ついさっきまでわたくしの体だったものがベッドに腰掛け、悲しげな眼でわたくしを見下ろしています。 屋敷は寝静まり、カーテンの隙間から弱々しい月明かりが差し込んでいました。 (どうしてこんなことを!) 彼女を見上げそう叫んでも、わたくしの口からは「ワン」という声しかでません。何度試みようと、どうしても「ワン」と鳴くしか――。 いま、わたくしの体だったものには、姉妹のように育ってきた『ノア』の魂が入っています。ノアはちょっと厳しい顔つきですが、賢くて勇気があって優しいボストンテリアです。 ずっと仲良しだった、大好きなノア。どうして……。
数時間前、わたくしはベッドに潜り込み、ノアはその傍で眠りました。一週間後に予定されているパーティを想像するとわくわくして寝付けなかったのですが、人間が睡眠を支配し征服するのは無理なお話なようです。やがてわたくしは眠りに落ちました。 夢の中にノアが現れました。 『あなたと私は入れ替わらなければいけない』 という声がすると、次の瞬間には浮遊感と衝撃がない交ぜになったような感覚に襲われ、わたくしの意識はそこで途切れました。 しばらくして目が覚めた時、すでにわたくしとノアの魂は入れ替わっていたのです。 『こうするしか』 魂が入れ替わる瞬間、ノアは確かにそう言いました。 いまノアの魂は、わたくしの体の中。ノアが手を伸ばし、ボストンテリアのわたくしを優しく撫でます。 (どうしてこんな――) また、「ワン」としか言えません。 どうして? ノアもわたくしのことを大好きでいてくれたのではなかったの? 人間になりたかったの、ノア? 「コウスル……シカナ、イ……カラ」 慣れていないからか、人間の言葉が上手く喋れないようです。ノアはベッドから降り立ち、わたくしをそっと抱き上げました。 (なにをするの?) 「ワン」 「シズ……カ、ニ」 わたくしを抱いたまま寝室を抜け出し、ノアは注意深く廊下を歩きました。屋敷の廊下には絨毯が敷き詰めてあるのに、微かな足音もさせまいとするように、ゆっくり、注意深く。 灯りも点けず、壁に触れた指先の感覚を頼りに裏口まで辿り着くと、ノアは裸足のまま庭に降りるや小走りで駆けだしました。そして正門まで来ると格子の隙間からわたくしを外に出し、屋敷の前の道路にそっと降ろしました。 その間、わたくしは鳴くことも、暴れることもしませんでした。騒げば使用人たちが起きてきたはずです。何かはわかりませんが、ノアがしようとしていることも防げたかもしれません。 でも、そうしなかったのは、ノアがずっと泣いていて、ほとんど聞きとれない声で「ゴメンナサイ」と呟き続けていたから。 「イッテ」そして「ダイ、スキ」そして、 「シ……ル、ヴィ……ア」 ノアは最後に小さくわたくしの名を呟くと、くるりと背を向け屋敷に戻っていきました。一度も振り返ることはありませんでした。
◇ ◇
男は二ドルと五十セントで新聞とサンドウィッチを買うと、照りつける太陽を何度か恨めしげに見上げながら、公園へ向かった。 昼時には少し早く、公園は人影もまばらだった。 鼻歌交じりで芝生に腰を下ろすなり、男はくすりと笑った。昨夜のポーカーを思い出したのだ。 まさに起回生だった。 文無しになるかどうかの瀬戸際で配られた五枚のカードは見事なまでに手の施しようがなかった。半ば、いや完全にやけっぱちでAを一枚残して四枚交換したところ、カスのような手札がAのスリーカードに化けたのだった。 そこから勢いがついた。配られる札も交換した札も文句なしで、幸運の女神が自分に寄り添い頬にキスしてるのではなかろうか、と真剣に考えたほどだ。最終的には皺くちゃの背広のポケットに無理やりねじ込まねば収まりきらぬほどの金を手にしたのだから、思い出し笑いが絶えないのもしかたがないだろう。 片肘で上体を支えながら寝そべり、時間的に朝食と呼ぶべきかどうか疑わしいサンドウィッチを頬張った。 芝生に広げた新聞には、遠い国で起きているお伽噺としか思えない戦争の記事や、完全なる他人事でしかない株価高騰の記事が並んでいた。 「おっ」 三個目のサンドウィッチを口に放り込んだところで、男はある記事に目を止めた。 「ああ、やっぱりな」 記事は数日前に富豪の屋敷で起こった惨劇のその後について記してあった。第一報からしてショッキングなニュースであったが、男はこの事件にはきっと裏があると予想していた。この日の記事は、第六感だけに従った当てずっぽうを裏付けるものだった。 事件の第一報はこうだ。
――とある富豪の屋敷で、若い娘が惨殺された。娘は屋敷に忍び込んだ暴漢に胸を刺されて命を落とした。二人居た使用人も殺され、宝石箱にしまってあった宝石は全てなくなっていた。娘を育てていた叔父夫婦は旅行に出かけており難を逃れた――
だが、今日の記事にはこう書かれていた。
――殺された娘は幼い頃に母親を、数年前に父親を亡くし、叔父(父親の弟)夫婦に育てられていた。遺言により父親が残した莫大な財産と屋敷は、当面弁護士の指示に沿って叔父夫婦が管理し、娘は二十歳になると同時にその全てを引き継ぐことになっていた。犯行があった夜の一週間後には、娘の二十回目の誕生パーティが開かれるはずであった――
「なるほど、金持ちも大変だな」 男はふと横を見た。いつの間にか犬がちょこんと座っており、じっと新聞をみていた。 「読めるのか、新聞が?」 からかうように言って、サンドウィッチを一切れ犬の前で振った。 「食うかい?」 だが、犬は身じろぎもせず、ただ新聞を見ていた。男は小さく肩をすくめると、もてあましたサンドウィッチをやっつけてから、改めて犬を見た。 切り立った耳、短い尻尾。『アメリカの小さな紳士』と呼ばれるボストンテリアだ。勇敢で誇り高く、物静かで賢い。理解力が高いので愛情を持ってしつければ主人思いの素晴らしい愛玩犬になる。 いい犬だ。整った毛並みを見れば大切にされていることがわかるが、辺りに飼い主らしき姿はない。 「屋敷を抜けだしてきたのか? それもいい。人生には冒険が必要さ」 男は新聞に目を戻した。 「えーと……、叔父夫婦は財産を娘に渡すまいとして何度も恥ずるべき謀議を重ね、ついに人を雇って卑劣な犯罪を実行に移した……か。ひでぇ話だな。お前もそう思うだろう?」 新聞から目を離さず、傍らの犬に声をかけた。 「ふーん……娘の名はシルヴィア。飼われていた犬は行方知れずのまま、か」 ボストンテリアが「ワン」と一声、短く吠えた。
男が立ち去った後も、犬はその場に佇んでいた。ボストンテリアは二度と吠えることなく、ときおり「クーン」と悲しげに啼いた。
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