――ごめん、先輩……クリスマスは、家で皆と過ごす約束なんだ。
今も脳裏に焼き付いて離れないのは、この間のデートで別れ際に彼の口から放たれた言葉。 楽しみにしていた、彼と一緒に過ごす予定だったクリスマス。 それが叶わぬものとなった時の私の失望感といったら、相当なものだった。 だというのに、そんな彼の言葉に対して、私の返事はと言うと、
――そうですか……約束なら、仕方ないですね……。
なんていう、本心とはまるでかけ離れた、物わかりの良い風を装ったものだった。 あんな胸なしの妹やらメイド姉妹なんか放っておいて、私と一緒にいて欲しい。 年に一度しかない聖なる夜を、私のすぐ傍で過ごして欲しい。 そんな本音を押し殺した理由は、たった一つ。 しつこい女だと、彼に嫌われたくなかったから……ただそれだけ。 その結果が、これだ。 「はぁ……」 一人しかいない部屋の中に、溜め息だけが異様なくらい鈍重に響き渡る。 今日はクリスマス、しかも休日と重なった絶好の日だというのに、私は薄暗い部屋に一人きり。 隣にいるべきはずの、想い人の姿はここになかった。 「……遠野君」 ベッドに身を横たえたまま、私はその名を呟いた。 音一つない室内には、そんな小さな声ですら幾重にも重なり合い反響する。 その音が空気中に溶けて消え入った後、訪れるのは胸を真綿で締め付けるような切なさ混じりの虚脱感。 「はあぁ……」 再び口元から漏れる大きな溜め息。 溜め息を一つつく度に、幸せが一つ逃げていくと良く言うけれど、そんなわけはない。 溜め息というのは、ある不幸せな出来事をきっかけに出てくるものだ。 もし、溜め息をつく度に幸せが逃げるというのなら、その幸せが逃げる毎に溜め息をつき、そしてまた逃げた幸せを憂いて溜め息を溢す。 そんな負の連鎖が、無限に続くことになるじゃないか。 でも、実際は違う。 いくら溜め息をついたって、幸せはいつか必ずやって来る。 首だけを捻り、壁に掛けられたカレンダーを見つめた。 そこに示されているのは、既に来年の1月の日付になっていた。 その一番最初の日、正月。 そこの余白には、ハートで囲まれた枠の中にピンク色の字でこう書かれていた。
“遠野君と初詣♪”
……見れば見るほど、恥ずかしくなってくる。 文章の最後に“♪”なんて使っていることが、その恥ずかしさに余計に拍車をかけているようだった。 だけど、それ以上に楽しみで仕方がなかった。 今日、この日を遠野君と過ごせなかったのは残念だったけれど……いや、今日一緒にいられなかった分、更にお正月にかける思いは高まっていた。 一週間後が今から待ち遠しくてたまらない。 「……っと、いつの間にか、もうこんな時間ですか」 枕元の目覚まし時計に目を向けてみれば、時刻はそろそろ深夜を迎えようとしていた。 さて、どうやら今日もお勤めの時間がやってきたようだ。 ベッドから跳ね起き、クローゼットの中から愛用の漆黒の法衣を手に取る。 それを羽織りながら、私は窓際へと歩みを進めた。 今日も夜空に月が映える。 雲に遮られることなく、冷たい月光は夜の街を突き刺すように降り注ぐ。 何気なく、それこそ何かに気付いた訳でも何でもなく、私はただなんとなく視線を下界へと下ろした。 「え……」 だから、一瞬何が見えたのか分からなかった――いや、心が理解してくれなかった。 だが、現実というものはいつも非情且つ無情。 それが夢幻でないことを知らしめるかのように、眩い月明かりは対象を明確に照らし出し、夜の暗がりに紛れることを許さなかった。 視界にはっきりと映し出される一組の男女。 短く切り揃えられた金髪をなびかせながら、楽しそうにすぐ側の男性に抱きつく女。 そんな彼女に戸惑う様子を見せながらも、決して嫌がることなく為されるがままの男性。 そのどちらもが、私の見知った人物だった。 「……遠野……君」 その名を口にする。 刹那、心に芽生える感情。 これは……何だろう? 恋慕? 嫉妬? 慈愛? 憎悪? それとも―― 「……遠野君」 もう一度、愛しい彼の名を呟く。 瞬間、自分の中で何かが爆ぜた。 あぁ、今まで私は何に遠慮をしていたんだろう。 私は、遠野君のことが好き、大好き。 遠野君も、私のことが好き。 なら、私が遠慮なんてする必要ないじゃないか。 そうよ。 遠野君は私だけのモノ。 他の誰かになんて、髪の毛一本くれてやるものか。 踵を返し、窓際から玄関へと向かう。 ついさっき、衝撃的な場面を目撃してしまったにもかかわらず、心を満たす感情は平静そのもの。 自分でも不思議なくらい穏やかで、そこにはさざ波一つ立ってはいない。 靴を履き、ドアノブを捻る。
――バキッ!
と、その瞬間、突如として手元で上がった鈍い破砕音。 その音源へと目を向けてみれば、そこには根本から捻り切られたドアノブを握る、私の右手があった。 あれ? この家のドアノブ、こんなに脆かったっけ? まぁ、いいや。 こんなもの、別にどうでもいいし。 今となっては、ただの鉄製の円柱へと成り果てたそれを後ろ手に放り捨て、私は目の前の扉を蹴り飛ばした。
――バキャッ!! ドガッ!
勢い良く吹き飛んだドアは、直ぐ先にある縁にぶつかって轟音を上げる。 あ、しまった。 こんな夜遅くに、少し騒がしかったかもしれない。 ……まぁ、それもどうでもいいか。 今は早く、彼に会いに行かないと。 「待っててね、遠野君……」 そう呟き、私は地を踏む足に力を込めた。
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