[28] レアクリース物語 第1節「邪悪の瞳」 第2章 |
- 健良 - 2004年10月20日 (水) 01時06分
アルファルファは広い草原を見て、軽い感動を覚えた。とうとう森を抜けた。
それは、アルファルファにとって初めての経験だった。広い草原を渡る風は森の木々の間を抜け、花の香を運ぶ爽やかな風とは違った爽快感をアルファルファに与えた。
「こういう広い場所で生活する人々は、広い心を持つようになる。物の見方も広くなるだろうね。遮る物がないから」
「そうとも限らないわ。それに人間は街に住むのを好むし。本当は、街には何ひとつ無いのよ」
「人間にとって街は文化の集う所だって、聞いている」
「頭のおかしな人間の造った文化なんて、ただのがらくたよ」
「でも、昨日の君の歌はすばらしかった。あの中には街の生活を歌った歌だってあったじゃないか」
「他の人には楽しいのかもしれないわ、街の生活が。でも、私には……違うのよ」
ソニアの言葉の激しさに、アルファルファは、なぜ、とは言えなかった。彼女には彼女の悩みがある。そういう事だ。
行く手に目をやると、誰かが立ち止っているのが見える。まだ遠く、何人いるのかもはっきり言えない。アルファルファとソニアは特に急ぐでもなく、その方向に進んでいった。
やがて、相手を視認できる位に近づく。人数は三人。人間の男だ。それぞれが馬にまたがり、それ以外に一頭、荷役用の馬をつれている。
アルファルファが相手に声をかけようとしたとき、逆に相手がこちらに声をかけてきた。
「これは、これは。ソニア姫ではありませんか。このような所で、なにをしておいでで」
男はソニアを姫と呼んだ。姫とは、領主の娘に付けられる称号だ。アルファルファはいささか驚いてソニアの顔を見る。
「そこをお退き。私達は急いでいるのです」
男はソニアの高圧的な態度にも怯まなかった。反対にそれを笑いとばす。
「それはできませんな。ドリアン様は、あなたを見つけしだい拘束せよと命じられました。私達と一緒に来てもらいます」
ソニアと男達の間に、アルファルファが割ってはいる。
「僕の仕事は、このご婦人を安全な街まで送り届けることだ。ここであなた達に引き渡すわけにはいかない」
男はアルファルファを凶悪な目で睨み付ける。
「守護騎士気取りは止めたほうがいいぞ、エルフの若造。このまま立ち去ればよし。さもなければ、お前もあの積み荷のひとつになる。エルフの剥製なんて、さぞかし高く売れるだろうさ」
アルファルファは荷役用の馬の背に積んであるものを見て驚いた。動物の毛皮だ。この男達は密猟者だったのだ。男達は、アルファルファの表情を恐怖だと思ったのか、大声で笑いだした。
「どうやら解かったようだな。おい、姫様をお連れしろ」
今まで話していた男が仲間の一人に命じた。命令を受けた男がソニアに近づいて、彼女の馬の手綱をつかむ。
「その手を放せ」
アルファルファは怒鳴りながら男に飛び掛かった。二人は縺れ合ったまま、地面に転げ落ちる。男はアルファルファを突き飛ばすと、立ち上がって剣を抜いた。アルファルファも男が切りかかってくる前に、何とか剣を抜くことができた。
怒り狂ってやみくもに剣を振るう男は、訓練を受けた、アルファルファの剣術の敵ではなかった。いちにど剣を交えた後、相手のがら空きになった胸を目掛けて剣を突き出し、相手を倒す。
「ぐずぐずするな、次はてめえだ」
指揮を取っている男が、残りの一人をアルファルファにけしかけた。今度の相手は頭に血が昇っていない分だけ手強かったが、力任せに剣を振るってくるだけだったので、少し揺さぶりをかけた後、相手の右手を切り飛ばした。利き腕を失った男は、命乞いをする。
「なかなかやるな、エルフ。だが、俺に勝てるか」
最後の男は実に油断のならない相手だった。体格はややアルファルファに勝り、その動きは素早かった。まともにやり合えば、力負けするのはアルファルファの方だ。
その上、相手の時々見せるまやかしの動きは、この男が正式な訓練を受けていることを示し、アルファルファより場数を踏んでいることが解かる。なにしろアルファルファにとって本当の命の取り合いは、これが初めてだったのだ。アルファルファは、少しづつ追い詰められ、焦りを感じ始めていた。
「動かないで」
突然起こった叫び声に、二人の男の動きが止った。アルファルファは振り向く。ソニアだ。ソニアが石弓をかまえている。それは、アルファルファの馬の背に括り付けられていたものだ。
「動かないで。さあ、あなた。アルファルファから離れなさい」
「ソニア姫。弓を下げてください。どうせ、当たりはしない」
「どうして、あなたにそんなことが言えるの。どうして、私が弓の訓練を受けていないとあなたに解かるの。貴族の代表的な趣味の中に、狩りというのが含まれているのを、あなたは知らないのかしら」
男はソニアと、彼女の持っている石弓を睨み付けた。本当か、出任せか。どうにも判断がつかないようだ。ソニアはさらにたたみ掛ける。
「さあ、そこに倒れている男をつれてさっさとお行き。でないと、あなたの身体に矢を打ち込むわよ」
ソニアが引き金に軽く力を込めるのを見て、男は退散する決心をした。
「エルフ。お前の名前は、アルファルファだったな。覚えておくぞ。貴様を血祭りに上げるのは、この俺だ」
そう言って、男は負傷している仲間を鞍の上に押し上げると、自分も馬の背中にまたがる。
「お前の名前は」
アルファルファの問掛けに、男は振り返って答える。
「俺は、ガルベール。俺は貴様らエルフの呪いなど恐れはせん」
そう言い放つと、ガルベールとその仲間は走り去っていった。
アルファルファは自分の殺した男の側に行くと、剣を地面につき立て、その場に膝をついた。今や地面は、アルファルファが男の胸に開けた傷あとから溢れ出てくる血によって黒く染まっていた。
「ライアード師は、僕に警告してくれたよ。初めて命を奪うとき、心が物凄い寒さに襲われるって。僕は解かったつもりでいた。でも、でもこれは……予想以上だ」
アルファルファには、ソニアが静かに近づいてくるのが解かった。
「アルファルファ。仕方なかったのよ……」
アルファルファは顔を上げる。ソニアは彼の緑色の瞳の中に、狂気に彩られた恐怖を見たような気がした。
「本当にそうだったのか。僕は密猟者達と同じになってしまったのかもしれない。僕に、この男を裁く権利があったのだろうか」
ソニアはそれに答えなかった。彼女は石弓を地面に置くと、アルファルファの首の後ろに手を回し、優しく抱きしめる。ソニアはアルファルファが永遠に、彼女が好ましく思った快活な心を失ってしまうのではないかと恐れた。
「アルファルファ。優しい人。その痛みを感じていられるかぎり、あなたは人でいられるわ」
ソニアの声が、温かい身体が、優しく髪を透く手が、アルファルファの凍える心を救ってくれた。
自分が最初の一歩を踏みだしてしまったことを、アルファルファははっきりと理解した。自分は剣の道を進んでゆくのだ。次はもっと手早く、さらに冷酷に、相手の命を奪うのだ。その次も、その次も。戦いに生き残る限り。やがて、自分を倒すべく運命づけられた誰かが目の前に立ち、この胸に剣を埋めるまで。
それは、剣を持ち続ける限り、避けられぬ宿命だ。
アルファルファは自分が剣術を学びたいと言ったときの、母の目を思いだした。そこに宿るのは悲しみ。それは決して、彼女の夢が破れたための悲しみではなかった。あれは、自分の息子の行く末が定まったことへの悲しみだったのだ。そう、母はすべてを知っていたに違いない。あれほど、賢明な人なのだから。
命を奪うことへの痛みを感じていられるかぎり、自分は獣ではなく、人でいられる。今はただ、そのソニアの言葉を信じていたかった。
二人は焚火を囲み、燃え上がる炎を見つめていた。昨夜の約束ははたされることなく、無言の時間が過ぎ去ってゆく。
「私を守って、アルファルファ」
アルファルファは、ソニアの声の中に切迫した調子が含まれているのにびっくりした。
「僕は君を守るよ。フサに着くまで。たとえなにがあっても。それが、ガルベールと言う男ともう一戦交えることでも」
ソニアは激しく首を振った。
「違う、違うわ。私の言っているのは、街までのことではなくて、街に着いてからのことよ。私を送り届けたあと、あなたはすぐに村に戻らなくてはならないのかしら」
「僕の仕事は、森の警備だった。僕がこの仕事に回された理由のひとつは、森の警備のための交代用員がたくさんいたことなんだ。だから、すぐに戻らなければならない理由はない」
「なら、私を守って。お願いよ」
「どうしたんだ、ソニア」
私にはアルファルファが必要なのだ。彼にはすべてを話そう。ソニアは、今こそ、そう決断した。
「アルファルファ、聞いてちょうだい。私は、先代のフサ領主の娘なの」
ソニアはそう切り出して、自分の身の上を語り始めた。彼女の父親は先代のフサ領主、母親もやはりフサの貴族の娘だった。
母親はソニアを産むとすぐ、お産が原因で死んだ。もともと体の丈夫な人ではなかったという。父親はソニアを立派な女性にしようと、あらゆる教育を彼女に施す。彼女の気持ちなどまったく考慮されなかった。
その教育は、いずれ自分の後を継がせる男の妃に相応しいと思われる物をすべて含んでいた。それは、ソニアの父がそう考えたのであって、本当に相応しいものなのかは誰にも解からないだろうと、ソニアは考えていた。
そんな厳しい父も、昨年の冬、半年間患っていた病が原因で死んでしまった。その死について、ソニアは未だに疑問を抱いていた。発病してからの半年間、父の衰弱の仕方は凄まじかった。レアクリースの各地から治療師を呼び寄せたが、誰一人として、病名さえ特定できず、手を付けることができなかった。
父の死後、かかりつけの薬剤師が変死をとげ、ソニアの疑念はますます増した。しかし、それをどこにも訴えられないうちに、伯父のドリアンが爵位とフサの統治権を受け継いだ。ソニアの父親が後妻をとらず、嫡男をもたなかったためだ。
伯父はソニアを自分の養女としたうえで、さらに自分の権力を固めようと、彼女を政略結婚の駒にしようとした。ソニアはそれを知ると、すぐに逃げ出した。追手をまくために街道を避け、二日の間、草原をひた走った。それでも、伯父のよこした追手をまく事ができず、ソニアは森の中に逃げ込んだ。
そうしてやっと、追手をまく事ができたが、ソニアの馬ははり出した根につまづいて転倒した。落馬したソニアは、昏睡しているところをアルファルファに発見されたのだった。
「私は、政治の駆け引きの駒にされるのが嫌でならなかった。父の生前は、あなたのように面と向かって、嫌だとは言えなかったけれど。父を困らせたくなかった。父は私のせいで、母を失ってしまったんですもの」
その父の死後、今度は伯父にいいようにされるなんて、さらに嫌なことだと、ソニアは言った。結婚ぐらい自分の意志でしたい。そう彼女は思っていた。
「君を拒む男なんて、ほとんどいないだろう。命にかえても、欲しいと望む者はいても。だからといって、相手の男が君に釣り合うほど立派な男だとは限らない。だいいち、愛しあっていないもの同士が結婚するなんて、不自然だ」
「あなた達にとって不自然なことでも、私達の間では当然のように行なわれているのよ。貴族の娘として生まれた女性は、まるで相手の男の薬指にはまる宝石か何かのように、削られ、磨かれていくわ。そして、自分の意志さえ持たず、嫁ぐ相手も選べず、まるで命を持たない物のように、親に都合のいい相手に渡されるの。嫁いだ後も、相手の男には逆らえず、好きでもない男の子供を産んで、育てて、疲れ切って死んでゆくのよ。そんな生活のどこに、喜びを見いだせるというの。私達は希望をもってはいけないのかしら。そんなの、私には耐えられない」
ソニアの最後の一言は、ほとんど叫び声に近かった。
「私には、はっきりと解かったのよ。あなたに教えられて。私は私。誰の複製でもないの。今まで私は、自分が父に造られた母の複製だって信じていたのよ。でも違う。絶対に違うわ」
アルファルファは静かにうなずいた。ソニアが同意を必要としていたからだ。アルファルファにはそれが解かった。
「すると君は、街へ戻らないつもりなのかい」
ソニアは首を左右に振る。彼女の黒い瞳に絶望がうかがえた。その声は静かで、微かに震えている。
「いいえ。伯父は私をどこまでも追うわ。私は伯父と対決するつもりです」
アルファルファはソニアの顔を見つめた。彼女はすぐに顔を逸らしてしまう。伯父と対決すると行っても、勝算は薄いのだろう。彼女がどんな手段を取るにせよ。それでも、もうすでに、アルファルファの心は決まっていた。
「君を守る以外にも、僕にはフサに留まらなければならない理由がある。ガルベールの言葉は、密猟者と君の伯父上が結びついていることを示していた。それが事実かどうか、確かめる必要がある」
アルファルファに向けたソニアの顔に、涙が浮かんでいた。今度はそれを隠そうとはしなかった。
「でもひとつ問題がある。街についた後、僕と君が一緒にいられるとは思えないんだ。君たちの社会では、僕の身分などないに等しい。でも君はお姫様だ。いったい、この差をどうやって埋めたらいいんだろう」
ソニアは笑いながら、指であふれてくる涙を拭った。
「その答えは、あのガルベールと言う男が教えてくれたわ。あなたが私の、守護騎士になるのよ。お嫌かしら、アルファルファ」
アルファルファはあっけにとられていた。エルフである自分が騎士になるなど、冬のデニス・クロウディア山脈を越えて、ダーク・エルフの里、クルディストリドに忍び込むより難しいと思っていた。
「エルフが騎士になれるわけない。権利がない。それに、任命権を持つものがいない。だから、叙任式も行なえない」
「騎士となる資格には、人間でなくてはならないなんて、含まれてはいないのよ、アルファルファ。権利についてだけど、あなたは私を助けてくれたわ。それで十分よ。私は、今の領主の養女だから任命権も持ってる。暫定的なものだけれど。叙任式なんて簡単なものよ。主に忠誠を、己に誓いを立てればいいの。この時立てた誓いが破られると騎士の位は失われ、二度と騎士になることができなくなってしまうわ。だから、十分注意して」
アルファルファにはまだ信じられなかった。
「本当に、騎士になれるのか。本当に」
「本当に、本当よ。納得できたら、あなたの剣を貸してちょうだい」
ソニアはアルファルファの当惑ぶりを面白がっていた。だがこれは、ソニアにとってもひとつの賭けだった。エルフが騎士になることを明確に禁じていないのは、騎士になろうとするエルフなど今まで一人もいなかったからだ。
アルファルファを騎士にしたことに対して伯父はどう反応するだろう。危険な賭けとなるかもしれない。
アルファルファは剣帯ごとソニアに剣を渡す。彼女はその重さにちょっと戸惑った後、たどたどしい手つきで鞘から剣を引き抜く。
「私の側に来て。跪いて」
アルファルファが指示に従うのをみとめると、ソニアは柄をしっかり握り、剣を額に軽く当てた後、アルファルファの左肩に軽く乗せる。
「汝、メリアセリアスのアルファルファは、フサのソニアに忠誠を誓い、これに従うか」
ソニアは静かな声で答えを促す。
「メリアセリアスのアルファルファは、フサのソニアに忠誠を誓い、彼女に従う事を言明する」
ソニアは一度アルファルファから剣を離すと、再び自分の額に当て、今度は彼の右肩に乗せる。
「騎士として、心に刻むべき誓いを。この誓い破られし時、汝は騎士の地位を失い、二度と栄誉を受けることかなわず。誓いの言葉を」
「私は、あなたをいかなる危険からも守ることを誓う。そのために、私自身が死ぬことになっても、私は喜んで生命を差し出す」
僕を暗闇から救ったのは、あなたなのだから。アルファルファは心の中で、そう付け加えた。
ソニアはアルファルファの肩から剣をおろし、持ち変えると柄を先にして、アルファルファに差し出す。アルファルファはそれを恭しく受け取った。
「フサのソニアは、汝、メリアセリアスのアルファルファを騎士に任ず」
そう言うと、ソニアはアルファルファを抱きしめた。彼女の声から格式張った調子が消え失せる。
「あなたは騎士になったわ、アルファルファ。私の守護騎士に。私を守ってくださるわね」
彼女の懇願する気持ちが、アルファルファには痛いほど伝わってきた。彼に拒む事などできたであろうか。あるいは、他の誰でも。
「騎士の位にこだわりはない。僕を縛るのは、あの誓いの言葉だけだ。名誉もいらない。権利もいらない。でも僕は、君を守る」
ソニアはゆっくりとアルファルファから離れる。アルファルファは立ち上がると、ソニアの腰に手を当て、自分の方に引き寄せた。
「ねえ、私の騎士様。私は今、とっても歌いだしたい気分なの」
アルファルファは彼女の顔を見つめると、笑って同意した。
二人は焚火の側に腰をかけると、ソニアの奏でる竪琴に合わせて、昨夜と同じく声の枯れるまで歌い続けた。
フサの外壁に造られた門は、都市間貿易を営む商人と、朝市で作物を売り払い帰路につく農民とで込み合っていた。熱い日差しを受け、外套に包まれた身体はじっとりと汗ばんだ。
「この暑苦しい外套を脱ぐわけにはいかないのかな」
ソニアは、アルファルファの声の中にうんざりした調子を聞き付け、もう少し意地悪してやろうと思った。
「だめよ、アルファルファ。城に着くまで騒ぎを起こしたくないのよ。私の顔は知られているし、見つかれば一騒ぎ起こると思うの。なにしろ私は、家出娘なんですから。それに、あなたがエルフだと解かったら、因縁をつけてくる荒くれが二ダースはいると思うわ」
アルファルファは溜息をついた。ソニアの言っていることは、もっともなように聞こえる。アルファルファは人間達の街がどんなものか知らないのだから、黙ってソニアに従っているよりほかはない。
アルファルファはおでこの辺りを拭いながら、フードの位置を直し、自分の特長的な尖った耳が外から見えないようにする。
「城までの我慢よ。そこまで行けば、あなたは騎士なのだから、胸をはって行動できるわ。そして、騎士に相応しい扱いを受けられる」
アルファルファはうなずいた。しかし、ソニアの言葉を鵜呑みにはしていなかった。なにしろ、エルフが騎士になるなど、まったく前例のないことだ。それに、大きな変化を好まない者はどこの社会にもいる。一波乱あるのは間違いないとアルファルファは考えていた。
アルファルファとソニアはフードの影から街を眺め、フサのほぼ中央に位置している城に向かって駒を進めていた。
もう正午過ぎだったので、門の辺りの混雑とは裏腹に街中の大道りはがらんとしていた。それでも、日没近くになると、家族のために夕飯の買い出しにでる女達や、仕事を終えて一杯ひっかけてから帰ろうという男達で、再び賑やかになるのよと、ソニアは言った。
「私の家出は、街にささやかな変化を与えたようね」
ソニアはそう小声で言った。
「どんな変化だい」
アルファルファがそう尋ねると、ソニアは怪訝な顔をして見返す。
「聞こえているとは思わなかったわ。ずいぶん、耳がいいのね」
「そうかな。普通だと思うけど」
ソニアは首を少し傾ける。それは、彼女が何か考えているときの癖だった。
「街中に出ている守衛の数が多くなっているのよ。伯父がどんな理由で増員したのか解からないけど。直接、尋ねればいいことね」
二人は城の城門の前までやってきた。門は開かれ、堀には橋が渡してある。今は衛兵が二人だけ、その門の守りについている。衛兵は細かい鎖で編んだ鎧を纒い、手にはハルバードと呼ばれる長柄の武器を持っていた。
アルファルファとソニアが橋を半ばまで渡った時、衛兵の内の一人が誰何してくる。
「ここはフサ領主、ドリアン・ハーウィック様の城だ。この城に何用でまいったのか。謁見なら、三日後まで行なわれぬぞ」
ソニアは外套を脱いで顔を現した。アルファルファは、自分もそうすべきか一瞬迷ったが、結局、脱ぐことにした。はっきり言ってしまえば、暑さに負けたのだ。
「私は領主の娘、ソニアよ。私は自分の家に帰ってきただけ。あなたの指図など受けないわ」
衛兵は彼女の顔を見て、彼女の言葉を聞いて、驚き、慌てた。
「こっ、これは姫様。よくぞ、ご無事で。城の者、全員が心配しておりました。誘拐されたとのことでしたので」
誘拐だって。アルファルファは驚きをなんとか隠そうとした。ソニアはそんなことを言っていなかった。ソニアはアルファルファに嘘をついたのだろうか。アルファルファには信じられなかった。
「誘拐……。そう、誘拐されたの。危ないところでした。もし、この方に助けてもらわなければ」
この時初めて、衛兵はアルファルファを見た。衛兵は驚き、大声を出した。
「こいつが助けたって。まさかそんな。こいつはエルフじゃないか」
「黙りなさい。無礼ですよ。あなたは私が、この私が嘘をついていると言いたいのかしら」
明らかに、衛兵は自分の失敗を悟ったようだ。
「し、失礼しました。あなたをさらったのは、エルフだと聞かされていましたので。ですが……そいつは……」
「もうたくさんよ。とにかく、私は中へ入れてもらいます。彼も一緒よ」
そういうと、ソニアは自分の馬を前へ、城の中へと進めた。アルファルファもそれに続こうとすると、衛兵は一歩前に踏みだして武器を突き付けてきたが、ソニアの凝視に合うと引き下がった。
アルファルファは今のやり取りについて考えていた。ソニアは、自分が誘拐されていたと聞いて、アルファルファと同じくらい驚いていた。するとこれは、人為的に広められた噂なのだ。しかも、犯人はエルフだということになっている。いったい、誰がこんな事をしたのだろう。何のために。
ソニアは中庭に入ると鞍から降り、駆け寄ってくる下男に馬をまかせた。アルファルファもそれにならう。それから二人は、城内で一番大きいと思われる建物に向かって歩いていった。
二人の歩いている方向から、よく手入れされた革製の鎧を着た男が足早に近寄ってくる。
「ソニア姫。よくぞご無事で。ドリアン様も、我ら騎士も、城の者すべてが、姫様の身を案じておりました」
「あなたや、城のみんなが心配していたのは、よく解かるわ。でも、伯父の心配していたのは、グッドラウル伯爵家の嫡男、ルディール・グッドラウルの婚約者の身であって、この私、ソニアの身ではないわ」
「その二つに、違いがあるのでしょうか」
「大きな隔たりがあるわ、ティバルト。二日ほど前からね。ところで、伯父上はどこかしら」
「今時分はいつも、執務室におられます。ですが、お会いになるまえに、一度お部屋に落ち着かれ、着替えなどなされたほうがよろしいのでは」
そう言われて、アルファルファとソニアは自分の姿を見下ろした。確かに、服や身体には旅の汚れが染み付いている。ソニアはそれを見て笑いだした。
「そうね。確かに伯父上は、私の無事より、服装のことを心配なさるでしょう。部屋が汚れますものね。でもね、ティバルト。私には、伯父のために着飾ろうなんて気持ちは、髪の毛先ほども、ないわ」
ティバルトはソニアの言葉を聞いて酷く動揺した。彼の知っているソニア姫は、決してこんな事をいう女性ではなかった。なにが彼女をここまで変えたのか、見当もつかない。
「姫様。私はそのような意味で言ったのではありません。ただ、姫様がお疲れであろうと思い、休憩なされた方がよろしいのではと申したのです」
「私なら大丈夫。それにこれ以上、伯父上のかわいそうな心の臓に負担をかけることもないでしょう。さあ、行きましょう、アルファルファ」
ソニアはティバルトにこれ以上話し掛ける間を与えず、建物の方に進みだした。だがティバルトは、脇を通り抜けようとするアルファルファの右腕をつかんで、その場に押し留めた。
「エルフ。ここは貴様のような者の来る所ではない。すぐに立ち去れ」
「放しなさい、ティバルト。彼はあなたと同じ、騎士ですよ」
このソニアの言葉にティバルトは衝撃を受けた。アルファルファは、力の抜けたティバルトの手から自分の右腕を引き抜いた。
「そんな。エルフが騎士だなどと。そんな馬鹿な事が」
「聞き捨てなりませんね、ティバルト。仮にも領主の娘であるこの私を、馬鹿よばわりするのですか。アルファルファを騎士にしたのは、この私です。あなたに、それを取り消す権限があるとでも言うつもりなのかしら」
ティバルトは言うべき言葉を失った。彼に何が言える。この怒れる領主の娘に。彼女の言う通り、自分はただの騎士に過ぎないのだ。そして、信じられぬことに、この目の前にいるエルフも。
「ティバルト。あなたには他にやることがあるんじゃないかしら。私とアルファルファは大丈夫ですから。さあ、お行きなさい」
アルファルファとソニアは、ティバルトが動きだす前に建物の方に歩きだしていた。アルファルファはティバルトがつけてこないのを確かめてから、ソニアに話し掛けた。
「ソニア。君はいつも、あんなふうな喋り方をしていたのかい」
アルファルファにはソニアの表情を読み取ることができなかった。
「前は、もっとお淑やかだったわ。これからだってそうよ。でもさっきは、ああでなくちゃいけなかったのよ。私にもよく解からないけど」
ティバルトはまだ衝撃から立ち直れず、茫然として、建物に歩み寄って行くソニアとエルフの後ろ姿を見つめていた。
まだ信じられない。エルフが騎士になるなどと。だが、ソニアにはそうする権限があった。ソニアは前領主の娘であるが、今はドリアンの養女となり、暫定的騎士任命権は今でも彼女のものだ。
そうか、これは暫定的なものなのだ。これに気がついて、ティバルトの心は幾分軽くなった。次の貴族会議は、確か三週間後だ。それまで、あの鼻持ちならないエルフを我慢すればいい。どうせ会議で奴の身分は剥奪されるのだ。エルフの騎士など、他の貴族達が認めるはずはない。そこで決定が下されれば、ソニアにもどうする事もできないのだ。
心を落ち着けたティバルトは当面の問題に頭を向ける。ソニアが指摘したように、彼は多忙だった。
ドリアンが領主になってから大規模な増兵が行なわれ、多くの新兵がフサの軍隊に入隊してきた。新兵の配属された比率は腹立たしい事に、攻撃軍よりも守備軍の方が大きかったのだ。
その結果、守備軍隊長であるティバルトは、新兵どもの尻を叩き、なんとかものにしようと一日中奮戦することになる。その訓練をみるたび、ティバルトは頭を痛めるのだ。
数がいくら増えようと、質が落ちてはどうしようもない。何とか仕込もうとしても、訓練だけで、実戦における異常な事態に新兵を慣らすのは不可能に等しい。実際、勝敗を決する要因の中で、実戦の勘と言うものも軽視できないものなのだ。
我らが領主の見積がどんなものかは知らないが、今、戦が起きれば当方の守備軍が総崩れするのは、守備軍隊長であるこのティバルトが、はっきりと請け負える。
ティバルトは溜息をついた。仕事は仕事。あのひよこどもをせいぜい仕込んでやるとするか。なによりも、自分が長生きするために。
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