「それじゃ、行ってくるよ」 「行ってらっしゃいませ」 「留守の間は、私たちにお任せ下さいな♪」 相変わらず無表情の翡翠と、これまた相変わらず笑顔の琥珀さんに手を振って、俺は軽めの荷物を肩に、屋敷を後にした。 仰々しい扉をくぐった俺に、眩いばかりの澄みきった青空から、さんさんと陽光が降り注ぐ。 そんな空の大海を流れ行く真っ白な雲は、さながら風と共に去り行く旅人のようだ。 すぐ傍を吹き抜けるそよ風は涼しげで、そこかしこでさえずる鳥たちの歌声や、新緑色の青葉を繁らせる木々と併せて、徐々に近づきつつある春の訪れを感じずにはいられない。 貧血持ちの俺にとっては、ありがたいことこの上なかった。 「だんだん、暖かくなってきたなぁ……」 感慨深く呟き、一度だけ大きく伸びをする。 痺れるような刺激が、目覚めて間もない全身の筋肉に心地良い。 今日は、春休み最後の日。 明日の始業式の後は、またいつもの退屈な学生生活が幕を上げるわけだ。 ……そう考えると、なんだか急に憂鬱になってきたな。 あぁ、止め止め! こんな下らないことを考えるのは、明日からで十分だ。 今日一日は、最後の休日を思い切り楽しまないと損だよな。 そう思い直し、俺は頭を左右に振って先ほどのマイナス思考を払拭して、立ち止まったままだって足を前に進めた。 今日、俺は久しぶりに、有間の家に戻ることになっていた。 なんでも先日、おばさんが商店街の福引きで温泉旅行ペア宿泊券を当てたらしい。 本当なら、都古ちゃんを連れて行きたいところだったのだけれど、彼女も明日から学校が始まる以上、連れて行くわけにもいかず。 結局友人と行くことにしたそうなのだが、都合の悪いことにその日、つまり今日、おじさんが仕事の関係で、突然家に帰れなくなってしまった。 ということで、都古ちゃんのお守り役として、今回俺に白羽の矢が立てられたというわけだ。 まぁ、遠野の屋敷に越して以来、有間の家とは疎遠になりがちだったから、俺としてもこれはありがたい提案だった。 都古ちゃんに会うのも、随分久しぶりだな。 昨日、電話口で話した限りだと、あっちも結構楽しみにしていてくれたようだったけど……。 「あっ! お兄ちゃ〜ん!」 などと物思いに耽っていると、急に遠くから懐かしい呼び声が聞こえてきた。 知らず知らずの内に天を仰いでいた視線を水平に戻し、歩む道の先へと目を向ける。 そこに見えたのは、大きく手を振りながら、こちらへと走り寄ってくる都古ちゃんの姿だった。 あれ? おかしいな。 家で待ってるって話だったのに……。 「都古ちゃん、どうしてこんなとこに?」 息急き切らして駆け寄る彼女を待ってから、俺は訝しげにそう口にした。 「はぁ……っはぁ……えへへ。待ちきれなくなって、こっちから迎えに来ちゃった♪」 そんな俺に対して、都古ちゃんは満面の笑顔でそう答えてくれた。 その笑顔はとても純粋で無邪気で、昼空に浮かぶ太陽よりも眩しい光玉のよう。。 この心からの笑顔が、確かに自分に向けられていると思うだけで、なんだか暖かい気持ちになれた。 「……? どうしたの、お兄ちゃん? あたしの顔、なんか付いてる?」 「あ、ううん。何でもないよ。それより、一体どこから走ってきたの? すごい汗だけど」 俺は気恥ずかしさを隠すため、逆にそう問い返した。 「もちろん、家を出てから直ぐに全力疾走だよ。なんてったって、お兄ちゃんと感動の対面の日なんだもん。家でじっと待ってなんていられないよ」 「あはは、それは嬉しいな。でも、こんなに汗かくほど慌てなくても良かったんじゃない?」 どちらから言うともなく、肩を並べて歩き始める。 俺はポケットからハンカチを取り出すと、手のひらで汗を拭おうとしている都古ちゃんに差し出した。 「あ、ありがとう。……だって、少しでも早くお兄ちゃんに会いたかったから……。お兄ちゃんは、私に会いたくなかった?」 「そんなことないよ。もちろん、俺だって都古ちゃんにはすっごく会いたかったさ」 「でしょでしょ! ほら、見て! この服、今日のためにお母さんに見立ててもらったんだよ〜。どう? 似合ってる?」 そう問いかけながら、都古ちゃんは一歩俺の前へと飛び出し、その場でクルッと一回転してみせた。 淡い水色を基調としたレースのワンピースが、その動きに合わせてヒラヒラと涼しげに揺れ動く。 その上に着こんだ薄地のトップスは、胸の部分にデフォルメされた猫の、可愛らしい刺繍が施されている。 いつも彼女が髪に着けている、トレードマークと言ってもいい赤いリボンだけをそのままに、今日はかなりめかし込んできているようだった。 自分と会う為だけに、ここまで気合いを入れてオシャレしてきてくれてるんだと考えると、素直な嬉しさが込み上がってきた。 「うん。すごく似合ってるよ」 俺は笑顔で頷いた。 昔一緒に暮らしていた時も、基本ボーイッシュな服装ばかりだったので、こういった女の子らしい格好の彼女は何だか新鮮で、余計に可愛らしく見えた。 「ホント!? やった〜♪」 手放しで喜びながら、彼女は俺の左手側に回り込むと、嬉々とした様子で空いている方の腕に抱きついてきた。 これがアルクェイドとかだったなら、慌てて引きはがし、急いで周囲の目を確認するところなのだが、相手が都古ちゃんならそういう心配はない。 むしろ、長いこと会ってすらいなかったにもかかわらず、まだ兄として慕われていることが認識出来て嬉しかった。 「こうやって、お兄ちゃんと腕組んで一緒に歩くのも、久しぶりだね」 「そうだね。こうしてると、何だか一緒に暮らしてた時に戻ったような気がするよ」 「うん。遠野のお屋敷に行って、お兄ちゃん、変わっちゃってないか心配だったけど……昔のままで良かった♪」 「都古ちゃんも昔のままで、俺も嬉しいよ」 「そんなことないよ〜。私、こう見えても背ぇ伸びたんだよ? ……3cmくらいだけど」 「俺もそれくらい伸びたから、お互い昔と変わらないように見えるんだろうな」 「お兄ちゃんは、これ以上背高くなっちゃダメー! いつまで経っても、お兄ちゃんに追い付けないじゃない!」 「あははは」 拗ねたように頬を膨らませ、都古ちゃんが俺の体をポカポカと叩く。 あぁ、こんなにも穏やかで和やかな日は、一体どれくらいぶりだろう。 これでこそ、春休み最後の日に相応しいというものだ。 願わくは、今日一日ずっと、こんな風に終始平和な時を過ごせますように……。
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