「……姉さん、本当に大丈夫?」 ベッドに横になる琥珀に向かって、翡翠は心配そうに問いかけた。 「大丈夫大丈夫。ただのちょっとした風邪だし、きっとすぐに良くなるから♪」 不安げな翡翠の前で、琥珀が小さくガッツポーズを作ってみせる。 端から見る限りでは、彼女の言う通り、大して苦しそうには見えない。 少なくとも、重病とは程遠いのは間違いないだろう。 「でもなぁ……」 にもかかわらず、志貴の声色は暗く、その表情にも明らかな陰りが差していた。 まぁ、その心配性なところが、志貴の志貴たる由縁なのだが。 「私の心配はいりませんよ。それより、志貴さんたちは私の分まで、しっかり初詣を楽しんできて下さいな♪」 琥珀が満面の笑みで返す。 それはとても朗らかで明るく、下手に怒ったり拗ねたりされるより、断然断りにくい強制力に近いものを有していた。 「……わかったわ。それじゃ、私たちは行くけど、大人しくしてるのよ、琥珀」 「何かあったら、直ぐに連絡して下さいよ」 「姉さん、ゆっくり休んでてね」 「はい。では、行ってらっしゃいませ〜♪」
――バタン。
秋葉を先頭に、志貴と翡翠がそれに続く形で、部屋を後にする。
――ふぅ、皆揃ってお節介なんだから。
内心密かに呟きながら、琥珀は起こしていた上体をベッドに沈めた。 何気なく、窓から覗ける外の景色へと目を向ける。 外はかなり寒いのか、結露した窓ガラスは幾つもの水滴で埋め尽くされており、外界を鮮明に見ることは叶わなかった。 時刻が示す通り、外はまだ日が昇っておらず、地平線の向こう側が仄かに明るんでいるだけ。 未だ夜明け前の薄暗さに、世界は抱かれていた。
――コンコン。
と、不意に扉をノックする音が、部屋中に漂っていた静寂を静かに切り裂いた。 だが、おかしい。 秋葉、翡翠、志貴の三人が家に居ない以上、この扉を叩くことのできる人物はいないはずである。 「はい、どうぞ〜」 だと言うのに、琥珀は何ら警戒する様子も見せずに、そう言って扉の向こうにいる何者かに対して、あっさりと入室を許可した。
――ガチャ。
ゆっくりと扉が開く。 その先にあったのは……、 「琥珀さん、体の調子はどう?」 ついさっき、秋葉たちと確かに初詣に出かけたはずの、志貴の姿だった。 見たところ、息を乱している様子もなく、何か忘れ物をして走って戻ってきていたという感じではなかった。 いや、それを言うなら、彼の服装の方により注目すべきだろう。 先ほど琥珀の部屋を訪れていた時、外出前の志貴はしっかりと厚手のコートやマフラーを着込んでいた。 しかし、今琥珀の目の前にいる彼は、せいぜい下着の上にセーターを着ているくらいで、とてもじゃないがこの時期、この時間帯の外出に適した服装とは言い難い。 まるで、最初から外になど出ていないかのようだ。 「ふふっ……」 そんな彼を前にして、琥珀は不思議そうな表情を浮かべるどころか、おかしそうに笑っていた。 「? 琥珀さん、どうしたの?」 「あ、いえいえ、大したことじゃないですよ。“こっち”の志貴さんも、やっぱり同じようなことを言うんだなぁって」 琥珀が意味ありげな単語を漏らす。 しかし、それに対する志貴の反応は、極めて冷静なものだった。 「まったく……あんなもの、一体いつの間に作ったのやら……」 「でも、あれが無かったら今頃、志貴さんと二人っきりになんて、絶対になれてませんでしたよ?」 「そりゃあ……まぁ、そうだろうけど……」 どことなく納得が行かないといった表情で、志貴が指先で自分の頬を引っ掻く。 そう。 さっき秋葉たちと共に屋敷を後にした志貴。 あれは、琥珀がメカヒスイに続き極秘裏に開発を進め、ようやく完成にこぎ着くことができた最先端の志貴型メカだったのだ。 名付けて、アイアンシキプロトタイプ第一号。 先に開発済みの愉快型町内制圧兵器メカヒスイに対し、こちらは優柔不断型恋愛兵器というジャンルらしいが、どういう対象を相手に効果を発揮する兵器なのかは不明だ。 「まぁまぁ、そんなことは置いといて。とりあえず、こっち来て下さいな」 「う、うん……」 どことなく煮え切らない態度のまま、仕方なしに琥珀の傍へと歩みを進める志貴。 「……むー」 だが、ベッドの隅に腰を下ろした彼に向かって、琥珀は唇の先を尖らせた。 「え? 何、どうしたの、琥珀さん」 そんな彼女の様子に、志貴が首を傾げる。 「せっかくなんですから、もっと近くに寄って下さいよ〜」 琥珀が拗ねた子どものように頬を膨らませながら、志貴に向かって自分の直ぐ横のシーツをポンポンと叩き、一緒にベッドに入ることを促す。 「えっ!? で、でも、それはさすがにちょっと恥ずかし過ぎ……」 「別に良いじゃないですか。誰が見てるという訳でもなし」 「そ、そうだけど……」 「女の子からのお誘いを断るだなんて、男が廃りますよ? ささ、入った入った♪」 「うぅ……」 琥珀の言う通り、誰が覗き見てる訳でもない。 にもかかわらず、志貴は辺りをキョロキョロと見回しながら、恐る恐るといった様子でベッドの中に体を滑り込ませる。 いつも布団に入る時、最初は決まって凍えるほど冷たいのだが、今この時ばかりは琥珀の体温で満たされており、入った瞬間から心地よい暖かみを感じた。
――これ、琥珀さんの暖かさなんだよな……。
何となくそんなことを考え、言い知れない気恥ずかしさから志貴が真っ赤に顔を染める。 「ん? 志貴さん、どうかしたんですか?」 「えっ? どうって、何が?」 「顔、真っ赤っかですよ。暑いんですか? それとも……」 「……そ、それとも?」 「……何か、良からぬことでも考えているんですか?」 「そ、そんな訳ないだろ!? あ、琥珀さん。そんなことより、ほら!」 妖しい笑みを浮かべる琥珀に、志貴は話を逸らす為、咄嗟に窓の外を指差した。 その指し示す先、夜露に歪む窓ガラス越しに、地平線の彼方で目を眩ませるほどの輝きが昇りつつあるのが見えた。 「あら、日の出ですね」 そう言って、琥珀が窓を開く。 冬の早朝の冷涼な風が、室内へと吹き込んだ。 「寒っ!」 反射的に身を縮込ませる志貴。 「……」
――バサッ。
そんな彼の仕草に、琥珀は両手で布団を引っ張り上げ、志貴の体ごと全身をくるんだ。 「……え?」 「これで寒くないでしょう?」 琥珀が控えめに微笑む。 「……」 その笑顔に、志貴は言葉を失い見惚れていた。 それは、今までに彼が見てきた笑顔の中で、一番きれいなものだった。 いや、神々しいとさえ言えるかもしれない。 ただ明るく楽しそうというだけの顔。 かつて、そんな笑顔という名の能面を張り付けていた時の、人形のようだった彼女の笑みとは決定的に違う、慈愛に満ちた心からの優しく暖かい微笑み。 「……? どうしました、志貴さん」 「……いや、琥珀さん、すごく可愛いなって……」 心ここに在らずといった様子で、思ったことをついそのまま口にしてしまう志貴。 「っ!?」 彼のそんな無防備な言葉に不意をつかれてか、いつもなら笑って軽く流してしまう琥珀が、見る間に顔を赤くする。 「……あっ」 と、そこでようやく、志貴は自分が何を言ったか理解した。 「え、えっと……い、今のは、なんかつい本音が……って、そうじゃなくて……あ、いや、そうじゃないってのもなんか違くて、本音と言えば本音で間違いないんだけど……」
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