「……き……」 ん……なんだろう……? 遠くから、誰かの声が聞こえる気がする。 「し……ちゃ……」 ……遠くから? いや、違う。 すぐ近くからだ。 虚ろいでいた意識が徐々に覚醒してゆく。 と同時に、隣に感じられる誰かの気配。 誰だろう? 不思議に思い、俺は目頭を擦りながら瞼を持ち上げた。 真っ先に視界に映ったのは、見慣れた白い天井。 いつの間に戻ってきたのか思い出せないが、どうやらここは俺の部屋らしい。 首だけをひねり、横へと目線を向ける。 そこにいたのは……、 「んぅ……志貴ちゃん……」 安らかな寝息を立てながら、寝言で俺の名を呼ぶ翡翠の姿だった。 今日は正月ということもあり、その服装は平常時のメイド姿ではなく、花柄の和服に身を包んだものだった。 頭にはいつもの白いカチューシャはなく、さくらんぼをモチーフにした可愛らしいかんざしが差されている。 いつものメイド服がダメというわけではないが、今日のような和装も、これはこれでなかなか似合っていた。 ……しかし、 「どうして翡翠がここに……?」 「ぅん……?」 俺の言葉に、翡翠がうっすらと目を開ける。 まだ意識がはっきりしていないのか、ぼんやりとした瞳は焦点が定まっていない。 「あっ……え、えっ……!?」 だが、次第に現状を把握できてきたのか、声に張りが戻るにつれて目も大きく見開かれてゆく。 「えっと……おはよう」 「し、志貴様!? も、申し訳ございません!!」 慌てて身を起こすと、弾けたようにベッドから立ち上がり、翡翠は俺に向かって頭を下げた。 「いや、別に謝ることないって。ただ寝てただけだし」 「で、ですが、志貴様の隣で寝てただなんてこと、もし秋葉様に知られでもしたら……」 一瞬、そんな状況を想像して……。 「は、ははは……」 俺は渇いた笑いを溢すことしかできなかった。 正月早々、そんな地獄絵図を見る、もとい、体験するなんて幸先の悪い年始は、いくらなんでも遠慮したい。 まぁ、正月早々じゃなきゃいいのかと問われれば、全力で首を横に振るのだが。 「俺たちが黙ってれば、秋葉にはバレやしないさ。それよりも……」 そう、そんなことより、いくつか気になることがあった。 「俺、なんでこんなとこで寝てたんだ?」 暗くなった夜空を、風通しの良くなった窓越しに見上げながら、俺は翡翠に問いかけた。 今日はお正月というわけで、朝からそこそこ豪勢なパーティーが行われた。 一応、メンバーは身内だけ、つまり俺に秋葉、琥珀さん、翡翠、それにシオンの五人だけの予定だった。 ……が、もちろんと言うべきか、そんなわけにもいかず、呼んでもいない招かれざる客が約二名ほど、彼女らにとっての正面玄関こと、俺の部屋の窓からダイナミックにご来訪してくれてしまったわけで。 パーティーに乗じて、新年早々暴れ回ってくれたおかげで、早くも不機嫌さを露わにする秋葉の隣で、俺は嫌な冷や汗をかき続けることになったのだ。 ただ、どうしても解せないのは、俺の記憶が途中で途切れていることだ。 西に日が傾き始めた頃、アルクェイドと先輩が早くも酔っぱらい始めた辺りまでは覚えているんだが……、 「志貴様……覚えてらっしゃらないんですか?」 「あぁ、さっぱり。夕方くらいまでの記憶ならあるんだけど……」 「志貴様は、酔っぱらったアルクェイド様とシエル様、そしてそれに対して業を煮やした秋葉様の乱闘に巻き込まれて、今まで意識を失っておられたのです」 「……やっぱりあの三人か……」 溜め息混じりに呟く。 さっきから、なんか側頭部にズキズキとした痛みを感じるとは思っていたが、今の翡翠の話で合点がいった。 まぁ、彼女たちのとばっちりを受けたのは、別に今回が初めてというわけじゃない。 言いたくはないが、この程度のことなら日常茶飯事。 もう慣れたもんだ。 「志貴様……大丈夫ですか?」 「あぁ、大丈夫。ありがとう、翡翠」 「あ、いえ……それでは、私はこれで……」 「あ、翡翠、ちょっと……」 部屋を後にしようと、踵を返した翡翠の背を呼び止める。 「はい、何でしょう?」 「せっかくだし、もう少し話していかないか? ほら、今日は朝から騒がしくて、新年だってのにほとんど話、できなかっただろ?」 そう。 今日は新年にもかかわらず、翡翠とは話す機会が全くと言っていいほどなくて、そのせいで新年の挨拶すら交わせていないのだ。 「ですが……」 「たまには良いだろう? それとも、翡翠は俺と話すのは嫌?」 「そ、そのようなことは決して!!」 「それじゃ、こっちにおいでよ」 「は、はい……それでは、失礼します……」 そう言って、翡翠が遠慮がちに俺の隣に腰を下ろす。 だが、何故かそわそわして落ち着きがない。 ……なんかぎこちないなぁ。 そう思い、俺は翡翠に声をかけた。 「なぁ、翡翠。少し堅苦しすぎないか? ここには俺たちしかいないんだから、もっとリラックスしてくれよ」 「志貴様……」 「それだよ」 「え?」 「その志貴様って呼び方、止めてくれないか? 二人っきりの時くらい、昔みたいに呼んでくれよ」 「で、ですが……」 「でも、寝言では俺のこと“志貴ちゃん”って呼んでたけど?」 「――っ!? わ、私、そんなことをっ!?」 「あぁ。だから、ちゃんと起きてる時も、そう呼んでくれないか?」 「……よ、よろしいんですか?」 「もちろん」 「そ、それじゃあ……し、志貴ちゃん……」 「うん」 「……」 俺の名をちゃん付けで呼ぶなり、翡翠は真っ赤になって俯いてしまった。 重苦しさとは無縁の、それでもあまり居心地の良くはない沈黙が、辺りに漂い出す。 「そ、そういえば、アルクェイドたちの乱闘に巻き込まれて気を失った俺を運んでくれたのって、翡翠が?」 何となく気恥ずかしくなって、俺は慌てて話題を切り出した。 「あ、うん。秋葉様とシオン様は、あのお二方を抑えようと必死だったし、姉さんも厨房を一人で回してたから、どうにも手が空かなくて……」 「ははは……俺が寝てる間、みんなはかなり大変だったみたいだな」 「お二方が屋敷を出てからも、“あの二人は、どうしてああも当たり前のように、私たちの邪魔ばかりするのかしら”って、秋葉様はずっと愚痴ってたんだよ」 「なんかその光景、見てもいないのに容易に想像できるな。で、そんな秋葉を、琥珀さんが笑いながらからかってるんだろ」 「そうそう。姉さんってば、秋葉様を困らせて楽しんでるんだよね。今日だって、頼んでもないのに大量のお酒を持ってきてたし」 「道理で……やけに酒の量多いな〜って思ったよ」 「その被害は志貴ちゃんにいくって分かってるはずなのに、困ったもんだよね」 「でも、そこが琥珀さんらしいっちゃ琥珀さんらしいんだけどね」 『あはははっ』 そう言って、お互いに笑い会う。 やっぱり、翡翠とはこういう風に話したい。 みんなのいるところでは、さすがにそうもいかないだろうけど、二人だけの時は主従関係なんか棄てて、普通に笑い会いたい。 ……普通の恋人同士みたいに。 「……なぁ、翡翠」 「なぁに? 志貴ちゃん」 「二人で、今から初詣に行かないか?」 「えっ? 今から?」 翡翠が目を丸くする。 まぁ、こんな夜遅くに、しかも正月はもう終わっているというのだから、彼女が驚くのも無理はない。 だけど、今日は新しい年を迎える最初の日。 そんな日くらい、翡翠と二人で何か思い出を作りたい。 さっきも言ったように、主人とメイドとしてではなく、普通の恋人同士として。 「……ダメかな?」 「う、ううん、そんなことないよ! でも、私なんかが……」 尻すぼみにそう言って、視線を俯かせる翡翠。 「俺は、主人としてメイドの翡翠に言ってるんじゃない。ただ一人の男として、恋人の翡翠にデートの申し出をしてるだけさ」 「志貴ちゃん……」 「あ、それとも、主人として命令した方が、翡翠は来てくれるのかな?」 「……それが志貴ちゃんの願う事なら、私はどっちでも喜んで付き合うよ」 冗談めかした俺の言葉に、翡翠は仄かに両頬を染めながら顔を上げた。 そんな彼女の恥じらう様子に、愛しさを覚えずにはいられなかった。 「それじゃ、行こうか……っと、その前に」 「?」 「そういえば俺たち、まだ一番大切なこと、言ってなかったっけ」 そう言って、俺はベッドから腰を上げ、翡翠の方へ向き直った。 「明けましておめでとう、翡翠。今年もよろしく」 「あ……そういえば、言ってなかったね」 そんな俺の言葉に苦笑いを浮かべて、翡翠もまた俺の方へと向きを直した。 「明けましておめでとう、志貴ちゃん。今年もよろしくね♪」 そう言って、翡翠が満面の笑みを浮かべる。 それは、初日の出を思わせるような、眩しく明るい、心からの笑顔だった。
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