今日は正月。 記念すべき新年最初のめでたい日。 それは、普段どんなに気難しい人であろうと、少なからず機嫌の良くなる楽しい日。 ……しかし、この場所に限り、そんな世間一般の常識などまるで通用していなかった。
――グツグツ。
「……」 黙したまま、鋭い目付きで煮え湯だる鍋を直視する少年。 いや、確かに歳のほどは少年かもしれないが、その瞳に宿るギラついた光が、彼がどこにでもいるような同年代の平凡な少年とは、明らかに一線を画していることを証明していた。 右手に握られた箸は、まるで獲物に狙いを定める猛禽類のよう。 決して逃しはしないという強い意思が、端から見てもありありと感じられた。 何を狙っているのかは知らないが、彼と同じ獲物にだけは手を出すまいと、誰もが言外の内に身を引くことだろう。 少年の名は“七夜 志貴” 最強と畏れられた一族において、尚最強と讃えられた男の血を受け継いだ、世界最後の純然たる殺人鬼。
――グツグツ。
「……」 そんな彼と相対する、もとい、鍋を挟んで対面に座するのは、筋骨隆々とした体格の良い男性だ。 瞳を閉じ、腕組みをしたまま静かに佇むその姿は、さながら不動明王の如く。 無言の気迫とでも言うべき壮烈な気配が、オーラとなってその全身を覆っているようにさえ見える。 男の名は“軋間 紅摩” 最強と畏れられた一族を滅ぼし、独覚を求め独り、森にその身を縛り付ける鬼の末裔。 そんな互いに相容れないはずの二人が囲う、摩訶不思議な鍋の席。 そこに満ちる雰囲気は、重い空気ではあったものの、何故か明らかな殺意を孕んではいなかった。 「……煮えた!」 そんな静寂を切り裂くのは、不意に上がった烈迫の声。 神速と表現しても差し支えない素早さで、残像を纏いながら志貴の箸が鍋へと差し込まれる。 ――バシャッ!
水飛沫ならぬ、湯飛沫を対面方向に巻き起こしながら、水面下に潜り込んでいた箸が姿を現した。 そこに掴まれているのは、仄かにピンクがかった見るからに柔らかそうな一切れの肉。 「ふっ……」 口の端に浮かぶ笑み。 それは、勝者のみに許された特権だった。 「……」 軽く触れただけで火傷しかねないくらい、高温な熱湯の飛沫を全身に浴びながら、軋間は未だ微動だにしていなかった。 組んだ腕を解くことなく、閉じた瞼を開くこともなく、ただ黙したまま不動。 「……おい、七夜」 そんな彼が、遂に口を開いた。 「んぐんぐ……なんだ?」 答える七夜の口内には、既に先ほどの肉が頬張られていた。 「その肉、まだ煮えてはおらんだろう?」 「何言ってるんだ、お前。良い牛肉は僅かに煮え切らないくらいが一番なんだよ」 「ふむ……」 何をどういう風に納得したのかは定かでないが、彼は神妙な面持ちのまま小さく頷くと、ゆっくりと目を開いた。 開けた視界に映る、グツグツと沸騰する鍋。 そこに伸ばされる七夜の箸が、再び肉へと向けられる。 「遅いっ!」
――ドバシャアッ!
先の七夜の時とは比べ物にならない量の熱湯が、何の前ぶりもなく襲い来る高波のように、うねりを上げて彼の体を頭から呑み込む。 「功徳が足りん」 そうとだけ言い放ち、軋間は掬い上げた肉塊と言っても差し支えないほどの肉を、まとめて取り皿へと移した。 「……おい」 「どうした?」 「肉は一回一切れが鍋の法だぞ。一気に何切れ取ってるんだよ、お前」 「ほう……そんなルールは初めて知ったぞ」 「何だよ、アンタそんなことも知らなかったのか。あんな薄暗い森の中に閉じこもってるから、世間に疎くなるんだ」 「そうか。それはすまん。俺としたことが、礼を失したな」 そう言い、一度は掬い上げた肉を取り皿の上でばらし、鍋に戻そうとして、 「あぁ、別に戻す必要はないよ。次から自重してくれ」 七夜が軽くそれを制する。 「む、そうか。わかった」 鍋に向けていた箸を戻し、再び肉塊は軋間の取り皿の中へ。 これが一般人の間で交わされている行為なら、とてもほのぼのとしたものであるはずなのに、この二人にかかれば、一瞬でそんな穏やかさとは対極の空気に変貌させてしまうのだから、不思議と言えば不思議なものだ。 「ん……何だか、最初に比べて湯の量がやけに少なくなってないか?」 「確かにそうだな。もう少し静かにした方が良いか?」 「別に構わないさ。水と安全はタダっていうのが、この国の売りらしいからね」 「安全がタダとは、我が国ながら何とも自惚れた国だな……いや、これが平和ボケというやつか」 「殺し合いになったら、真っ先に殺られるタイプだよな。我が国ながら」 そう言って、互いに自嘲気味な笑みを溢す。 それは、安全というものが、いかなる対価をもってしても得ることのできないものだと理解している裏側の世界の住人だけが浮かべられる、凄惨な笑みだった。 「じゃあ、俺は少し湯を足してくる。しばらく待っててくれ」 「わかった」 鍋を両手に持ち、調理場へと向かう七夜。 その背を見送り、軋間は何気なく近場の棚に手を伸ばした。 しばらく手探りした後、その奥の方から一本の大瓶を取り出す。 と、同時に台所の方から鍋を手に七夜が戻ってきた。 その脇には、同じく透明な液体で満たされた一本の大瓶が。 「待たせたな」 コンロの上に鍋を戻し、次いで脇に抱えていた大瓶を卓上に置く。 「それは何だ?」 「せっかくの新年最初の鍋の席なんだ。酒が無いと終われないだろう」 「……お前、まだ未成年じゃなかったか?」 「固いこと言うなよ。それに、アンタのすぐ側にも、同じ物があるんじゃないか?」 「ほう……よく分かったな」 口の端を微かに綻ばせながら、軋間も床に置いていた酒の大瓶を卓上に上げる。 「まぁね。さて、それじゃあ、とりあえず乾杯といきますか」 そう言って、手に持っていた二つの猪口の内、片方を軋間へと差し出した。 「まさか、このようにお前と酒を交わす機会が生まれようとは、夢にも思わなかった」 「同感だ」 受け取りながら、どこか満足げな笑みを浮かべる軋間に対し、こちらも同じく目を細めながら微笑を溢す七夜。 互いに持ってきた酒を猪口に並々と注ぎ、交換する。 「殺人鬼と鬼が新年に交わす酒か……めでたいのやら不吉なのやら」 「人鬼の間にも合縁奇縁。故なき事は起こらぬが世の常だ。ありのままを受け止め、ありのままを祝おうではないか」 「それもそうだ。じゃ、明けましておめでとう」 「あぁ」
――チン。
陶器のぶつかり合う、心地よく甲高い金属音が響く。 二人同時に酒を口につけ、そのまま一気に飲み干す。 「くぅ……なかなかきついな……」 「ぬぅ……お前もかなりのものを用意してきたようだな……」 「だが、これでこその酒の席だろう。飲むならとことんまで。そうだろう?」 「無論だ」 互いに不敵な笑みを向ける二人。 酒を飲んでは注ぎ、注がれては一気に飲み干すことを繰り返すこと数十回。 「う……くっ……」 「ぬ……むぅ……」 両者共に、酔いは優に臨海点を超えていた。 気分が優れなさそうなどという表現では、到底事足りない。 赤かった顔はいつしか青ざめ、血の気の失せた青白さはまるで病人のようだった。 「ぐっ……!」 そんな中、苦痛を孕んだうめき声を上げて、軋間の体がぐらりと大きく揺れる。 そして―― ――ドサッ。
――そのまま背側に倒れ込んだ。
「もう終わりなのか、紅赤主。だとしたら、些か退屈だったよ、お前」
「稚児扱いが過ぎたか……つい先日まで年端もいかぬ童だった者が、よくぞここまでになったものだ」
「鳥兔怱怱と時は流れゆく。その場に留まり続けることが出来ぬ以上、誰しもに盛衰いずれかが訪れるのは世の必定さ。しかし、まさかあんたの口からお褒めの言葉をもらえるとはね」
「冥府に堕ち、その深淵より這い上がってきた貴様の力は真実だ。さぁ、今こそその手で、因果律の輪を断ち切るがいい」
「閻魔に会ったら、よろしく言っておいてくれ。……直、もう一人そっちへ行くってな」
そう言い残し、七夜も背側へと倒れ込んだ。 床にぶつかる鈍い殴打の音が、吸収されることなく空間を長きに渡り跳ね回る。 その音響が絶えた後、部屋に残るのはガスコンロの生み出す火音と、ぐつぐつと煮えたぎる熱湯の湯音のみ。 やがてはそれも、カチッという乾いた音を最後に消え去る。 動くものなき完全なる無音の空間。 以後、そこに音が生じることはもうなかった。
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