたしっぽをぱたぱたと振って、そのままあたしがラッキーの前に行くか、そうじゃなければ、ラッキーからそばにやってくる。 なのに今日は、横たわったまま動かない。寝ているとき大きく上下するお腹も、ぺたんこのままだった。
「うそだ……」
ぐしゃりと足から崩れ落ちると、細くて長い毛がさあっと揺れた。おそるおそる手を伸ばす。ラッキーの体はまだ温かい気がした。
「ラッキー……ラッキー……」
名前を呼びながら、全身を撫でた。 そうしないとどんどんラッキーの体が冷たく、硬くなって行っちゃう気がする。 よく見ると、やっぱりお婆ちゃん犬だね。ふっくらしてた体は少し痩せて、お腹周りは皮が弛んでた。綺麗なクリーム色だった毛色も、ツヤがなくなってる。 全然気がつかなかった。毎日見てたのに。
ううん。見てたとは言えないよね。 確かに子供の頃はよく遊んだし、世話もよくした。 ただ、社会人になってからはその時間はめっきり減ってしまった。 雨の日以外は欠かさず行ってた散歩も、徐々に億劫になり、今じゃ最後に行ったのはいつだったかも覚えてない。 忙しいとか、疲れてる、とか。理由は様々だった。それでもラッキーは文句ひとつ言わず――は、当たり前なんだけど。もしもラッキーが言葉を話せたとしても、そうだっただろう――変わらず、あたしのベッドの横であたしの帰りを待っててくれた。 変わってしまったのはあたしだった。
「ご、めん……ねぇ……」
ラッキーの体を覆う様に抱きしめた。そして泣いた。わんわん泣いた。
荼毘に付されたラッキーの体は、小さな箱に収まった。
「千鶴が幸せになったのを見届けたから、安心したのよ、きっと。 ラッキー、千鶴のこと大好きだったからね」 「あたし、だって、好きだったもん……」
お母さんに言ってもしょうがないけど。 それまでずっと黙って隣で見守ってくれてた隼人が、あたしの頭の上にぽんと手を置いた。顔を見ちゃうとまた鼻がツンとしたけれど、もしお母さんの言うとおりなら、もう泣くのは止めよう。
ラッキーはとっても賢いコだった。 お母さんに叱られたり、友達とケンカした時はいつも以上にあたしのそばを離れようとしなかった。 高校受験でイライラしてる時は、ラッキーと遊んでるうちに穏やかな気持ちにもなれた。 好きだった先輩に彼女がいると知った時だって。彼氏と別れた時だって。ラッキーがいなかったら、立ち直るのにもっと時間が掛かってたと思う。 無償の愛と言うものを、あたしは両親からだけじゃなく、ラッキーからも貰ったんだ。
ラッキー、いつも一緒にいてくれてどうもありがとう。本当にありがとう。 ラッキーがいたからあたしは幸せでした。
「ありがとう……。あたし、絶対幸せになるからね、ラッキー」
16年分のお礼のつもりで、その箱を存分に撫でた。
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