「さて……」 制服の襟を正しながら、彼は私の方を振り返った。 「じゃ、行ってくるよ。レン」 その場に屈み込み、笑顔で語りかけながら、鞄を持っていない方の手で、私の頭を優しく撫でる。 彼の暖かい手から伝わる仄かな温もり。 それを感じているだけで、到底言葉では言い表すことが出来ないくらい、とても穏やかで幸せな気持ちになれた。 「志貴さ〜ん! そろそろお時間ですよ〜!」 「分かった〜! 今行くよ〜!」 階下から聞こえてくる使用人の言葉に、元気な声で応える彼。 立ち上がり、ズボンのポケットの中に手を突っ込む。 次いで、上着をパンパンと軽くはたくその仕草から察するに、忘れ物が無いかを簡単にチェックしているのだろう。 「これでよし……と。それじゃあ……ん?」 出掛けの挨拶を最後に、私に背を向け、扉へと向かおうとしていた彼の動きが、不意に止まった。 少し驚いた様な眼差しで、私を見つめる彼。 私は、そんな彼の正面へ回り込むと、一つだけ外れていた、その制服の下から二番目のボタンを止めてあげた。 慣れないことのため、ちょっとたどたどしい手つきではあったが、なんとか成功する。 顔には出さず、ほっと一安心。 「あ、気付かなかったよ。ありがとう」 軽く礼を告げ、もう一度私に微笑み掛けてくれる彼。 少し控え目だけど、見る者の心に強く焼き付く、印象的で明朗な笑顔。 「……」 その笑顔を、私は黙って見上げた。 見上げたまま、あの言葉を口にしようとした。 ……けれど、 「……」 ……案の定と言うべきか、それは言葉にならなかった。 微かに震える唇から漏れるのは、不規則にかすれた吐息のみ。 顔が何だか熱っぽい。 見る見る内に頬が紅潮していくのが、自分でも良く分かった。 そして最終的に、私はやっぱり恥ずかしくなってしまい、無言で彼から顔を背けてしまった。 「……どうしたんだ?レン」 そんな私に投げ掛けられる、訝しげな様子の彼の声。 当然だろう。 いきなり、こんな情緒不安定としか見れないような態度を、目の前で取られたら、誰だって困惑するに決まってる。 「志貴さ〜ん!?」 「分かってる〜!」 再び、階下から響いてきた催促の声に、彼が大きな声で応対する。 「ごめんよ。そろそろ行かないと、学校に遅刻しちゃうんだ」 彼が困ったように言う。 違う。 私は、彼を困らせたいんじゃない。 そうじゃないのに……。 「……」 黙したまま、私は一歩だけ横に動き、彼と扉の間からこの体を除けた。 「ごめんな、レン。帰ったら、ゆっくり付き合うからさ」 彼は、もう一度だけ申し訳なさそうに謝ると、ただ黙って立ち尽くす私に向かって手を振りながら、静かに部屋を後にした。 「……」 一人取り残された部屋に漂い始める、朝の光に包まれた静寂の時。 ……いや、確かに静かではあったが、それは物音一つとない静寂ではなかった。 彼と居る間は気付かなかったが、世界は色んな音で満ち溢れていた。 窓の向こうから、絶えず聞こえてくる車の往来の音。 それに混じって、時折届く小鳥のさえずりが、耳にとても心地よい。 「行ってらっしゃいませ」 「志貴さん、行ってらっしゃいませ〜♪」 「あぁ、行ってくるよ」 下の階からは、彼を見送る使用人達の声も聞こえる。
――……私も、見送りに行けば良かったかな?
一瞬、そんな考えが浮かんだものの、
――……ダメ。
それはすぐに否定された。 今、このままの私が見送りの席に立ったところで、せいぜい黙ったままうつ向いているのがオチだ。 そんなことでは、余計彼にいらない心配を掛けてしまうだけ。 そう思い直し、私は窓の方へと歩みを進めた。
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