できるだけ雨に当たらないように、僕は段ボール箱の蓋を斜めに倒して、屋根を作った。 その隙間の暗がりから、子犬は悲しそうな大きな目で僕を見上げている。 「ごめんよ。僕んちでは、もうきみを飼えないんだ」 僕はもう一度、袖で涙をぬぐった。 僕たちの上に、ピンク色の円い影ができた。顔を上げると、カナちゃんが傘を差しかけてくれている。 カナちゃんも、目が真っ赤だ。 「さあ、もう行こう」 僕は後ろ髪を引かれるような思いで、立ちあがった。街灯のそばを通らないようにして、公園を出る。誰かに見つかるとまずい。そのためにわざわざ、人通りの少ない雨の夜に決行したのだから。 二年前から、僕たちの国では「犬税」というものが導入された。「政府は、税収を増やすためなら、なんだってやるんだ」と父さんは怒ったように言っていた。飼い犬一匹につき月額1万5000円の税金は、犬を飼っている家庭に重くのしかかり、人々はどんどんと犬を捨て始めた。 それを防ぐために、また新しい法律が作られ、捨て犬をした人は「五十万円以下の罰金と二年以下の禁固刑」というおそろしい罰が加えられることになったらしい。 僕たちの家でも犬を一匹飼っていたが、10歳という年寄りなので、がんばって最後まで面倒をみようということになって、母さんは犬税を払うためにパートに行く日を増やした。 まさか、そんな年寄り犬が赤ちゃんを産むなんて思っていなかった。 このご時世で、他の二匹は奇跡的に引き取り先を見つけた(そのひとりが、三丁目のカナちゃんだ)が、最後の一匹はどうしようもなかった。 それで、法律を犯して、僕は子犬を捨てに来た。僕ならば未成年だし、見つかっても補導ですむからだ。 だけど、本当は僕はこの仔を捨てたくなかった。わずか二週間のあいだだったけど、ミルクをやったり、いっしょの布団で寝たりして、ものすごく可愛くなっていたんだから。 「ユウトくん、元気を出して」 カナちゃんは傘を差しながら、僕に肩をぎゅっと押しつけてきた。僕もぎゅっとカナちゃんに体を押しつける。 カナちゃんと角のところで別れたあと、僕はとぼとぼと家に帰った。 母さんは、僕の顔を見ても何も言わずに、タオルで頭をごしごし拭いて、暖かいみそ汁とご飯をよそってくれた。父さんはテレビの前で黙ってビールを飲んでいる。 みんな、辛いのは同じなのだ。 「ユウト」 縁側から、おじいちゃんが僕を呼んだ。おじいちゃんは、六時にご飯を先にすませ、いつもなら、もうとっくに寝ている時間だった。 手招きにこたえて近づくと、おじいちゃんは、入れ歯をはずした口をにっと上げて、ないしょ話の声で言った。 「子犬を、もう一度拾っておいで」 「どうして?」 「じいちゃんが、飼うお金を出してやる」 「だって」 僕は、ばくんばくん言い始めた心臓の音よりも、大きく叫んだ。「登録料が三万円、それに月に一万五千円もかかるんだよ」 「少しは貯金がある。それに毎晩のお酒を二日にいっぺんにするよ」 「まあ、おじいちゃん。そんな」 母さんは、目をぱちくりさせている。 父さんはリストラの後の再就職で、お給料が半分になってしまった。だから年金をもらっているおじいちゃんが、この家で一番お金持ちなのだ。家族は誰も、おじいちゃんの言うことに反対しない。 いつもは頑固で、ちょっとケチなおじいちゃんなのに、その日はまるで仏さまのようだった。 「さあ、早く拾っておいで。でないと、ワンコが風邪をひいてしまうよ」 僕はとても困って、父さんの顔を見た。 「行ってこい」 僕はその声を聞いたとたん、鉄砲玉のように傘もささずに飛び出した。 おじいちゃん、おじいちゃん、ありがとう。 僕は心の中で、何度も礼を言いながら、公園に向かってひたすら走った。
その日から、コロは正式に僕の家の家族になった。 コロの散歩は、僕の日課だ。カナちゃんはコロが戻って来たことを一番喜んでくれた。僕はときどきカナちゃんのうちに行って、もらわれていった妹とコロとを遊ばせてやった。カナちゃんもときどきは遊びに来た。母犬と二匹の子犬はとても楽しそうにじゃれあい、おじいちゃんは縁側に座って、にこにこしながらその様子を見ていた。 ときどき、制服を着た人がやって来た。「犬虐待防止協会」の人だという。 「それぞれの飼い犬手帳を見せてください」 予防注射を受けているか。散歩は毎日させているか。食事は健康によいものを食べさせているか。 近所にも聞き込みをして、そういうことを定期的にチェックするのだという。これも、やはり犬税ができてから、始まった制度だそうだ。 「結局、税金を使って、天下り用の外郭団体が増えただけだ」と、父さんはとても怒ったように言っていた。 「子犬のほうに、少し皮膚病ができているようですね」 と、係の人は冷たい声で言った。「きちんと獣医に見せてください。来月の訪問日までに必ず行くように」 「はい、わかりました」 法律で、すべての犬は「せいふかんしょうの健康保険」に入ることが決まっているそうだ。年に一度は、健診のためにドッグドックに入ることになっている。 しばらく僕たちには、幸せな日々が続いた。 ある日、僕が学校から帰ってくると、家の中から母さんの泣き声がした。 「昨日まで元気だったのに、どうして……」 足が止まった。今のは、どういう意味だろう? 「どうしたの、母さん」 「入っちゃだめだ! ユウト!」 「え?」 後ろ手にふすまを閉めて、父さんが般若のような顔をして出てきた。 「友だちのところに遊びに行っておいで。あと二時間は帰ってくるんじゃない!」 「わ――わかった」 僕は友だちと暗くなるまでキャッチボールをして、それから家に帰った。 次の日からは、いつもと似た毎日がまた始まった。 だが、父さんも母さんも口数が少なくなり、父さんは、ほんのちょっぴりお酒の量が増えた。 そして何よりも、縁側はしんとしていた。 「おじいちゃんは、ごはんを食べないの?」 僕の質問に、ふたりともギクリと肩のあたりをこわばらせた。僕は、聞いてはいけないことを聞いてしまったことを知った。 「少し具合が悪いので、部屋で食べてるのよ。あんたも、おじいちゃんの部屋に入っちゃだめ。いいね」 僕は何かを言おうとしたが、こっくりうなずいた。頭がもやもやとして、うまく考えられなかった。 役所の人は、それからも定期的に犬のチェックにやってきた。 「母犬が少しビタミン不足のようですね。食事に気をつけてください」 「はい」 カナちゃんが遊びに来たいと言ったが、僕は断った。 少し前に来たときに、「ユウトくんの家、少しくさいね」と言われたのだ。だから、僕がカナちゃんの家にコロと遊びに行くことにしている。 おじいちゃん、ありがとう。それからごめんなさい。 コロと母犬とこうやって幸せに暮らしていけるのも、おじいちゃんのおかげです。
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