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作品名:遡 [Soil] 競作

私たちの住む世界と似ている、でも少し違う世界。
砂漠の果てにあるかつて栄えた古代都市国家の遺跡。その誕生と破滅の謎。

卯月音由杞 2010年08月29日 (日) 23時44分(50)
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作品名:遡 [Soil]

【Prologue】

 昇ったばかりの陽光が谷に差し込むと、風向きが変わった。岩だらけの荒野を抜けてきた乾いた風は砂塵と熱を運び、干上がった川床、掘り出された住居と市場の遺跡を撫で、行き止まりにそびえる崖までたどり着く。
 東から西に向けて漏斗のように狭まっていく谷の上で、私は天幕の外からこの発掘現場を見下ろしていた。朝早くから既に、地元で雇った作業員たちは忙しく立ち働いている。発掘前の予想より大量に出土した住居の遺構は規則的に配置され、かつて繁栄していた都市の規模をうかがわせる。今では隊商も旅人もめったに近づかない、砂漠の果てだというのに……。
「先生、ちょっと来てくれないか」
 作業員たちの監督を任せている、メキルという年かさの男が谷底から坂を上ってきた。
「何か気になるものでも出土したのか?」
「アペンカが……北側の奥を掘らせてる若い男だが、骨を見つけたと言ってる」
 メキルの後に続きながら、私は考えをめぐらせる。陽に焼けた褐色の肌と深い眼窩、鷲のように尖った鼻を持つメキルは、いかにもこの地方の男という風貌だ。都市の廃墟から出土している頭骨からは、そういった特徴は見られない。何千年もが過ぎているとはいえ……彼らは一体どこから来て、どこへ行ったのだろうか。
「墓が見つかった?」
 都市の規模の割には大規模な墓地らしきものはいまだ発見されていない。離れた箇所……たとえば、谷の入り口より東にある平野は、かつて流れていた川の流れを利用して農地として使われていたと推測されているが、そういった場所に墓地があったのかもしれない。
「墓は墓だが、小さすぎる。また、犬の骨でしょうな」
 メキルがかぶりを振って答えた。彼の言うとおり、住居の裏庭らしき場所から犬の骨が出土することが多い。しっかりと埋葬された形跡があることから、後年に迷い込んだ野犬の死体ではなさそうだった。
 谷の南寄りをかつて流れていた干上がった川底を抜け、掘り返された住居の基礎が作る町並みを抜けて歩いていった。建物はどれも日干しのレンガを積み重ねたもので、いくつかの小さな通りと谷の中央を走る大通りに沿って、整った配置で並んでいる。自然発生的に生まれた集落でなく、何者かの指揮の下で計画された都市なのだと私は推測している。
 何者かの。
 私は谷の最も西奥、行き止まりとなっている崖の方に目をやった。この都市の支配者が住んでいた王宮と思しき遺構がそこで出土したのだ。
 崖を掘り抜くようにして石造の建物が作られているために崩落の危険があり、発掘作業の進行は遅れている。母国の学院からの支援では足りず、銀行、出土品目当ての貴族たちにまで声をかけて資金をかき集めたが、最後まで発掘を進められるかどうか……追加の援助を求められるような、何らかの発見が必要だった。
 王宮の入り口近くに描かれた壁画がそれになればいいのだが……崖の壁面を平らに均して顔料を彫り込んだその壁画には、犬と人間たちが共に生活する様々な場面が描かれていた。
 骨の件といい、壁画といい、この都市文明が犬たちと強い関わりを持っていたのは明らかだ。事前の調査と異なり、農業だけでなく狩猟や牧畜も盛んだったことを示唆しているのかもしれない……。
「先生」
 歩きながら考え込んでいた私にメキルが声をかけた。谷の中央にある目抜き通りの遺構にまで出てきたところで、犬が一匹、脇道から歩み出てきた。
「どこから迷いこんだのか、二、三日前からうろついてるんだ。作業員が食事の残り物をやるから、居ついてしまったようで」
「野犬だろう。夜に吼えてるのをときどき聞くが」
 この辺りに住む野犬はもっとオオカミに近い姿をしている、とメキルは否定する。今、目の前で日陰に寝そべり頭を掻いている犬は、褐色の短毛、突き出た三角の耳、細くつりあがった目……犬というよりはキツネに似た面構えをしている。
「『王の犬』か」
 件の壁画の中では、この犬に似た姿の絵が最も多く見られる。民衆を導くような動作をする、ひときわ目立つ人物と共に描かれているため、我々は『王の犬』と呼んでいた。
「北の方……ターブラの街辺りから逃げ出した飼い犬が野生化したんだろう。邪魔にならないならいいさ」
 私たちが先を急ごうとするとその犬は急に起き上がり、谷の入り口……東の荒野へ向けて駆け出した。朝日に向けて走っていくかのように。


【Scene 1】

 朝日に向けて走っていくティキの後ろ姿と、青々と茂った麦の畑がどこまでも……この国の民全員を養えるくらいどこまでも広がる様を、私は眺めていた。
 我々の命の源、ラプトの川は徐々に幅と深みを増しながら畑を縫って流れていく。用水路に十分な潤いを与えるだけの水量を蓄えながら。
 今日も日の光が風を連れてきた。遥かな山並みから雪の冷たさを乗せて駆け下り、畑の草いきれ、湿った土の香りを混ぜながら私を通り過ぎ、谷へと流れ込んで行く。雨季が近い証の風だ。その前にはまた、総出の刈り入れを行う事になるだろう。岩塩商人も、レンガ工も、果実酒造りの職人も、この時期ばかりは農夫に早変わりする。我々、王族も例外ではない。
 息を切らせながら駆け戻ってくるティキの褐色の肌、ピンと立った耳を見つめながら私は畦道に歩を進めた。私の国の民も、この犬たちも、今年も飢えずにいられるだけの実りが期待できそうだと安心しながら。
 農夫たちは朝早くから既に、忙しく立ち働いていた。藁で編んだ日除けの帽傘が朝の光を反射しながら麦畑の中で白く浮かび、動き回っている。雑草を抜き、崩れた畦を補修し、小さく実りをつけ始めた麦の穂が虫に冒されていないか確かめる。単純だが欠かせない仕事の繰り返しだ。
 彼らは私の姿を目に留めても、傘に手をやり会釈するばかり。これがこの国の王の扱いなのだ。他の土地では家来を引き連れて街を練り歩き、臣民をかしずかせるのを好む統治者たちもいると聞くが……父も祖父もその前の王たちも、そのようには望まなかった。
 私もだ。色鮮やかな衣も輝石の装飾も私は好まず、農夫たちと変わらぬ白い麻の貫頭衣をまとっている。ティキの他には共の者もいない方が気楽だ。国民の食糧と戦に対する備えに責務を負っている立場ではあるが、私も彼らも、これと言って変わるところのない人間たちだ。
 ほんの少しの違いを除いては……。

 麦畑と、少しばかり離れた丘にある果樹園を見回ると、もう太陽は斜めに見上げるまでに高く昇っていた。私は谷へと歩を戻す。今年はどのベリーも実の付きが良い。サンス酒の出来も期待できるだろう……。
 谷の入り口に構えた防壁で見張りの兵たちに声をかけ、異常がないのを確認した。周囲の都市とは国境を隔ててあまりに遠ざかっているし、このところはどこの国でも豊作が続いていると交易商人たちの話を聞く。そのせいか野盗の群れも久しく現れてはいない。衛兵たちの仕事といえば、荒野をうろつくオオカミの接近に気を配る程度だ。
 ティキが得意げに耳を立ながら、私を後ろに従えるようにして、谷の奥に向かって伸びる目抜き通り、ささやかな市の立ち並ぶ道に入っていった。パン焼き釜から立ち上る香ばしい匂い、輝石や香辛料を携えて訪れた交易商人たちとの値引きの掛け合い、木陰で老人の披露する昔話に群がる子供たち……。
 人々とすれ違っても市場は喧騒を保ったまま。私と目線を交わして少しばかりの微笑みの交し合いをする程度だ。
 子供たちも私には少しばかり畏れを感じているようだが、ティキに対しては別だ。無邪気に集まってきては頭を撫でたり、顔をなめ返されたりしている。
 犬たちは、この国では昔から我々の友として生きてきた。それは私の祖先、建国の父にまで遡る話だ……。

 ようやく子供らに解放されたティキを連れ、蛇行するラプト川にかけた橋を渡ると、谷の最も奥にある王宮にまでたどり着いた。崖を掘りぬいて築いた城で、いざというときに出来るだけ国の民が大勢立てこもれるような広間も、今は静まり返っている……ただ、壁面に描かれた鮮やかな色彩の絵が、国の生まれを饒舌に語るのみだ。
 壁画が語るのは次のような物語だ……私から数えて九代前、初代の王は、かつては遥か北の街で道具のように使われる奴隷の一人だったのだという。
 その豊かさ故に繰り返し盗賊の襲撃を受けていたその街は、ある夜、ついに城壁の守りも虚しく崩されて略奪の舞台となった。大勢の奴隷たちはこの混乱に乗じて荒野に逃げ出し、彼らは天の助けも得て、苦しい旅の末にこの谷にまでたどり着いた。
 天の助けとは、犬たちだ。
 旅の道半ば、五十人ばかりの元奴隷たちからなる一団は、飢えた野犬の群れに囲まれた。武器らしい武器も持たず、長旅で疲れ果てた彼らはもはやこれまでと覚悟を決めた……だが、彼らを導いていた男、初代の王が一歩進み出ると、犬たちは彼と心を通じ合わせたかのように大人しくなった。王は、彼らについてゆくよう奴隷たちを励まし、やがて豊かな川の流れる平野と安住の地となる谷を、そのときは数十頭の犬たちが住まうばかりだった土地を見出した。
 この谷はもともと犬たち、いま中庭の泉で無邪気に水浴びをしているティキたちのもので、我々の方が間借りをしているだけなのだ、と壁画は戒めている。


【Scene 2】

 その日は風のない夜だった。谷底からは昼のぬるい空気がようやく押し出され始めたばかりで、蒸し暑さがしぶとく残っている。これもまた、やがて訪れる雨季の湿気に比べれば快適なものだ。三十日ばかりも休み休みながら雨が降り続いては、今日のように外で食事というわけにも行かない。
 私は谷を一望できる王宮の露台で、妻と息子と共に食後の休息を楽しんでいた。足元にはティキも一緒だ。
「今年の作物の実りは?」
 妻のイラーテが、陶壷から私の酒盃に酒を注ぎながら聞く。昨年のサンス酒を寝かせておいた樽のものだ。
「例年になく順調だ。それに、雨害も虫害も、まだ『見えない』」
「あなたが言うのなら平気なのでしょうね」
 妻は微笑んで自分もサンス酒を口にした。若い酒の華やかな香りはないが、熟した甘みは私の好みだ。妻も……私と同じもう四十を越える年頃で、この酒のように若い頃とはまた違う雰囲気と美しさを見せるようになった。特に、授かるのが遅かったとはいえ、母になってからは。
 息子のルボロはティキに川で取れた魚の日干しを与えて遊んでいる。丸顔で骨太の私と違って妻の細身な体と顔に似たようだが、他の子供や犬たちと走り回って遊んでいるのは、私が同じ十歳だったころと同じだ。
 この谷は狩猟や牧畜には向いていないが、ラプトの川を少し下れば魚の群れはすぐに見つかる。その水が干上がるようなことも今年はなさそうだ。何年か前にあった氾濫も、事前に知れたのだからきっと、なにかあっても乗り越えられる……はずだ。
「東の砂漠との境界では、よろしくない噂を聞きますわ。交易商人たちから」
「カドケスの王権争いのことなら耳に入っている。それも、遠くのことさ」
 周囲の都市とかけ離れた地域にあるため、この国は戦乱の只中に巻き込まれることを免れてきた。ときどき訪れる野盗の群れも、少数ながら鍛えられた兵と、守りに適した谷の地形、そして事前の襲撃を予測できることで回避できている。
 もっとも、これがいつまで続くのかは分からない。

 私は侍従に寝床の準備を言いつけると、広間の壁画をまた眺め渡していた。夜は既に深くなり、昇り始めた満月の光が差し込み、床と壁とを蒼ざめた色に染め上げている。
 この壁画に描かれていないことがある。私と、その祖先たちについてだ。
 初代の王、犬と心を通じて、街を脱出した奴隷たちをこの谷に導いた男は、他の奴隷たちとは少し立場が異なった……夢の中にまだ起こらぬ出来事を見遥かす『予言者』だったのだ。
 盗賊に襲われて滅びたというその街では『予言者』は数十年に一度現れるものだったらしい。あるとき普通の人間が、旅の間に行方をくらませたかと思うと『予言者』となって帰ってくる。初代の王も有力な商人の息子だったが、砂漠を越えての隊商の旅の途中、砂嵐に遭って仲間とはぐれてしまった。奇跡的に生きて戻ってきたときには……なぜか不思議な夢を見る力が備わっていたのだという。
 その街では、人々にまだ訪れぬ災害を予告し恐怖を植え付ける『予言者』は一種の病、しかし有益な病と思われていた……時に作物を食い荒らすが、大地を埋める死骸が肥料となって翌年の実りを約束するイナゴの大発生のように。街を治める人間にとって『予言者』は自らの立場を脅かす脅威であり、また重要な警句の持ち主でもあったのだ。それゆえ普通の暮らしは送れず、半ば畏怖、半ば恐怖と白い目とを持って扱われてきた。
 それゆえ初代の王は、王者然とした態度をとることをことさら嫌った。出来るだけ民の中に溶け込もうとしたのだ。
 それでもその力を生かすことは恐れなかった。河川の氾濫も、十年に一度ほど訪れる空雨季による日照りも、稀にある野盗たちの襲撃も……夢が教えてくれて、それを乗り越えるべく備えを行ってきたのだ。
 私も無論、その力を受け継いでいる。いずれは……広場でティキと戯れているルボロにも……。
 私は中年にさしかかった己の顔を、満月と並べて泉に映した。この重荷を息子に受け渡すのがまだ先であってほしいと願いながら。


【Scene 3】

 茶色く変じて、しかし刈り入れる者のいない麦の穂がどこまでも連なっている。空気はじっとりと湿り、空には、今にも大雨の落ちてきそうな薄暗い雲が低く垂れ込めている。
 鋤を持った男が、休むことなく穴を掘り続けている。動いているのは男と、風に揺れる麦の穂と、辺りを駆け回っている犬たちだけだ。
 すぐ側に横たわる者たち、男も、女も、老人も子供たちも……目を閉じたままぴくりとも動かない。
 男は穴を掘り、家族と思しき数人をそこに横たえると、また土をかぶせていく。男は墓掘人なのか、しかし、この死骸の数は……。
 男は頭巾を外し、いまだ膨大な数の屍を眺め、打ちひしがれた目を伏せる。
 その顔は、眠る前に泉に映った私のものだった。

 私は寝台から跳ね起きた。全身は汗にまみれ、呼吸は荒いまま、治まらない。
 窓の外では雲ひとつない夜空に満月が昇っていた。川沿いの茂みから虫の声が響く。いつも通りの夜の姿だった。少なくとも私の見た夢の外では……。
 遥か遠く高く、山脈から降り落ちてくるような音色が届く。硬い銀器を響かせるように澄んだ、笛のような音。満月の折に聞こえる、正体の知れぬ楽奏だ。塩の交易商人に言わせれば、他の星の輝きを眩ましてしまう満月の夜に必ず響くというので……星の落ちる音、と。
 そして、私の夢に滑り込んで未来を見せる音だ。
 今の夢を思い返す。満月の光に隠された星のように、この国の運命も落ちていくのではないのか。これまでとは違う過酷な予知夢の情景に、私は戸惑うばかりだった。


【Interlogue】

 満月の昇るごとに聞こえるあの音、星の落ちる音、と周辺の部族が呼ぶ音が聞こえる。高く澄んだ音は硬い金属が打ち付けあうような響きに聞こえるが……天幕の中でしばらくその音に耳を傾けていた私は、発掘日誌を記す仕事に戻った。昨日聞いた話をまとめておく必要があるのだ。
 私はメキルと助手を伴い、少し離れた山間に住み、交易用の荷馬を繁殖させて暮らしている部族を訪れた。発掘現場の谷でかつて栄えていた都市について、言い伝えを収集していたのだ。
 平地と違い夜にはひどく冷え込む山中で、ろくに手入れもされていない土壁の家が十ばかりあるだけの寒村で、私たちは半ば目の見えなくなった老婆の住まいに招かれた。この村で最も年老いたその老婆が、時折思い出そうとするように切れ切れに語ったところによると、我々の発掘している都市は、あるとき、一夜にして滅びたのだという。
 滅びた理由は誰も知らず、ただ神の怒りに触れたのだと老婆は何かを畏れるような口調で言った。他の村でも同様の話を語る老人が多くいた。繁栄と突然の凋落。これが本当なら、いや、史実の一面でも語っているなら……。
 証拠としては弱いかもしれないが、多く出土している犬の墓がそれを裏付ける可能性はある。ある年代を境に、それより新しい犬の墓は発見されなくなっているのだ。突如として国の方針が変わったとしても、犬との関わりが急激に変わるようなことがあるだろうか。
 本当に一夜にして、あるいはごく短期間のうちにこの都市が滅びたとしたらその理由はなんだろう? 戦乱や襲撃? 自然災害? 疫病? 内乱?
 疫病か……病の伝染に対する危機感の弱い古代人ならば、最大で五千人ほどが暮らしていたと推測されているこの規模の都市ならば致命的かもしれない。しかしどれほど激烈な病気でも、一夜にして滅びたとはいくまい。
 詳細は謎のままだが、発掘が進むうちに何か分かるかもしれない。しかし予算は限られている。どこまで真実に肉薄できるだろうか……。


【Scene 4】

 始まりは老人と子供だった。
 いつもそうだ。最初に弱い者から捕まえていく。私も幼い頃、何人も兄弟を病で亡くした。だが今度ばかりは様子が違った。
 私が麦の刈り入れ時期について毎年助言を仰いでいる、老いた元農夫を訪ねたときのことだ。私を迎えた老農夫の息子は、父は体調が悪く会えないと告げた。見舞いだけでも、と寝室に通された私の見たものは……顔に黄斑を浮かべ、高熱のため苦しそうに息づく老農夫、そして同じ症状を見せる彼の孫娘だった。
 私は王宮から医師を呼び寄せて手当てさせたが、数日後には二人とも、熱が引くことなく命を落としたという知らせが入った。これすらも、予兆に過ぎなかった。
 他の子供たち、老人、そして大人たちにもこの熱病にかかる者が出始めた。何度か熱病が流行したことはこれまでにもあった。だがそれは冬に近い乾期のことで、今はまだ雨期の直前だというのに……。
 高熱と体の黄斑が数日続き、命を落とした者もいた。しかし生き延びたとしても手足にひどいしびれが残り、歩くことすらままならない者も多かった。医師たちも知る限りの薬草を与えて対処したが、お手上げだった。
 交易商人たちは訪れなくなった。病が広がるとの噂を恐れてだろう。
 患者は着実に増えていった。子供や老人はほとんどが三日も持たずに、苦しんだ後で眠るように死んでいった。体力のある大人たちはおおむね生き延びたが、もはや体が満足に動かず、働くことはできない。麦の刈り取りもできそうになく……このままでは今年の収穫が見込めず、飢えに耐えるほかない。
 だが事態は、その心配をするどころではないところまできていた。
 滅びはその始まりから三十日の間、国中を暴れまわった。五千余りいる民の大半がこの病に捕らわれ……妻と息子もついに、熱に冒された。
 妻は喉にしびれが残り話せなくなり、息子は……もう、土の下だ。

 私は侍従、官吏たちを全て家に帰し……もうほとんど、病に冒されていたが……王宮の扉を全て閉め切ると、油灯のか弱い光が照らすばかりの広間に一人、腰を下ろした。ティキの声が扉の向こうで聞こえるが、ここに入れるわけにはいかない。
 私は壁画を見上げた。初代の王、私の遠い祖先が元奴隷たちを導き、谷にたどり着く様を描いた絵物語だ。野犬の群れに手を差し出し着いてゆく王の姿、その頭上には銀色の球が光り輝いていた。
 国の民はこれを、夜の闇に輝く満月だと思っているが、実はそうではない。
 私は腹を上に向けてその場に横たわり、目を閉じた。先代の王、父が死の間際にこの場所で、私を前にしてそうしたのと同じように。
 胸の下の辺りが冷たい光を発し出すのを、閉じた目の向こうから感じる。やがて何かが肌を通り抜ける感触……目蓋を開いた私の目の前に、拳ほどの大きさの銀色の球体がぼうっと光りながら浮かんでいた。
 音無き音、満月の夜に響くあの笛のような音を響かせて、球体は私に語りかけてきた。私がこの球体を父より譲り受け、胸に収めたときのように。
『見せただろう、すでに。夢でだ。何が起こるのかを』
 私は国を間違って導いたのか?
『全ては偶然の結果だ。元々ここは犬たちしか住まなかった土地。彼らは病には冒されないようだ。彼らに土地を返すだけだ』
 もう、滅びは避けられないのか。
『全てを救う道は、ひとつしかない』
 銀色の球体から、まるで汗でもかいている様に液体が滲み出し、傍らにあった酒盃に滴り落ち始めた。薄く赤い、サンス酒のような色で、だがなんの香りもしない。
『これで病の流行は治まるだろう。使い方を間違えるな。寝る間際に、爪の先ほど。それでよい……』


【Scene 5】

 再び訪れた満月の夜。まだ無事な兵と侍従たちに命じ、小さな陶瓶に分けた薬を全ての家族に配らせた。病にかかった者、まだ健勝な者も、みな眠る前にほんのひと舐めばかり飲むように、ときつく言い聞かせて。今頃はみな、眠りについているだろう。妻にも先ほど、私が直接与えた。
 またあの笛のような金属音が響いてくる。やはりあれも私と同じ……この銀色の球体を体に持つ何者かの声、いや、悲鳴なのだろうか。
 私は薬を飲まなかった。私は……私には飲む資格がない。全てのけじめをつけなければならないのだ。
 
 朝、私はいつも通りに目覚めた。
 鳥の鳴き声、犬たちの吠え声、川の流れる音。彼ら、人間と関係ない者たちにとってはいつも通りの朝だった。我々人間は……いまだ静けさのうちに眠り続けていた。
 私はティキを連れて街を見回った。
 思った通り……全ての家。全ての寝室で、全ての民が病の苦しみから解放されていた。
 生の楽しみからも。


【Scene 6】

 低く垂れ込めた曇り空、蒸し暑い空気の下、私は汗を流しながら鋤を振り下ろし、墓を掘り続けた…夢の中で見たあの光景そのままに。
 何日かかったろう。布でくるんだ屍は中には耐え難い匂いを発するものもあったが……ひとつとしておろそかには出来ない。このためにこそ、私は薬を飲まず生き長らえたのだ。
 不思議なことに、ティキをはじめ犬たちは死肉にも食らいつかず、大人しく眺めていた。ようやくこの土地を取り返せて喜んでいるのか、それとも、彼らと我々は、本当に心が通じていたのか……。
 私は最後に妻の亡骸を埋め……もうその頃には、疲れで麻痺した心は何も感じなくなっており、別れの言葉すら浮かばなかった……五千と七百八十人の民を葬り終えた。
 あと一体の死体の処理が残っている。
 私自身の。


【Epilogue】

 半ば砂に埋もれた大広間、王宮の遺構の奥で発見された空間にはもうすでに、作業員と助手たちが集まっていた。私もメキルに呼ばれて駆けつけたところだ。
「壁の奥に部屋があったって? どうやって見つけた?」
 私は走ってきて荒い息のまま尋ねる。もう夕陽はとっくに沈んでしまい、昇りかけた満月の光が崩れた遺構に差しこんでいた。角灯を提げて集まる作業員たちをかき分けて前に出た私に、助手が説明する。
「犬が……例の迷い込んでた毛の短い犬がやたらと、この壁の前で吠えてたんです。大人しい犬で、こんなに騒ぐことは今まで無かったんですが」
「それで?」
「続きの発掘は明日と指示があったので引き揚げようとしていたんですが、気になった作業員が壁を叩いてみたら明らかに音が……向こうが空洞になっているような音がしまして」
 日干しレンガの積まれた壁がそこだけ取り壊されて人が一人通れるくらいの穴が開き……その向こうには確かに、空洞が広がっていた。傍らには、例の犬が座り込んで私と穴を交互に見比べるようにしており、もう吠えてはいない。
 私はメキルから角灯を受け取り、穴の向こう……すぐ突き当たりになっている狭い部屋と思しき空洞に近づいた。玉座、だろうか? 装飾を施された低い椅子のようなものが見える。しかしそれが何故このように、壁の向こうに隠されて……?
 私は灯りを近づけ、そこに誰かが座って……いや、何かが置いてあるのを認めた。
 脚を胡坐に組み、目を半ば閉じて顔を伏せた男の姿だ。暗くてはっきりとは分からないが、大理石のような乳白色の肌で……石像だろうか。しかしあまりにも、本物の人間のような姿をしている。これほど写実的な美術品がこの時代に存在していたとしたらそれだけで大発見だ。私の胸は高鳴った。
 私は足元に気配を感じた。あの犬が、入り口の脇を通って入ってきたのだ。犬は石像に飛びつくと……その顔を舐め始めた。

 眠りは音と光とによって破られた……眠り。私は眠っていたのだろうか。全くの夢なき眠りだった。
 全ての民を弔ったあと、内側から壁を塗りこめ自らを閉じ込めた、はずだ。死を迎えるために。
 体は動かない。薄くしか開かない目はかすかな光を捉え、耳は音を感じはするが……ああ、あの満月の夜の音。星の落ちる音が、私の体にまだ潜む銀の球と響きあう。
 私は、顔に暖かく濡れたものが触れるのを感じた。この吐息、この鳴き声……。
 ティキ。
 ひょっとすると、これは最後に見る事を許された予知の夢なのだろうか。
 私は遠い遠い未来の世界で目を覚まし……そこでまた犬たちと過ごすことが出来るのだろうか。
 今度こそ重い務め、民を導く重圧から逃れ、あの谷で。静かにティキたちと……。

卯月音由杞 2010年08月29日 (日) 23時46分(51)
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