――コンコン
「はい」 扉のノックされる音に、私は書物へと落としていた視線を持ち上げた。 「シオン、入ってもいいかしら?」 「秋葉? えぇ、構いませんよ」 「失礼するわ」 開かれた扉の奥から、秋葉の姿が現れる。 その手には盆が乗っており、湯気を立ち上らせる純白のティーカップが一つ、そして皿によそわれた数枚のクッキーが目についた。 後ろ手に扉を閉め、こちらへ歩み寄る彼女の方へと、私は座ったまま向きを正す。 「今日も頑張ってるみたいね。調子はいかがかしら?」 「今日も今日とて、いつも通り……といったところですね」 私は苦笑いを浮かべ、横目でつい先ほどまで見ていた書物を流し見た。 私の研究内容は、吸血鬼かした人間を、元の純粋な人間に戻すこと。 そのためには、私が今持っている知識だけではどうにもならない。 先人たちが後世に遺した全ての知識、この世界に存在する全ての文献を読み漁るくらいの覚悟をもって臨まなければ、ほんの僅かの光明すら見出だせないことだろう。 無理かもしれない。 そう思ってしまった時点で、それは現実となる。 世界は諦観の念を持つ者に対し、非情に徹することを、私は知っている。 光を手にするのは、総じて不屈の信念に支えられた屈強な心のみ。 だから、私は決して諦めない。 後ろは振り返らず、ただ愚直なまでに前だけを見据えて、歩み続けてみせる。 例えそれが、どれだけ険しい棘の道だったとしても。 「そう」 そんな私の内心を察してくれているのか、テーブル隅に盆を置きながら、秋葉はそうとだけ呟いた。 下手な励ましをかけるくらいなら、何も言わない方が良いという彼女なりの優しさが、その端的な言葉に良く表れている。 「まぁ、頑張るのも程々にね。それで逆に体を壊しては、それこそ元も子もないでしょう?」 「えぇ、そうですね。……あれ?」 と、不意に視界の端、盆の上に何か白い塊が見え、私は何気なくそちらへと手を伸ばした。 「これは……」 「あぁ、貴女宛の手紙みたいよ。今朝、琥珀が郵便受けに入っていたものを取ってきたらしいわ」 「……郵便受け、ですか」 手紙の表面に視線を落とす。 そこにはここの住所と、左上隅に切手が貼られているだけで、差出人の住所や名前は書かれていなかった。 さつきからだろうか? 彼女から私に何かしらの接触を図る時、こうして手紙を出してきたことは、今までにも何度かあったことだから、別に不思議はない。 そう思いながら手首を翻し、裏側へと目を向ける。 「……!?」 しかし、そこに書かれていたのは、予想外のことだった。
“シオン・エルトナム・ソカリス様”
「……」 無言のまま、その名をじっと見つめる。 この名は、私がアトラシアの名を授かる以前のもの、つまりは私の本名とでも言うべきものだ。 アトラシアとは、アトラス院次期院長の謂わば肩書きであり、この手紙に書かれてあるものが私の本当の名前。 けれど、このことを三咲町に来て以来、誰かに話したことはない。 つまり、この事を知っている人間は、この町にはいないということだ。 だが、逆に私がここにいるということを知っている人間は、この町にしかいない。 つまり、この宛名の手紙が、ここに届くはずがないのだ。 「……それじゃ、私はおいとまするわね」 「……何も、聞かないのですか?」 「それが話すべきことなら、私がわざわざ聞かなくても、貴女の方から話してくれるでしょう?」 そう言って微笑むと、秋葉はゆったりとした動きで踵を返した。 「……」 秋葉の言う通りだ。 別に話す必要はないと思ってたから、誰にも話さなかっただけのこと。 何も隠そうとしていたわけじゃない。 だけど、いざこうなってしまうと、何か言い様のない罪悪感が芽生えてくる。 「……秋葉」 だから、私は扉の前に立つ秋葉の背に声をかけた。 「何?」 「その……」 だが、何と言うべきかわからなかった。 特に悪行ではない以上、謝罪するのはおかしいし、言い訳がましいことを言う気にはならない。 だから、短いながらも様々な感情を込められる便利な言葉を、その背に放った。 「……ありがとう」 「……えぇ」 こちらを振り返ることなく、でも暖かな声でそう答えると、秋葉は静かに部屋を後にした。
――バタン。
扉の閉まる音が、やけに反響して聞こえた。 「……」 秋葉が去った後も、私は封の閉じられたままの手紙をただ見つめていた。 封を開けるべきか、それとも封をしたまま捨ててしまうべきか。 中身を見ることに抵抗はあった。 だが同時に、この届くはずのない手紙に何が書かれているのか、それに対する興味もあった。 しばしの逡巡の後、私は、
――バリッ。
結局封をといた。
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