[42] レアクリース物語 第1節「邪悪の瞳」 第5章A |
- 健良 - 2004年11月03日 (水) 11時45分
だが、それが失敗だった。アルファルファはその打撃を止めることができず、後方へ吹き飛ばされた。ずたずたになった盾を捨てると、アルファルファは立ち上がる。
「どうした、エルフ。命乞いをしないのか。ここにはもう、私を倒せるものはいないのだ。あの黒髪の女エルフも、もうここにはいない」
アルファルファは霊剣を振り上げた。ダ=ライの言葉など耳に入っていない。この邪悪な存在を滅ぼしてみせる。ただ、それだけを考えていた。
ダ=ライを身体に宿らせたドリアンは、斧を続け様にはなってきた。
アルファルファは身のこなしだけでそれをかわし続けていたが、それでも間に合わず、とっさの判断で剣を使ってしまった。斧の一撃がまともに刀身に加わる。剣がしなった。
剣が折れてしまう。アルファルファはそう思ったのだが、実際にはそうならなかった。剣は斧を弾き返し、驚くことに、その反動をアルファルファの腕に伝えてこなかった。この驚くべき現象に、アルファルファは狂喜した。
ダ=ライは唸りながら、さらに斧を振るってくる。アルファルファは積極的に剣を使い、攻撃を逸らした。
ダ=ライの封印は完全に解かれてはいない。だから、この次元に実体化できず、媒体を必要としているのだ。さらに、送り込まれる力は、媒体の肉体的能力によって枷をはめられる。アルファルファは相手の攻撃をかわしながら、漠然とそう思った。
やがて、その推測があながち的外れなものでないことが証明される。ダ=ライは酷く発汗していた。この狂人じみた力を発揮するには、ドリアンの身体にかなり負担を与えるのだろう。斧の打ち込みとともに汗が飛び散り、アルファルファの鎖鎧にかかってくる。その打ち込みの激しさも、ほんの僅かづつだが鈍ってきた。
ダ=ライは自由にならぬ身体に苛立ち、動物的な唸り声を上げる。一瞬、動きが止った。アルファルファはその隙を逃さない。素早く、霊剣を振り上げると、斧を目掛けて振り下ろした。斧の刃の部分が切り落とされ、柄だけが手元に残される。
ダ=ライの目が驚きで大きく見開かれる。アルファルファは上段にかまえ、もう一撃加えようとした。
だが、一瞬の驚愕から立ち直ったダ=ライは、手に持った斧の柄をアルファルファの顔に投げつけた。アルファルファはそれをしゃがんでよける。
ダ=ライは素早く間をつめ、アルファルファの腹部に強烈な蹴りを放つ。鎖鎧はその打撃を弱めてはくれなかった。
アルファルファは苦痛に呻きながら後退する。胃液が口の中に溢れてきた。アルファルファには、剣を取り落とさずにいるのがやっとだった。
「エルフ一匹殺すのに、武器などいらぬ。素手で十分だ」
ダ=ライは苦痛でふらふらしているアルファルファの身体に組み付き、高々と持ち上げた。背中に回されたドリアンの両手は、鎧の上からアルファルファの胴を締め上げた。
アルファルファはその苦痛に絶叫する。横角膜の動きが阻害され、呼吸をするのが難しい。頭が朦朧としてきた。
その時、視界の隅に霊剣の輝きを捕える。アルファルファは本能に導かれ、霊剣を逆手に持ち変えると、それをドリアンの左肩に対して直角に突き差した。
ダ=ライは苦痛で呻き声を発し、アルファルファの腹部に歯を立てる。それは鎧を突き破り、彼の身体に到達した。それにもかまわず、アルファルファは右手に力を込め、さらに左手を添えて剣を相手の身体に埋めていった。
ダ=ライはアルファルファを締め上げる力を弛めなかったが、剣がちょうど半ばまで埋まったとき、苦痛に耐えきれなくなったのか、アルファルファを放り投げた。ダ=ライは狂おしく、剣を引き抜こうとするが、霊剣はびくともしなかった。
霊剣“キールアークラ”は燦然と輝き、今や自分の意志でドリアンの身体の内部へと突き進んでいった。ダ=ライは大声で喚きながら剣を抜こうと必死になり、地面の上を転げ回った。断末魔の叫びを放つ。この世のものとは思えぬ、恐ろしい叫び声。
霊剣は刀身の全てが埋まったところで動きを止めた。ドリアンの首にかけられた宝石が一瞬強く光るが、すぐに消えてしまった。全ての動きが止り、重い沈黙が横たわる。
アルファルファは呼吸を整えながら、変わり果てたドリアンの身体に近寄った。彼は死んでいた。以前の特徴を全て失って。これが、悪魔に魂を売った者の末路なのだ。
アルファルファはドリアンの身体から“キールアークラ”を引き抜いた。その純白の刀身には曇り一つ付いていなかった。これも純粋な力なのだ。そんなことを考えながら、アルファルファは霊剣を鞘に収めた。
ドリアンの首にかかったルビーに目をやる。今はもう、少しも発光しておらず、ただの巨大なルビーにしか見えなかった。
これが全ての源凶だった。ここに残しておく訳には行かない。アリアトリムに保管されるのが一番安全だろう。まだ首都には、ファラドーラスがいるはずだ。彼女に手渡せばいい。
そう思って、ドリアンの身体の上にかがみこんだ瞬間だった。突然、何かが風を切る音が聞こえ、胸に重苦しい痛みを感じた。
アルファルファは痛みに叫びを上げようと息を吸い込んだが、そうできなかった。身体のどこかで空気漏れのような音がして、気管を伝って泡状になった血が口まで昇ってきた。半狂乱になって自分の身体を見下ろすと、左胸から矢が突き出ている。
アルファルファは鎖鎧の重さに耐えられなくなり、数歩さがると膝をつき、それから仰向けに倒れた。視界には醜く変わり果てたドリアンの死体が入っている。その向こうから、ひとりの人物が歩いてきた。
「少し、上にそれたな。射的はあまり得意じゃないんだ」
アルファルファはその声の主を見て、心臓の凍る思いをした。この男は自分の影だった。アルファルファがライアードの影であったように、この男はアルファルファの影だった。
男は細かな金属片を鱗状につなげた鎧を着ており、その手には石弓を持っていた。そして、もっとも特徴的なのは、男の肌が灰色であるところだ。赤味のささない不健康な灰色。
この男はクルディストリドの妖魔、ダーク・エルフだった。
ダーク・エルフはドリアンの身体に歩み寄ると、その首から“ダ=ライの右目”を素早く外した。彼はドリアンの身体をニ三度爪先で小突くと、ふんっとつまらなそうに鼻を鳴らし、その冷酷な光を宿す琥珀色の目をアルファルファに向けてきた。
「まずは、おめでとうと言わせてもらおうか、いとこ殿。いささか、あっけない幕切れではあったがな。テスト・ケースとしては上々だ。興味深い資料がたくさん集まった。感謝しよう」
ダーク・エルフの言葉には物凄い皮肉と嘲笑、あざけりが込められていた。
「この愚かな男でも、ここまでできた。本当は、あまり期待はしていなかったんだがね。君の存在も、予想外だった。アリアトリムも、ライアードの死で諦めると思ったんだが。彼らのしぶとさには、毎度のことながら感服するよ。君の不屈の闘志にもね。君のおかげで、ダ=ライが自力で復活するには、また百年はかかるだろうな。だが、我々はそれまで、手をこまねいているつもりはない。この意味は解かるな、いとこ殿」
アルファルファには良く解かっていた。解かり過ぎるほどだ。
「顔色が悪いな、いとこ殿。どこか調子でも悪いのか」
ダーク・エルフはアルファルファの顎の辺りに足を乗せると、少しずつ力を込めた。この男は狂っている。頭を開いてみれば、ただ狂気となづけるのが惜しいほどのものが山ほど詰まっているに違いない。
いや、本当に狂っているのは自分の方なのかもしれない。これは、狂気の見せる夢だ。アルファルファは乗せられた足を退かそうと手を動かしたが、相手の長靴に弱々しく触るのが精一杯だった。
「これほどの苦痛に耐え、なお生に固執するとは。まさしく、生命の神秘というやつだ。まったく、惚れぼれする」
ダーク・エルフはアルファルファの顔をのぞき込んだ。琥珀色の瞳がアルファルファの脳を射抜く。
「まだ息があるか、いとこ殿。ほう、すごいものだな。よし、私の名を教えてやろう。私は、ソルカム・ダカ・イーグラ。良く覚えておくがいい。お前たちの信じている冥府への、通行証くらいにはなるかもしれん……」
アルファルファは力尽き、気を失った。
メリアセリアス遊撃隊によるフサ騎士団の崩壊、アルファルファによるドリアンの死によって、フサの兵士たちは自分たちの敗北を悟った。
余力のある兵士たちはフサを目指して退却し、逃げきれなかったものたちは武器を捨てて投降した。
メリアセリアスの騎兵は、フサの残存兵を掃討している最中に自分たちの総指令官が左胸に矢を受けて倒れているのを発見した。アルファルファにまだ息が残されているのを知ると、すぐに治療師たちが呼ばれ、彼の回復に全力を尽くしたが、手遅れであるのが解かっただけだった。
彼は薬によって延命され、彼の村まで運ばれることになった。半日かかって自分の家に戻ったとき、アルファルファは仮死状態になっていた。
治療師たちは彼の両親に彼の身体を届けると去っていった。家には村中のエルフが集まってきた。この変わり果てた英雄を悼んで……
アルファルファの傍らに跪いていたソニアが、半狂乱になって胸に刺さった矢を抜こうとした。彼女は知らせを聞いて駆け付けていたファラドーラスに叱責を受ける。
「やめなさい、ソニア。彼の肺をずたずたにしてしまう」
「治療師はどこ。いったい、どこにいったの。この人を置きざりにして。彼は死んでしまうわ」
ファラドーラスはソニアの肩に手を置きながら、力強い声で言った。
「治療師には彼を助けることはできないわ。でも、“緑”の魔術師ならできるかもしれない。ソニア、あなたはお湯を沸かしてきてくれないかしら。彼の身体を暖めておかなくては」
ソニアはファラドーラスに促されて部屋を出ていった。ファラドーラスは窓を開け、家の外にいる群衆に向かって叫んだ。
「アルミラ、アルミラはここにいますか」
「はい、ファラドーラス師。ここです」
家の外の群衆の中から、ほっそりとしたエルフの女性が人をかき分けて最前列に出てきた。
「アルミラ。あなたは意識を飛ばして、アリアトリムに連絡をつけてちょうだい。私の名をだして、“緑”の魔術師をその場にいるだけよこすように言うの。彼らが“跳んで”くるのに必要な“印象”は私が送ります。できるわね」
アルミラはうなずくと、この仕事に必要なものを取りに家に駆けていった。
「ファリナ」
ファリナは答えなかった。息子の哀れな姿を茫然として眺めている。ファラドーラスはもう一度呼びかけたが、聞いている様子はない。ファラドーラスはファリナに歩み寄ると、ニ三度、彼女のほほをはたいた。
「ああ、ファラドーラス。私の、アルファルファが……」
「しっかりするのよ、ファリナ。あなたの可愛い坊やはまだ死んじゃいないわ。これから私達で、死の淵から呼び戻すのよ。“緑”の魔術師がここに“跳んで”くるには鮮明な“印象”を与えなければならないの。それには、あなたの水晶球が必要なのよ。私のはここにはないの。解かるわね。水晶球を取ってくるのよ。アルフィード、あなたもついていって」
アルファルファの両親は部屋を出ていった。部屋には仮死状態のアルファルファと、ファラドーラスだけが残された。
「坊や、絶対に死なせやしないわよ。あなたは英雄になれて満足でしょうけど、残された人たちの気持ちはどうなるの。少なくとも、私より先に死ぬのは絶対に許さないわ」
ここは温かかった。先程までの凍えるような寒さは、どこかにいってしまった。ここで生活するなら外套はいらないだろう。ここが忘却界なのだろうか。まるで、メリアセリアスの春のように温かい。
顔に何か触れている。耳にかかる部分でさらさらと音が鳴る。
微かな香り……。いい香りだ。これには覚えがあった。確か……ソニアの香りだ。アルファルファは途端に嬉しくなった。ここで暮らしていくことになっても、ソニアを思い出す縁となるものがあるのだ。
何を思い出すって。ここは忘却界ではないか。いずれすべてを忘れ去って……ソニアのことを忘れるって、いったいどんなだろう。ひどく悲しいことに違いない。自分はその喪失に耐えられるだろうか。
アルファルファは自分が右手に何か握っているのに気がついた。それは熱く感じられたが、不快ではない。なにかこう、力付けられるような感じがした。あの最後の戦いで“キールアークラ”が放ったようなそんな。
アルファルファはそれを失ってしまうことを恐れて、強く握り締めた。驚いたことに、そのものはアルファルファの手を締め返してきた。
雨かな。顔に水滴がかかる。雨はあまり好きではなかった。雨上がりの爽やかな空気を思いっきり吸い込むのは好きだったけれども。それにこの雨は少し塩からい。
「アルファルファ、アルファルファ」
名前を呼ばれた。その声は愛する人のものだった。涙声に聞こえる。何が悲しいのだろう。僕が死んだことだろうか。
ここはどうして暗いんだ。他の感覚はあるのに。アルファルファは自分が目を閉じていることに気がつき、おかしくなった。これじゃ何も見えるはずない。
アルファルファはゆっくりと目を開いた。目の前に誰かいる。目が酷くかすんで、良く見えない。もう一度目を閉じる。執拗に自分を呼ぶ声。目を開けた。少し苦労して焦点を合わせる。ソニアがのぞき込んでいた。目を赤く腫らして。
「ああ、ソニア。僕は喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか解からないよ。あんなにまでしたのに、君が死んでしまうなんて。どうして泣いているの」
「アルファルファ、アルファルファ。あなたは死んでなんていないわ。私達は生きてるのよ。ファリナ、ファラドーラス、来てください」
生きてる。自分も、ソニアも。アルファルファは身を起こそうとして、胸の痛みが消えているのに気がついた。ソニアが手を貸してくれる。両親とファラドーラスが部屋に飛び込んできた。
両親の心配そうな顔、ファラドーラスの嬉しそうな顔。それが再び見られるとは思っていなかったのに。
「僕は、どうなっていたのです。確か、胸に矢を受けて……」
ファラドーラスが戦場でアルファルファが発見されてからのことを詳しく話してくれた。
「ご迷惑をかけました、ファラドーラス」
「ほんとに迷惑だったわ、アルファルファ」
「ファラドーラス、彼をいじめないで。まだ回復しきっていないんですから」
ソニアの言葉にファラドーラスが楽しそうに笑う。
「ええ、そうね。お説教は、また今度にするわ」
アルファルファは気になっていたことを口にだす。
「“ダ=ライの右目”はどうなりました」
「行方知れずよ。フサの城をくまなく探したけれど、見つからなかったわ」
「それはそうでしょう。ドリアンが身につけていたんですから」
「まさか。だって、あなたの倒れていたところからはドリアンの、あれがそうだなんてちょっと信じられないけど、死体が一つと、“キールアークラ”、それと壊れた斧しか見つからなかったわ」
「すると、あのダーク・エルフは夢ではなかったんだ」
「ダーク・エルフですって」
アルファルファは死闘の後で起こったことを話した。
「それで、説明がつくわね。ダーク・エルフが係わっていたなんて。ドリアンがどうやって“右目”を手にいれたのかは調べがついていたのよ。ただの宝石として宝石商の間で取引されていたのを、彼が買い取ったの。謎だったのは彼がそれを“ダ=ライの右目”だと、どうやって知ったのかだったのよ。あれはちょっと特殊なものでね、常態では魔力をほとんど出さないから、鑑定が難しいのよ」
アルファルファが疑わしそうな顔をしているのを見て、ファラドーラスが吹きだした。
「アルファルファ、そんな顔しないで。私は、常態では、っていったのよ。それにあなたが相手にしたのは封印の魔力ではなくて、ほころびからこぼれでてきたダ=ライの魔力よ。そのほころびも、あなたが繕ってしまったけれど。ほんとによくやったと思うわ」
「あのダーク・エルフはどうするのです」
「放ってはおけないわ。私が報告すれば、“赤”の魔術師たちが追跡を始めるでしょう。それにしても、百年毎にこんな騒ぎが起こるんじゃたまらないわ。次は二百四十歳よ。私だって、扱き使われるのはまっぴら。静かな老後を送りたいわ」
これにはこの場にいた全員が笑った。ファラドーラス本人も。
「そろそろ、おいとましようかしら。評議会に呼び出しを受けているの。アリアトリムにも報告しにいかなきゃならないし。ファリナ、ソニア、彼を頼んだわよ」
ファラドーラスは部屋をでかけるが、戸口で振り返ってこういった。
「坊や、治るまでおいたしちゃだめよ」
「僕は子供じゃありません、ファラドーラス」
ファラドーラスは微笑んだ。
「あら、アルファルファ。あなたは私達の可愛い子供よ。親子の関係はね、時の流れくらいで、逆転したりしないものなのよ。だから坊や、親より先に死ぬなんて、そんな親不幸なことをしちゃいけないの。ファリナを泣かせちゃだめよ、アルファルファ」
そういって、笑いながら、ファラドーラスは行ってしまった。
「父上、母上。心配をかけて、本当にすみませんでした。少し、自暴自棄になっていました。あんなに無理な攻め込みをしなくてもよかったんです」
「いいや、お前の判断は間違ってはいなかったよ。ドリアンは、身の危険を感じたら逃げてしまっただろう。あれは狡猾な男だった」
アルファルファはうなずいた。ソニアに向かって微笑む。アルファルファの右手は、まだ彼女の手を握っていた。
「君が看病してくれたのかい」
ソニアは答えようとしたが、声にならなかった。涙が溢れてくる。ただ、黙ってうなずくことしかできなかった。
「ずっと、彼女が診てくれていたんだ、アルファルファ。私達は、食事のたびに、彼女をお前から引き離さなくてはならなかった」
父の言葉には、彼女への感謝と思いやりが込められていた。それを知って、アルファルファは嬉しくなった。
「ソニア、ありがとう」
彼女はうなずく。
「母上。僕は、自分の選択が正しかったのか、ずっと悩んでいたんです。いまでも、はっきりしたことは言えません。今回の事件は、僕が魔術師だったら解決できたでしようか。あるいは、政治家だったなら。こんなに大きな問題にならなかったかもしれないし、その逆もありえます。もし、なんて考えるのは無駄なことなんですね。僕は僕です。今の僕が、どれだけ真剣に物事に取り組むか。それが問題なんです。母上、僕は、あなたに誇りに思ってもらえるような、そういう息子になれるでしょうか」
「アルファルファ。あなたは私の、いいえ、私達の誇りよ」
両親はそろってうなずいた。アルファルファは涙が浮かんでくるのを抑えられなかった。今まで悩んできたこと、胸の奥に住み着いていた重り、思うようにならないもどかしさ、そういったものが嘘のように消えていくのが解かった。
愛する人々に囲まれて、今、アルファルファは一番、幸せだった。
アルファルファの回復するまでの一週間というもの、色々なことが起こった。
フサの貴族たちの分裂。ドリアンの死によって、今まで一つにまとまっていた貴族たちは二つに分裂してしまった。戦争継続派と休戦派。
上層部の分裂は、そのまま戦場にも反映し、ニ度の大きな戦闘によって散り散りになったフサ軍は再編成されることなく、メリアセリアス軍に対して小規模な襲撃を繰り返すことしかできなかった。
援軍を送ることに決めていた都市も、アリアトリムの大導師がドリアンの陰謀を通達したことで、いっせいに派兵を取りやめた。この大導師の通達は、支配者たちの背筋を凍らせるのに十分なものだったのだ。
援軍を期待できなくなったことで、フサの貴族会議は一気に休戦に傾いた。貴族会議はメリアセリアスの評議会に特使を送り、その意向を告げた。
評議会はファラドーラスの意見を取り入れ、休戦協定を始める条件として、ソニアをフサの領主に付けることを上げた。
貴族会議は激しい議論を繰り返した後、渋々これを認めた。
「アルファルファ、君の元気な姿が見られてほんとに嬉しいよ」
「ありがとう、ダラス。あなたにも大変世話になりました」
「なに、たいしたことはないさ。君の苦労に比べればね」
「ダラス、本当に、“赤”の魔術師に未練はありませんか」
ダラスはソニアの補佐官として、正式に任命されることになっている。その際、彼は“赤”の魔術師を辞す意志を表明していた。
「結構きつい仕事なんだよ、諜報員は。やりがいある仕事だったけどね。転職先としては、フサの宮廷魔術師も悪くないな。半年間の経験もあるし」
「ソニアをよろしく頼みます。なにしろ、人間社会で初めての、女領主ですから。小さな間違いが致命的にもなりかねません」
「心得てるさ、アルファルファ。彼女は、史上、もっとも優れた支配者になるだろう。この、私がついているんだ。心配ない」
二人は声を合わせて笑いあった。
「ダラス、ソニアのこと、よろしくお願いします。彼女を守ってください。僕の代わりに……」
ダラスは静かにうなずき、アルファルファの肩を軽く叩くと微笑んだ。ダラスは軽い身のこなしで馬に乗る。アルファルファはソニアの近くまで歩み寄った。彼女は深刻な顔をしている。
「アルファルファ。本当に、一緒に来てはくださらないの」
「ソニア。僕は行けない。僕が行っても、君の邪魔になるだけだ。貴族たちのゴシップ好きは身をもって経験したよ。エルフの情夫という噂は、君の得には決してならないよ」
「情夫なんかじゃないわ。私の夫になるのよ。私達、結婚するの。あなたが、フサの領主になるのよ」
「……だめだ、ソニア。エルフは今まで、フサと戦争をしていた。フサの民衆がエルフを領主として迎え入れるわけがない」
「それなら、私は戻らないわ。ここであなたと暮らします。この、メリアセリアスで。それもだめだというの」
「だめだ、ソニア」
「いやよ。私、戻りたくなんかない。領主になんかなりたくない」
「僕だって、行かせたくないんだ。でもソニア、君が行かなくては戦争が終わらない。エルフとの戦争が終わったとしても、ばらばらになった貴族たちは誰がドリアンの後釜につくかで争い始めるだろう。彼らが殺し合うのは、どうでもいいさ。彼らの好きでやるのだから。でも、それに駆り出される民衆はどうなる。多くの罪のない人間が、死んでゆくはずだよ。僕だって、君とここで暮らせたらどんなにいいかと思う。けど、そうすることで、人が死んでゆくと解かっていて、本当に幸せになれるだろうか」
ソニアは黙っていた。顔に浮かんでいた表情が消える。溢れ出た涙がほほをつたって……。
「お別れなのね、アルファルファ」
「ああ」
二人は顔を近づける。アルファルファはソニアの腰に手を回した。ソニアはアルファルファの背中に。三度目の口づけ。それは今までで、もっとも長く、もっとも情感あふれるものだった。
ゆっくりと離れ、しばらく相手の瞳を見つめる。ソニアは馬に歩み寄った。アルファルファは彼女が馬に乗るのを手伝ってやった。
アルファルファは彼女から視線を外すとダラスを見た。ダラスは黙ってうなずき、馬を進めた。ソニアの馬を導いて行く。突然、ソニアが振り返った。
「ありがとう、森の騎士。愛していたわ、アルファルファ。これからだって」
彼女は叫んだわけではなかったが、その声はアルファルファの耳の中で大きく響いた。アルファルファは彼女が木々に隠れて見えなくなってからも、長い間、その方向を眺めていた。アルファルファはつぶやく。
「さよなら、黒髪のソニア。僕の愛しい人」
五日後、フサの新領主誕生の知らせが届いた。
フサ領主ソニアは即位後すぐに、メリアセリアスとの休戦協定を結んだ。メリアセリアスから提示された賠償金額は莫大なものだったが、フサ側はそれをのみ、五年がかりで支払うことになった。
戦争で疲弊したフサにとって、それはかなりの経済的負担となるはずだが、今まで軍事費に当てられていた予算を削ることで何とか支払えると見込まれていた。その辺りは司政官ダラスがそつなくやってゆくだろう。
三箇月たったある日、評議会でフサとの貿易が再開されることに決まり、フサから特使がやってきて、新たな通商条約が結ばれるという噂が、アルファルファの耳にはいった。
アルファルファは、友人に会うために首都に向かった。フサからやってきた特使、かつての“赤”の魔術師で、現在はフサの女領主ソニア・ハーウィックのもっとも忠実な腹心、ダラス・ラノール・ロウマンに。
〜第1節完〜
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