遅い夏が来ていた。 例年より半月ほどは遅く鳴き始めた蝉が、庭の木立から降ってくる。庭に面した一室に、襖や障子を開け放したまま、二人は座っていた。一人は月代を綺麗に剃り上げ、もう一人は町人髷を結っている。 部屋には風が通り、庭に出ているときほどの暑さは感じられない。過ごしやすいのはいいが、稲の実りはどうであろうか、と町人髷の丸出田子兵衛(まるでたごべえ)は思った。 「狗の爪、という秘剣があるそうだな」 侍が切り出した。衿谷五一郎(えりやごいちろう)という名で、藩では目付の役に就いている。田子兵衛を見るその目つきは険しい。だが、睨まれている田子兵衛は泰然としたものだ。五一郎の身体は細身で、しかしよく見れば鍛え上げられているのがわかる。方や田子兵衛はでっぷりと肥えていて、目方だけでいえば、五一郎の二人分くらいはありそうだった。 「こちらの調べで、お主にその秘剣が伝えられていることが、わかった。その力を、ぜひ借り受けたい」 田子兵衛は答えず、茶を一口啜った。 「調べはついておるのだ。逃れられぬぞ、田子兵衛」 「衿谷様」 田子兵衛は五一郎をまっすぐ見据えた。 「確かに、狗の爪なる秘剣はございました。ですが、それはもう、むかしのことでございます」 「何だと」 田子兵衛は出っ張った腹をさすってみせた。 「衿谷様もご存知の通り、厳しい修行を積んだことはございます。ですが、それももう五年以上昔の話。今のこの身体では、とてもとても」 田子兵衛は笑ってみせたが、五一郎の表情は変わらない。 「謀っているのではあるまいな。八松」 「よせ」 田子兵衛の目つきが鋭くなった。 八松は、田子兵衛の幼名だ。元服の前、まだ齢八つの頃。五一郎の家と田子兵衛の家は、組屋敷で隣り同士だったのだ。その名からもわかるとおり、田子兵衛の前身は、侍であった。 五一郎が田子兵衛を八松と呼んだのは、お役目でなく友として聞くぞ、と言っているのだ。 「首を突っ込むな。ただでは済まんぞ」 「そういうわけにもいかん」 「俺がどうして町人になったか、知らぬ訳ではあるまい」 「それは」 五一郎と田子兵衛は、どちらも徒士組の家だった。二人とも隣町の加勢道場へ通い、隣り同士ということもあって、互いに腕を競い合った。 五一郎が十九で父親の後を継ぎ、徒士組見習いの役に就いたが、田子兵衛には思いも寄らぬ道が待っていた。 城下町から二十里離れた、赤谷(あこうだに)へ修行に出されたのだ。 赤谷は藩中でも有名な忍びの里で、古来より数多くの忍びを輩出していた。太平の世になり、公儀の差し出口もあって、赤谷の里は藩命で封鎖された。が、藩は密かに、忍びとは別のお抱え隠密集団を育てるための拠点として、里を残していたのだった。 その隠密見習いに、田子兵衛は選ばれたのだ。齢十六のときだった。 五年の辛い修行に耐え、田子兵衛は見事、一人前の隠密として成長した。そうして里を出、胸を張って城下へ帰ったが、待っていたのは丸出家の断絶という事実だった。 田子兵衛が帰る一年前。赤谷も連なる隙羅山(ひまらやま)に、全身毛むくじゃらの大男が出没すると噂になり、徒士組七名が真偽を確かめるため、雪の隙羅山に入った。父親の田子祢(たごね)は、ちょうどその探索隊に加わっていたのだが、隊は激しい吹雪に巻き込まれ、七名のうち何と四名までもが行方知れずになる大惨事となった。 もちろん大男などは発見できず、また甚大な被害を出したことで、命辛々帰り着いた三名は切腹。行方不明となった四名も、徒士組にあるまじき士道不覚悟とのことで、家はそれぞれ断絶の憂き目にあった。 当然田子兵衛は、己の帰還を告げ、丸出家の再興を願い出た。五年間に及ぶ己の修行奉公を、取引に使うつもりであった。 嘆願は、退けられた。このたびの士道不覚悟は、寛恕するべきではない、というのが、上の意向だった。 あまりにとりつくしまのない、一方的な裁断に、田子兵衛は疑念を感じていた。それで田子兵衛は、己で事実を調べてみることにした。 幸いにして、探索のわざだけは、この五年間で鍛えに鍛え上げられていた。大抵のことは、調べ上げてみせる自信があった。 調べてみるうちに、意外な事実が耳に入ってきた。 現在、国元の家老職についているのは、江鷺杉大介兵衛(えろすぎだいすけべえ)である。五年前、田子兵衛が赤谷行きになる前は、まだ中老職であった。この五年の間に派閥の力を蓄え、のし上がったのである。 そのきっかけとなったのが、件の隙羅山探索である。探索に加わった七名のうち六名は、江鷺杉に敵対する派閥に深く関わる人物ばかりであった。そして彼らが失敗したことで、派閥の長たちも発言権を弱め、江鷺杉が伸長する契機となったのだ。 明らかな、政争の犠牲者であった。ただ、どれほど調べてもわからなかったのが、なぜそこに父が加えられていたのか、ということであった。父の田子祢は、どの派にも属しておらず、中立を保っていたのだ。 「ともかく、帰ってくれ。俺はもう、城に関わる気はない」 五一郎が音を立てて湯飲みを置いた。 「江鷺杉が憎くはないのか、田子兵衛」 「それとは別のことだ」 「あやつがいては、藩はよくならぬ。お主の商いにも関わるぞ」 「それは困っているが、仕様のないことだ」 田子兵衛が営んでいる馬車馬堂は、小さな黄表紙屋だ。はじめたばかりの頃はさっぱり客が入らなかったが、月から妖が移住してくる話や、女の乳から海獣が生えるといった、いわゆる奇天烈本と呼ばれるものを並べはじめてから、徐々に客が付きはじめた。他では扱わないものを扱っている。そういった評判もようやく出はじめた頃だった。今では手代一人と、小女一人を雇い入れるまでになっている。 だが今年から、藩は新たな税制を導入する動きがあり、それには黄表紙屋も含まれていた。その徴税がはじまることになれば、田子兵衛の店はかなり厳しくなるだろう、と思われた。 「どうしても、駄目か。隠密の修練を積んだ者、しかも剣の修行をしていた者となれば、もうお主しかおらぬのだ」 「くどいぞ、五一郎」 五一郎はさらに口を開きかけたが、何も言わず、口を閉じた。 庭に目をやる。田子兵衛も誘われて庭に目を向けた。 隅にある小屋に、五一郎が目を留めた。 「あれは犬か」 田子兵衛は頷きを返した。 「獅子丸(ししまる)という。老犬だ。今ではもう、ほとんど動かず、いつも小屋の中にいる」 「まさか、牙忍ではなかろうな」 笑い声が響いた。 「覗いてみればよかろう。一目でわかる」 牙忍というのは、忍者犬のことだ。赤谷では忍者犬の育成が盛んで、過去に数多くの牙忍と牙忍遣いを育て上げ、他国からも恐れられていた。もちろん田子兵衛も牙忍の扱いは教え込まれている。だがそれも、過去の話だった。 「今日はこれで帰る。だが、諦めたわけではないぞ。お主は、必ず引き受けることになる。必ずだ」 予言めいたことを告げて、田子兵衛を睨み付ける。田子兵衛も、真っ直ぐにその眼を見返した。 刀を手に、庭へ降りる。それから、犬小屋を覗いた。 「確かに、これでは使えなさそうじゃ」 五一郎が笑った。田子兵衛も笑った。 小屋の中には。しょぼくれた、一目で老犬とわかる灰色の毛並みが、丸まって眠っていた。
それから一と月が何事もなく過ぎた。 また来ると言っていた五一郎はそれから姿を見せることもなく、田子兵衛は訝しく思ってはいたが、日々の雑事に追われ、時折頭の端に浮かべる以外には頓着せず、ただ過ごしていた。 変化があったのは、一と月と半ばが過ぎた頃だった。 「旦那様」 奥で帳面を付けていた田子兵衛のもとに、手代の善兵衛(ぜんべえ)が、驚愕の面持ちで寄ってきた。 「どうかしましたか、善兵衛さん」 できるだけ落ち着いた声色で言うと、善兵衛は震えながら、両手を差し出した。 「い、今、衿谷家の家中と申される方が、これを旦那様にと」 それは一通の書簡だった。田子兵衛は受け取り、善兵衛を下がらせると、書簡を開いた。 五一郎からの手紙。嫌な予感がした。 こういった予感は、外れた試しがない。今度は、田子兵衛が驚愕する番だった。 手紙を畳み、立ち上がると、奥を出て下駄を履いた。 「私はちょっと出てきます。今日はもう、店を閉めておしまいなさい」 店先を整頓している善兵衛にそう声を掛け、歩き出した。そうして角を曲がり、善兵衛たちから姿が見えなくなると、着物の裾をひっ掴み、駆け出した。 見慣れた屋敷町をひた走る。町人姿の己が武家屋敷を慌てて駆けてゆくのは、周りの目を引くことだろう。だが、田子兵衛は足を止めることができなかった。 一件の屋敷の前で、ようやく足を止めた。 人垣ができていた。人垣を掻き分け、門を目にすると、飛び込んできたのは交差された竹垣だった。 なぜだ。田子兵衛は、心の中で叫んだ。どうしてなんだ、五一郎。 中間と思しき男が二人、脇から出てきて竹垣を片付けた。扉が開かれる。 白装束の侍が、戸板に乗せられて、門の外へ出てきた。 「五一郎」 変わり果てた友の姿が、そこにあった。 声を掛けたかった。だが、今の田子兵衛は、町人の身分である。そのようなことをすれば、手討ちにされても文句は言えない。 そして何より。ここで田子兵衛は、目立ってはいけなかった。五一郎からの手紙を受け取って。そして今、五一郎の姿を目にして。そうなったのだ。 だから田子兵衛は、ただ無言で見送った。
五一郎の死から、また一と月ほどが過ぎた。 表向き、田子兵衛は、何事もなかったかのように日々を過ごしていた。だが、胸の奥底に燃える火が、日を経るごとに大きくなっていることに、田子兵衛自身は気付いていた。 黄表紙屋の商いの合間を縫って、田子兵衛は再び探索のわざを存分に遣った。それで、わかったことがあった。 五一郎の切腹は、上役への讒言の、あまりの行きすぎのためである、ということに表向きはなっていた。だが、真実は違う。五一郎は上役の暗殺を試み、その企みが露見したことで、腹を切らされたのだ。 五一郎が狙った上役は、国家老、江鷺杉大介兵衛。 それだけわかれば、田子兵衛には、十分だった。 店を閉め、手代と小女を帰してから、田子兵衛は部屋で一人、五一郎からの手紙を開いた。 そこには、己が死なねばならぬことの詫びと、事ならずして散らねばならぬ事への無念。そして、田子兵衛の母、暮(ぐれ)の行方が綴られていた。 再興が退けられた後、せめてにもと思い、田子兵衛は母の行方を探した。だが、田子兵衛ほどの男がどれほど手を尽くそうとも、家が断絶になった後の母の行方は、遥として知れなかった。 奇妙なことではあった。が、三月ほど探索を続け、手を失った田子兵衛は、母を捜すことを一旦諦めたのだった。 その母の行方を、五一郎が知っていた。 母は、江鷺杉の七番目の妾として、囲われていたのだった。 なぜどれだけ探ろうとも見つけられなかったのか。なぜ父が、探索隊に組み入れられたのか。すべてが、それでわかった。 今まで隠していてすまない。手紙の末は、そう締められていた。 上を向いた。そのまま、零れないよう天井を眺めた。 五一郎は二つのことで、己の代わりに江鷺杉を討とうとしたのだ。そう思った。 手燭で手紙を焼いて、立ち上がった。着物を着替えてから、獅子丸の飯を用意する。 下駄を履いて、庭へ回った。月は出ていないが、夜目の利く田子兵衛には、何の心配もなかった。 眠っている老犬の前に、飯を盛った椀を置く。 「長い間、ご苦労であったな」 飯には、毒を混ぜてある。苦しまずに死ねる種類のものだ。 愛犬に背を向けると、下駄の音高く、田子兵衛は歩き出した。 真っ暗な夜道を、ただひたすらに歩く。橋を越え、屋敷町の方へと歩みを進める。咎める者は、どこにもいない。いつの間にやら、下駄の音も響かぬようになっていた。 屋敷町の最も奥。最も大きな屋敷。月夜であれば、立派に枝を伸ばした桜の木が見えるだろう。 下駄を脱ぎ捨てると、左袖から鉤縄を取り出し、塀に引っかける。重そうな身体をものともせずに軽々とよじ登り、塀の上に立った。 塀から降りずに、それを伝って桜並木に回る。桜に飛び移り、そこから今度は屋敷の屋根へ。無音で屋根上を動き、中程の瓦を外して、内側へ忍び込んだ。 この日、江鷺杉が屋敷に帰っていることは、調べ上げてあった。昨日は田子兵衛の母である暮のいる妾宅に泊まった。その翌日は屋敷に帰るというのが、田子兵衛の知る限り、江鷺杉の変わらぬ習慣であった。 寝所の天井から、寝所に降り立つ。わざと、音を立てた。 江鷺杉が跳ね起きる。普段から暗殺を気に掛けている者の反応だった。 「な、何奴」 江鷺杉の口を、左手で押さえた。 「丸出田子兵衛、と云えばわかるか」 江鷺杉の目が、わからぬ、と告げていた。 「ならば。お主が囲っている暮は拙者の母上だ、と云えばわかるであろう」 江鷺杉の目が、驚愕に見開かれた。 江鷺杉が手を伸ばし、刀を掴んだ。田子兵衛を突き飛ばし、鯉口を切る。 暗闇に慣れた目で、確かめていた。賊は、町人姿だった。刀を提げていない。背中に負ってもいない。懐に呑んでいたとしても小刀の類。 斬れる。そう判じて抜刀した。 「小獅子丸(こじしまる)」 田子兵衛は低く告げた。 小さな影が一つ。田子兵衛の背から、疾風の如く飛び出した。 江鷺杉の瞳に移ったそれは、一頭の子犬。そして、鋭く研がれた爪。 ぎらりと光った爪は、過たず老人の頸を狙った。 血が激しく、障子に散った。 力を失った江鷺杉の身体が、布団に伏せる。田子兵衛は着物を直し、小獅子丸を背中にしがみつかせると、天井へ登った。 半刻後。闇に包まれた屋敷町を、子犬を連れたひょろ長い姿が、下駄の音高らかに、悠然と歩み去っていった。
翌日。国家老江鷺杉大介兵衛の屋敷が喧噪に包まれていた。主の大介兵衛が昨夜、何者かに殺害されたのだ。 すぐに典医や目付が駆けつけ、死体を改めた。 「これは面妖な」 傷口を目にした典医は、訝しく思った。 はじめは、刀傷だと思っていた。だがよくよく確かめてみると、それはどうやら、獣の爪か牙で裂かれたものように、見えたのだ。 「お犬様の天誅か。まさかのう」 町の片隅。黄表紙屋。馬車馬堂はひっそりと静まり、戸は閉じられている。 田子兵衛の行方は、誰も知らぬ。
|