幕府の危機を悟った第十五代将軍は、いよいよ起死回生の奇策に打って出た。 かつて五代将軍・綱吉公も採用した「生類憐みの令」を発布したのだ。その骨子は、犬を所有する者すべてに、とてつもない犬年貢をかけること。 土佐藩は昔から闘犬が盛んなお国柄。薩摩藩も、「犬を従えて銅像となることが大人物の証」という考えが、民のあいだに根強かった。 その犬たちに高い年貢がかけられたため、たまったものではない。あっという間に藩の財政は傾き、攘夷派は総崩れとなって、維新の夢はついえた。
それから、百四十年。 第二十三代将軍の御世になった今でも、犬年貢は犬税という名で残っている。お犬さまを連れて登校できるのは、旗本クラスまでの生徒だけ。平民クラスの私たちは、その華やかな登校風景を遠巻きにして眺めるのだ。 私のあこがれの君が連れているのは、白い紀州犬。三角の耳がぴんと立ち、飼い主に似て、とても凛々しい。 彼は剣道部の一年先輩だが、まだ話しかけたことはない。練習する場所も、平民の私とはまるで違うからだ。 一度でいいから、「おはようござりまする」と挨拶したい。きれいに剃った彼の月代をそばで心ゆくまで見つめていたい。
あれこれ夢想しながら歩いていると、自分の袴のすそをふんづけて転んでしまった。 「大事ないか」 埃だらけになって目を上げると、先輩がやさしい目で私を見下ろしていた。お犬さまがぺろりと、私のすりむいた掌を舐める。 「ほう。琴姫が知らぬ人間になつくとはのう。初めて見た」 先輩は力強い手で私を助け起こすと、真剣な眼差しで、ひたと私を見据えた。 「そなた、名は何という?」
あと数秒、答えるのが早かったなら、私の運命は変わっていたかもしれない。 「勝重さま」 芝浦のお姫(ひい)さまが、かんざしを揺らしながら、彼のもとに走り寄ってきたのだ。 彼女が抱きかかえているのは、小さな愛くるしい狆(ちん)だ。 ふたりは私のことなど忘れ、互いのお犬さまの賢さについて熱く語り合いながら、連れ立って校門に向かっていった。 その瞬間、私の恋は終わったのだ。
一年後、ふたりは学校を卒業すると同時に祝言を挙げた。家柄の釣り合った良いご縁だと、誰もがうわさした。 だが、別のうわさで聞くところによると、両家とも内情は火の車だそうだ。二匹分の犬税を払うゆとりは、とてもない。彼女の家のほうが格式は上だから、紀州犬が処分されることになるのだろう。 彼の悲しみを思うと、胸がはりさけそうになる。 はらはらと桜の花びらが舞い落ちる新学期の通学路を、新維新派の街宣車がスピーカーで大きな音を流しながら通り過ぎた。 『日米修好通商条約反対! 不平等条約の廃止を、今年こそ実現しよう』
彼の大国は、今度は高額なクジラ税を要求している。 昔から不殺生の掟を守って、豚肉も牛肉も食べない我が国。日本人の数少ない動物タンパク源であるクジラに、諸外国はとうとう狙いをつけたのだ。 欧米の後押しを受けた中国も、我が国各地の動物園に無理矢理パンダを貸与し、高額のパンダ税を取るつもりだという話も聞く。皮肉なことに、犬税によって救われた幕府は、同じ動物税によって、ふたたび転覆の危機にひんしている。 国際政治のことなど何もわからぬ私だが、こういう話を聞くと、とても悔しい。
もし、あのとき幕府が潔く倒れていれば、歴史は変わったのだろうか。 今ごろ、日本は諸外国と正々堂々と渡り合える国になっていたのだろうか。身分の差別なく、誰でもがお犬さまを飼える世になっていたのだろうか。 私にはわからない。 だが、数秒のためらいだって、ひとりの女の運命を変えるのだ。一国の主の無為な逡巡や権力争いが、どれほど多くの国民の運命を変えることか。 りっぱな殿さま方は、きっと御存じであられよう。
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