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私はもう、父の声を思い出せない。顔ですら写真を見なければ思い出せない時がある。人が死ぬという事はそういう事なんだと思う。それでも私は、「その日」の事は忘れる事ができない。できれば「その日」こそ思い出したくない事なのに。静かに眠る父と、父の死を告げる医師と、泣き崩れる家族。そして、何も理解できずにただ立ち尽くしたままの私。「その日」を今でも、私の中から消すことは出来ない。それが今、私がこの時を生きているという事なのだと思う。 「その日のまえに」は、私を無条件に泣かせた。「反則だよ。こんな本。」読み終わって、私は苦笑した。 父が死んで9年 になる。9年前と同じ悲しみが今私の中にあるわけではないし、長い年月は私が父の死を受け入れるには十分な時間だった。私はもう父の死を受け入れていて良いはずなのだ。でも9年経ってもなお、私は父の死に対してむやみに触れたくないのである。 人の死は、どんなに長い年月を経ても良い思い出になんてならない。私はこの本に二度泣かされた。一度目は健哉と大輔にあの頃の自分を重ね、人の死を受け入れる事について考えたとき。二度目は主人公と和美の姿を見つめる中で、初めてあの頃の父と母の気持ちを考えたときである。自分の死を受け入れることと、最愛の人の死を受け入れること。 逝ってしまう人と残される人とでは一体どちらの方が絶望や悲しみ、喪失感は強いのだろうか。「この世に起こることで、無意味な事なんて無いんだよ。」ある人は自信に満ち溢れた顔でそう言った。では、なぜ人は死ぬのか。人が死ぬという事に何の意味があるのか。本の中で健哉は言う。「どうしてママだったんだろうね。」と。そして「運が悪いよね。サイテーだよね。ママのせいじゃないのにね。と。この言葉が私の心を締め付けて離さない。 どうして私の父だったのか。私の父は仕事が出来て優秀な人だった。父の死を、多くの人が嘆いてくれた。そして父はとても優しい人だった。自慢の父だった。世の中にはテロや殺人、虐待等を平気で行う人が沢山いる。人の命の重さを全く理解していない人間が沢山いる。なのに、どうして父でなければならなかったのか。どうして大好きな父が死んで、最低な人間がこんなに生き残っているのか。こんな事、愚問でしかない。分かっている。けれど、思わずにはいられないのだ。 運が悪い。そう、運が悪かっただけ。でもそんな言葉で納得できるはずがない。主人公は妻の死の意味を考え始める。ならば私も人の死について、父の死について、しっかり向き合い答えを出そうと思った。
このつづきが読みたい方は、http://www.shueisha.co.jp/mesena/2007/2.html
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2007/08/24(Fri) 16:47
No.121
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